第九話 夜明け前の旅立ち
迎えの日まで、あと一日。
リシェは朝からずっと落ち着かなかった。食堂で配られたパンはいつもと同じ固さで、スープもいつもと同じ薄さだった。けれど何もかもが少し違って見えた。
食堂の長い机、窓際の欠けた花瓶、廊下に並んだ古い靴。ずっと当たり前のように見てきたものばかりだ。明日になれば、もう見ることはないのかもしれない。
「リシェ、聞いてる?」
隣の女の子に声をかけられ、顔を上げた。
「……ごめん。何?」
「明日、行っちゃうんでしょ?」
「……うん」
「いいなあ。お金持ちのおうちなんて」
女の子は羨ましそうに言った。リシェは曖昧に微笑んだ。
以前なら、自分もそう思っただろう。温かい部屋や、おいしい食事、きれいな服。そんな暮らしを想像するだけで、胸が弾んだはずだ。でも今は別のことばかり考えている。
会頭はどんな人なのだろう。ほかの子どもたちはどこにいるのだろう。どうして、誰も答えてくれないのだろう。
パンを小さくちぎった。答えのない疑問が、胸の奥にいくつも積もっていた。
*
昼過ぎに院長室へ呼ばれた。机の上には、先日いただいたワンピースが畳まれている。
「明日はこれを着ていきなさい」
院長は満足そうに言った。
「会頭様に失礼のないようにね」
「……はい」
「それから、迎えの馬車には余計な荷物を持ち込まないこと。必要なものは向こうで用意してくださいます」
少し迷ってから尋ねた。
「あの……」
「何ですか?」
「もし、行きたくないと言ったら……どうなりますか?」
院長の手が止まった。部屋の空気が、わずかに変わった気がした。
「……何を言っているのです?」
「もし、です」
視線を落とした。
「まだ会頭さんのことを何も知らないので……」
院長は深く息を吐いた。
「リシェ。あなたは自分がどれほど恵まれた機会をいただいているのかわかっていますか?」
「……はい」
「いいえ。わかっていませんね」
院長の声は、いつもより少し硬かった。
「会頭様ほど立派な方が、あなたを引き取りたいとおっしゃっているのです。こんな機会は、二度とないかもしれませんよ」
リシェは黙っていた。
「それにあなたはもう十歳でしょう。いつまでも孤児院で暮らせるわけではありません」
その言葉は静かだった。だが胸に重く落ちた。
「……わかりました」
小さく答えると、院長はようやく表情を和らげた。
「よろしい。明日は早いのですから、今日はきちんと休みなさい」
頭を下げ、部屋を出た。廊下へ出ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
*
夕方、また書庫へ向かった。窓から差し込む西日が、古い本棚を赤く染めている。いつもの図鑑を取り出した。
『大陸の植物と魔獣』
擦り切れた表紙、何度も開いたページ、知らない誰かが書き込んだ小さな文字。ゆっくりと本をめくった。
図鑑の中には、まだ見たことのない世界が広がっている。深い森や遠い山、不思議な植物、見知らぬ魔獣。ずっと、いつか見てみたいと思っていた。
けれど、その「いつか」は、誰かが与えてくれるものだと思っていた。
新しい家族ができたら。大人になったら。もしも、魔法が使えるようになったら。そんなふうに何かを待っていた。
図鑑を閉じた。魔法はきっとこれからも使えない。お金だってほとんどない。
それでも。
「……私、行きたい」
小さな声が書庫に落ちた。
ヴァルツ商会の屋敷ではない。誰かが決めた場所でもない。自分の知らない世界へ、自分の足で。
本を胸に抱えた。怖くないわけではなかった。森には魔獣がいる。道に迷うかもしれない。お腹が空くかもしれない。それでも、知らない誰かに未来を預けることのほうが、今はずっと怖かった。
「……逃げよう」
今度は、はっきりと口にした。その瞬間。
ばたん。
書庫の扉が勢いよく閉まり、びくりと肩を揺らした。窓は閉まっている。風もない。続いて、棚の奥で何かが倒れる音がした。
がたん。
ぱらぱらと本が落ちる。
「……え?」
扉を見つめた。こんなに大きな音がしたのは、初めてだった。いつもなら小さな足音や、物が少し動くくらいなのに。
図鑑を抱きしめた。
「……どうしたの?」
返事はなく、ただ部屋の空気が急に冷たくなった。
扉へ歩き、取っ手に手をかける。動かない。
「……あれ?」
もう一度、押してみたが、扉はびくともしなかった。鍵はかかっていないはずだった。少し力を込めた。
「……開いて」
しばらくして、かちゃりと小さな音がして、扉が開いた。
廊下を覗いたが、誰もいない。古い建物だから、扉が引っかかったのかもしれない。今までこんなことはなかった。
書庫を振り返った。落ちた本が床に散らばっている。その向こうで、窓際のカーテンが静かに揺れていた。
「……ごめんね」
なぜかそんな言葉が口からこぼれた。何に謝ったのか、自分でもわからなかった。
*
その夜、孤児院が寝静まるのを待っていた。
寝台の下には小さな布袋がある。中には着替え一組、銅貨三枚、覚え書き、それから夕食のときに残しておいたパンが一つ。水筒にはできるだけ水を入れた。図鑑は布袋に入りきらなかったので、布で包んで紐をかけた。
持ち出してはいけないと言われた本。でも置いていくことはできなかった。
しばらく本を見つめた。
「……ごめんなさい」
誰にともなく呟いた。それから布袋を肩にかけた。ほかの子どもたちは眠っている。
そっと寝台を降りると、床板がきしりと鳴った。思わず足を止めたが、誰も起きない。息を殺して歩き、部屋の扉に手をかけた。そのとき。
とん。
足元で小さな音がした。いつもの音だった。
振り返ったが、暗い部屋には誰もいない。けれど今夜はその音が、すぐ近くから聞こえた。
とん、とん。
まるで誰かが後ろをついてくるようだった。
「……行ってくるね」
小さく囁いた。返事はなく、足音がぴたりと止まった。
*
廊下は暗かった。月明かりだけを頼りに階段を下り、玄関へ向かうと鍵がかかっていた。当然だった。夜の孤児院の扉は、いつも施錠されている。
しばらく考えた。裏口ならどうだろう。厨房の奥には、野菜を運び込むときに使う小さな扉がある。
厨房へ向かった。廊下の角を曲がったとき、背後で何かが鳴った。
がたん。
足を止めて振り返ると、暗い廊下の向こうで、壁にかけられた小さな絵が傾いていた。息を呑んだ。
今までの不思議な出来事とは、少し違う。まるで、誰かが自分を引き止めようとしているようだった。
図鑑を抱き直した。
「……ごめんね」
小さく呟く。
「でも行きたいの」
その言葉を口にした瞬間、廊下の奥で扉が強く閉まった。
ばたん。
走り出した。厨房へ入り、裏口の取っ手を回す。開かない。鍵がかかっている。
「……どうしよう」
辺りを見回した。窓は高い位置にあり、十歳の自分では手が届かない。
そのとき棚の上から何かが落ちた。
からん。
小さな金属音がした。振り返ると、床に古い鍵が落ちていた。見覚えのある、厨房の裏口に使う鍵だった。いつもは職員が高い棚にしまっている。
鍵を拾った。どうして、今ここに。考えている時間はなかった。
鍵を差し込むと、かちゃりと音がして扉が開いた。冷たい夜風が頬を撫でた。一歩、外へ出た。
裏庭には誰もいない。空には星が瞬いている。
孤児院を振り返った。暗い窓、古い石壁、ずっと暮らしてきた場所。そのどこかに、いつもの小さな足音が聞こえた気がした。
「……ありがとう」
小さく呟いた。それから、庭の端にある古い通用門へ向かった。
門の留め具は錆びついていたが、両手で押すとぎい、と音を立てて動いた。身を滑り込ませた。
門の向こうには夜の町が広がっていた。誰もいない道、遠くの街灯、知らない場所へ続く暗い道。
一度だけ振り返った。孤児院の窓が、月明かりを受けて鈍く光っている。もう戻れないかもしれない。そう思うと胸が少し痛んだ。だが足は止まらなかった。
図鑑を抱きしめ、夜の道へ踏み出した。初めて自分で選んだ道だった。
カルンの町がまだ眠っている頃、小さな少女は誰にも知られず、孤児院をあとにした。




