第十話 初めての森
カルンの町を離れたとき、空はまだ夜の色を残していた。東の空だけが薄く白み始めている。
リシェは道の端に立ち、来た道を振り返った。朝靄の向こうに町の屋根が重なっている。そのどこかに、十年間暮らしてきた孤児院があった。
もうすぐ朝の鐘が鳴る。そうすれば、自分がいなくなったことに誰かが気づくだろう。院長は怒るだろうか。職員たちは探しに来るだろうか。ヴァルツ商会の人たちにも、知らせが届くのだろうか。考え始めると、胸が落ち着かなくなった。
肩の布袋を持ち直した。
「……行こう」
小さく呟いて、前を向く。誰も返事をしない。誰にも行き先を指示されない。それが少し不思議だった。
*
町の外には、広い畑が続いていた。朝露をまとった葉が、昇り始めた太陽の光を受けて輝いている。畑の向こうには低い丘があり、そのさらに奥には、青く霞んだ山並みが見えた。
思わず足を止めた。
「……広い」
孤児院の窓から見る空とはまるで違う。建物に遮られることなく、どこまでも続いている。
風が頬を撫でた。草の匂いがする。遠くで鳥が鳴いている。ゆっくりと息を吸った。知らない場所の空気だった。
道端には、小さな黄色い花が咲いていた。しゃがみ込んで花びらを数える。
一枚、二枚、三枚。
図鑑で見たことがあるような気がするが、名前が思い出せない。布に包んだ図鑑へ手を伸ばしかけた。
そのとき、遠くから荷車の軋む音が聞こえた。顔を上げると、街道の向こうに人影が見える。慌てて立ち上がった。
ただの行商人かもしれない。でももし、カルンから来た人だったら。孤児院のことを知っている人だったら。
道端の低い茂みへ身を寄せ、荷車が通り過ぎるまで息を潜めた。やがて音が遠ざかると、そっと顔を出した。
「……よかった」
安堵すると同時に、少しだけ残念にも思った。せっかく見つけた花の名前を確かめられなかったから。
花をもう一度振り返った。またどこかで見つけられるだろうか。そう思いながら歩き出した。
*
太陽が高くなる頃には、足が痛くなっていた。孤児院でも毎日働いていたけれど、長い道を歩き続けることには慣れていない。靴底は薄く、小石を踏むたびに足の裏へ硬い感触が伝わってくる。肩にかけた布袋も、朝より重く感じられた。
道端の木陰に腰を下ろし、袋からパンを取り出した。昨夜の夕食で残しておいた小さなパンは、すっかり固くなっている。
それを二つに割った。片方は今食べて、もう片方は後に残す。そう決めて、少しずつかじった。空腹だったので、固いパンでもおいしかった。
水筒から水を一口飲む。残りはまだ半分ほどある。
「……大事にしないと」
蓋を閉め、布袋へ戻した。
孤児院では食事の時間になれば何かが出てきた。量は少なかったし、美味しいものばかりではなかった。それでも明日の朝になれば、またパンとスープが用意されていた。
ここでは違う。自分で見つけなければ、何も食べられない。
残りのパンを見つめた。こんなに小さかっただろうか。朝には、もう少し大きく見えた気がした。
*
午後になると畑は少しずつ姿を消し、道の両側に木々が増え始めた。遠くに見えていた森が、いつの間にか目の前まで近づいている。
足を止めた。背の高い木々が、空を覆うように枝を伸ばしていた。木々の間には、街道から分かれて森の奥へ入っていく細い道が続いている。
しばらく、その入口を見つめた。街道を進めば人に出会うかもしれない。カルンから探しに来た人が通るかもしれない。でも森の中には魔獣がいる。図鑑にもそう書かれていた。
唇を結んだ。どちらが安全なのだろうか。しばらく迷ってから、木々の間に続く細い道へ足を踏み入れた。
「……少しだけ」
森を抜けられそうになければ、引き返そう。そう決めた。
*
森の中は、思っていたよりも静かだった。頭上では枝葉が重なり、陽の光が細い筋になって地面へ落ちている。
湿った土の匂い。苔に覆われた倒木。木の根元に群生する、小さな白い花。何度も足を止めた。見たことのないものばかりだった。
図鑑に載っていた植物もあるが、絵で見るのとはずいぶん違っていた。葉は思っていたよりぶ厚く、花はずっと小さい。同じ種類のはずなのに、色が違うものもあった。
布に包んだ図鑑を取り出し、木の根元にしゃがみ込んでページをめくった。似た植物を見つけたが、花びらの形が少し違った。
「……これかな」
目の前の花と図鑑の絵を交互に見た。確信は持てない。そのとき、ページの端に書かれた小さな文字が目に入った。
『記録と実物は、必ずしも一致しない。』
誰かが書き残した、古い書き込みだった。もう一度、目の前の花を見た。図鑑とは少し違う。でも確かにここに咲いている。
「……本当だ」
思わず笑みがこぼれた。本の中でしか知らなかった世界が、今は目の前にある。触れられるし、匂いもわかる。風に揺れる様子だって、見ることができる。
しばらく花を眺めていた。それから、図鑑を大切に包み直した。
もっと見てみたい。そんな気持ちが、胸いっぱいに広がっていた。
*
けれど、森はリシェの思うようには歩かせてくれなかった。木の根が道を横切り、地面には湿った落ち葉が積もっている。少し進むたびに足を取られた。
やがて、さっきまで続いていた細い道がどこにあるのかわからなくなり、立ち止まった。
「……あれ?」
振り返ると、似たような木がいくつも並んでいる。右を見ても左を見ても、景色が変わらない。
少し歩いてみて、すぐに足を止めた。見覚えのある倒木があった。さっきもここを通った気がする。
「……迷った?」
声に出した途端に胸が冷たくなった。布袋を握りしめた。森に入った場所まで戻ればいい。そう思った。
でも、どちらから来たのかがわからない。頭上を見上げても、枝葉が重なって空がほとんど見えなかった。
深く息を吸った。図鑑には、森で道を失ったときのことも書かれていた。むやみに歩き回らない。周囲の地形を確かめる。水の音や日の傾きを手がかりにする。
耳を澄ませた。鳥の声。それから葉が擦れる音。遠くでかすかに水の流れる音がした。
「……川?」
その場の木の幹に、落ちていた白っぽい石で小さな印をつけた。もし戻ってきたら、同じ場所だとわかるように。それから、水音のする方向へゆっくり歩き始めた。
*
しばらく進むと、小さな沢が見つかった。透明な水が丸い石の間を流れている。思わず駆け寄った。
「……よかった」
水筒の水はもう少ししか残っていなかった。
沢のそばにしゃがみ込み、水面を覗いた。冷たそうな水だった。はたして飲んでも大丈夫なのだろうか。
図鑑には、澄んで見える水にも気をつけるように書かれていた。上流に何があるかわからないからだ。
少し考えた。水を汲んでも煮沸する道具は持っていない。火を起こす方法も、よく知らなかった。
「……困ったな」
水面を見つめた。冷たい水が絶え間なく流れていく。こんなにたくさんあるのに、安心して飲めるかどうかもわからない。
結局、残っていた水筒の水を一口だけ飲んだ。それから沢のそばの平らな石に腰を下ろした。
足が痛い。お腹も空いている。朝には何でもできそうな気がしていた。でも今は少し歩くだけでも大変だった。
空を見上げた。木々の間から見える空が、少しずつ夕方の色に変わっている。もうすぐ日が暮れる。
孤児院なら、そろそろ夕食の準備が始まる頃だろう。食堂には薄いスープの匂いが漂っているはずだ。誰かが食器を並べて、年下の子どもたちが騒いでいる。あの騒がしさが、今は少し懐かしかった。
布袋から残りのパンを取り出した。半分しかない。これを食べたら、もう何も残らない。しばらく見つめてから、ほんの少しだけちぎって口に入れた。乾いたパンをゆっくり噛む。お腹は少しも満たされなかった。
*
夕暮れが近づくにつれて、森の色は変わっていった。明るい緑だった葉が、深い青色に見える。木々の間の影が長く伸び、足元の道も見えにくくなってきた。
立ち上がった。今のうちに、夜を過ごせる場所を探さなければならない。でも、どんな場所が安全なのかもわからない。
大きな木の根元や、倒れた幹の陰、少し高くなった地面。どこを見ても安心できる場所には思えなかった。
遠くで鳥が鋭く鳴いた。森の中には魔獣がいる。夜になれば、昼間とは違う生き物が動き始める。図鑑で読んだ言葉が頭の中に浮かんだ。
布袋を胸に抱えた。
怖い。今度は、はっきりとそう思った。孤児院を出ると決めたときも怖かった。でも、あのときは外の世界がもっと明るく見えていた。今は木々の間に広がる暗闇がどこまでも深く感じられる。
唇を噛んだ。戻りたいとは思わなかった。でも進むのも怖かった。
「……どうしよう」
小さな声が、森の中に消えた。返事はなかった。
孤児院では、誰もいない場所で小さな音がすることがあった。何かが動いたり、扉が開いたり。ここにはそんな音さえない。聞こえるのは、風と葉が擦れる音だけだった。
初めて、自分が本当に一人なのだと感じた。
空には最初の星が一つだけ輝き始めていた。その星を見上げて、布に包んだ図鑑を抱きしめた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、呟く。大丈夫かどうかは、わからない。それでも、そう言わなければ足が動かなくなりそうだった。
暗くなり始めた森を見渡した。今晩、過ごせる場所を見つけなければならない。
初めての自由な一日は、思っていたよりもずっと長く、そして短かった。
森に夜が訪れようとしていた。




