第十一話 森に眠る夜
夕暮れはあっという間に過ぎていった。木々の間に残っていた赤い光が薄れ、足元の落ち葉が灰色に沈んでいく。
リシェは沢のそばに立ち、周囲を見回した。夜を過ごす場所を探さなければならない。でも何を基準に選べばいいのか分からない。
大きな木の根元なら風を避けられるだろうか。倒木の陰なら誰にも見つからないかもしれない。それとも、沢の近くにいたほうがいいのだろうか。
水面を見つめた。水の流れる音はどこか心地よかった。だが、夜になれば動物たちも水を飲みに来るかもしれない。図鑑にはそんなことが書かれていた気がする。
「……少し離れよう」
沢に沿って歩き、やがて水音が小さくなる場所まで来た。そこには大きな倒木が横たわっていた。根元の土が盛り上がり、その陰には、子ども一人が身を寄せられそうなくぼみがある。
しゃがみ込み、枯れ枝が落ちていないか、虫が集まっていないか、土が濡れていないか、覚えている限りのことを確かめた。
十分に安全なのかは、わからない。それでも、何も考えずに座り込むよりはよかった。
布袋を置き、くぼみの中へ身体を滑り込ませた。倒木が風を遮ってくれる。少なくとも何もない場所よりは暖かそうだった。
*
座ってみると、思っていた以上に身体が疲れていた。足の裏がじんじんと痛み、膝も重い。肩から布袋を下ろしただけで、身体が少し軽くなった気がした。
靴を脱いで足を確かめると、かかとの皮膚が赤くなっていた。片方には、小さな水ぶくれができかけている。
「……痛い」
指先でそっと触れ、すぐに手を離した。
孤児院では毎日床を磨き、洗濯物を運び、庭仕事も手伝っていた。だからそれなりに体力があると思っていた。でも朝から歩き続けただけで、もう立ち上がるのも億劫だった。
自分の細い手首を見つめた。袖から覗く腕は、同じ年頃の子どもたちよりずっと細い。十歳になったばかりの頃、年下の子に間違えられたことがあった。そのときは少し悔しかった。だが今は、そんなことを考える余裕もない。
靴を履き直して、布袋から残りのパンを取り出した。ほんの少ししか残っていない。小さくちぎって口に入れると、乾いたパンを噛む音が妙に大きく聞こえた。
最後のひとかけらを飲み込み、空になった手のひらを見つめた。
「……明日は、何か見つけないと」
そう呟いた途端、お腹が小さく鳴った。
*
夜が深まるにつれて、森は昼間とは別の場所になった。どこかで枝が折れる音がする。落ち葉の上を何かが走っていく。頭上では、鳥とも獣ともつかない声が響いた。
膝を抱えた。孤児院の寝室にも、夜になるといろいろな音がした。古い床板の軋みや、窓枠を叩く風、誰もいない廊下から聞こえる小さな足音。でも孤児院には壁があった。扉も屋根もあった。薄い毛布でも、身体を包むことができた。
今は何もない。
両腕で身体を抱きしめた。夜の冷気が服の隙間から入り込んでくる。鼻の先が冷たく、指先も少しずつ感覚が鈍くなってきた。
「……寒い」
口に出しても暖かくはならなかった。
布袋から着替えを取り出した。薄い上着だったが、何もないよりはましだ。今着ている服の上から重ねて、膝を胸に引き寄せる。
それから図鑑を包んでいた布を肩にかけた。小さな布だったので、背中までは覆えなかった。それでも少しだけ落ち着いた。
倒木に背を預け、目を閉じる。眠らなければ。明日も歩かなければならない。眠ろうとすると、かえって周囲の音が気になった。
*
どれほど時間が経ったのだろう。
低い唸り声のような音で目を開けた。すぐ近くではない。けれど遠くもなかった。木々の向こうで何かが動いている。
がさり。
落ち葉が擦れる。続いて重たい足音が聞こえた。
倒木の陰から、そっと外を覗いた。月明かりの届く場所に大きな影が見えた。四本の脚。背中には、岩のように盛り上がった硬そうな突起が並んでいる。頭は低く、肩のあたりには黒い毛が生えていた。
目を見開いた。図鑑で見たことがある。たしか、森の奥に棲む魔獣だった。名前までは思い出せなかった。
その魔獣はゆっくりと地面の匂いを嗅いでいた。
身体を縮めた。見つかったらどうなるのだろう。図鑑には魔獣に近づかないようにと書かれていた。逃げるべきだろうか。けれど、走れば音がする。
動けなかった。
やがて魔獣が顔を上げた。暗がりの中で、二つの目が光った。まっすぐこちらを見ている。
息を止めた。見つかった。そう思った。でも魔獣は襲ってこなかった。
しばらくリシェのいる方を見つめていたが、やがて静かに頭を下げた。それから何事もなかったように向きを変え、木々の奥へ歩いていった。重たい足音が少しずつ遠ざかっていく。
しばらく動けなかった。
「……行っちゃった」
ようやく声が出た。怖かったはずなのに、不思議と胸の奥は静かだった。
あの魔獣がこちらを見たとき、ほんの一瞬だけ、何かが伝わってきた気がした。言葉ではない。音でもない。ただこちらを確かめて、それで十分だと思ったような。そんな曖昧な感覚だった。
首を傾げた。
「……気のせい、かな」
そう呟いて、もう一度倒木の陰へ身を寄せた。
*
その後もなかなか眠れなかった。寒さで目が覚めるたび、身体を小さく丸めた。時折、森の奥から動物の声が聞こえた。遠くで狼のような遠吠えが響いたときには、思わず図鑑を抱きしめた。
魔獣は襲ってこなかったけれど、普通の獣までそうとは限らない。それはリシェにもわかっていた。小さな身体を守るように、布袋を胸元へ引き寄せる。
目を閉じ、孤児院のことを思い出した。食堂の長い机、古い書庫、窓から見える小さな庭。毎朝、鐘の音で目を覚ましていた。
決められた時間に食事をして、決められた仕事をして、決められた場所で眠っていた。あの暮らしは窮屈だった。だが、何もかもが恐ろしかったわけではない。楽しいことも少しはあった。
胸の奥が、きゅっと痛むのを感じた。
「……みんな、どうしてるかな」
声に出すと少しだけ寂しくなった。今頃は、自分がいなくなったことに気づいているだろう。探しているかもしれない。心配している子もいるかもしれない。
唇を噛んだ。帰りたいとは思わなかった。だが寂しくないわけではなかった。その二つは同じではないのだと、初めて知った。
*
やがて森の奥がわずかに明るくなり始めた。最初は気のせいかと思った。木々の間に薄い青色の光が差し込んでくる。鳥の声が一つ、また一つと増えていった。
ゆっくり顔を上げた。
「……朝?」
空を見上げると、枝葉の隙間から淡い光が見えた。夜が終わったのだ。
しばらく、その光を見つめていた。眠れたのは、ほんの少しだったと思う。身体は冷えきっている。足も痛い。お腹も空いている。
それでも。
「……朝になった」
もう一度、呟いた。今度は少しだけ笑みがこぼれた。
誰かに起こしてもらったわけではない。誰かが守ってくれたと、わかるわけでもない。それでも自分はここで夜を越えた。
ゆっくり立ち上がり、倒木に手をついて身体を支えた。冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
森は昨日とはまた違う顔をしていた。朝露に濡れた葉が光り、遠くでは小鳥がさえずっている。夜の間、あれほど恐ろしく感じた木々も、今は穏やかに見えた。
布袋を肩にかけ、図鑑を包み直して大切に抱えた。オルテンまでどれくらいかかるのかわからない。食べ物も水も、十分ではない。これから先、何が待っているのかも知らない。
でも、ひとつだけわかったことがある。
夜はいつまでも続くわけではない。
「……今日も、歩こう」
小さく呟いた。そして朝の光が差し込む森へ、一歩を踏み出した。




