第十二話 森の小さな食卓
朝の森には冷たい霧が漂っていた。
リシェは倒木のそばで、ゆっくりと靴紐を結び直した。かかとが痛い。昨日できた水ぶくれは少し大きくなっていて、靴を履くだけでも顔をしかめてしまう。
「……困ったな」
小さく呟いた。オルテンまではまだ遠い。街道案内に描かれていた距離を思い出すと、何日も歩かなければならないはずだった。だが今の足では、昨日と同じだけ歩ける自信がない。
それにもっと困ったことがあった。お腹が空いていた。
昨夜、残りのパンを食べてしまったので、布袋の中にはもう食べ物がない。空っぽの袋を覗き込んだ。
「……本当に、何もない」
わかっていたことなのに、少しがっかりした。
孤児院ならそろそろ朝食の時間だ。薄いスープと固いパン。昨日まではそれほど好きでもなかった。今は、あの温かいスープがたまらなく恋しかった。
「……探さないと」
*
まずは沢の近くへ戻ることにした。昨日見つけた沢なら水がある。その周りには食べられる植物も、ひょっとすると生えているかもしれない。
木々の間をゆっくり歩き、昨日、白い石で印をつけた木を見つけた。その少し先から水の流れる音が聞こえてきた。
「……よかった」
ほっと息を吐いた。同じ場所に戻れた。それだけのことが、今は嬉しかった。
沢のそばにしゃがみ込み、周囲を見回す。湿った土、苔のついた石、細長い葉を広げる草。図鑑を取り出し、植物の項目を開いて食べられるものを探した。
図鑑には、森に生える野草や木の実がいくつも載っていた。でも似た植物も多く、食べられるものと毒を持つものがよく似ている場合もある。
慎重にページをめくった。
「……これ、かな?」
沢の近くに、小さな丸い葉をつけた草が生えていた。図鑑には似た形の植物が載っている。けれど、葉の裏の色が違った。
一枚だけ葉を持ち上げ、裏側を確かめた。図鑑の絵では薄い緑色なのに、目の前の葉は赤みを帯びている。
「……違う」
手を離した。お腹は空いている。だが知らないものを食べるのは怖かった。もし毒だったら。こんな森の中では、誰も助けてくれない。
*
しばらく歩くと、低い木の枝に小さな赤い実がついているのを見つけた。丸くてつやつやしている。朝露をまとった実は、宝石のようにきれいだった。
思わず手を伸ばしたが、途中で止めた。赤い実。丸い形。確か図鑑に似たものがあったはずだ。
慌ててページをめくり、しばらく探してようやく見つけた。絵は目の前の実によく似ていた。その下には小さな文字が書かれていた。
『果実は美しいが、口にしてはならない。』
実を見つめた。
「……危なかった」
お腹が空いていると何でもおいしそうに見える。図鑑を閉じ、そっと木から離れた。
もう少しで食べてしまうところだった。自分が思っていたよりも、ずっと危ないことをしているのかもしれない。そう思うと背筋が少し冷たくなった。
*
昼近くになっても、食べられるものは見つからなかった。大きな木の根元に座り込んだ。
足が痛い。お腹も空いている。喉も渇いていた。水筒には昨日から残していた水がほんの少ししか残っていない。沢の水は澄んでいたけれど、そのまま飲んでいいのかわからなかった。
水筒を握りしめた。
「……どうしよう」
水が目の前にあるのに、安心して飲めない。食べ物になりそうな植物があるのに、どれを選べばいいのかわからない。
図鑑にはたくさんのことが書かれている。けれど、本を読んだだけでは生きていけないのだと、少しずつわかってきた。
膝を抱えた。今なら孤児院の薄いスープだって、きっとごちそうに思える。そんなことを考えていると、お腹が小さく鳴った。
「……うう」
額を膝につけた。泣きたいわけではなかった。ただ少しだけ、何も考えたくなくなった。
*
そのとき頭上で鳥が鳴いた。顔を上げると、小さな茶色い鳥が低い枝にとまっている。鳥は首を傾げるようにして地面を見下ろし、それから少し離れた場所へ飛び降りた。
何かをついばんでいる。
ぼんやりとその様子を眺めていた。鳥は地面から何かを拾い、また枝へ戻った。そして、もう一度同じ場所へ降りていった。
「……何を食べてるんだろう」
ゆっくり立ち上がり、鳥を驚かせないように、少し離れたところから地面を覗いた。そこには小さな木の実がいくつも落ちていた。茶色い殻に包まれた、細長い実だった。
一つ拾い上げた。どこかで見たことがある。図鑑のページをめくり、木の実の項目を開いて形を比べる。殻の筋、先端の尖り方、実の大きさ。
しばらくして、指が止まった。
「……あった」
図鑑にはよく似た実の絵が載っていた。森に生える木の実で、食用になると書かれている。ただし生のままでは苦みが強く、火を通すと食べやすくなるらしい。
顔を上げた。頭上には同じ形の実をつけた木がある。葉の形も図鑑の絵と似ていた。幹の模様も確かめる。落ちている実だけではなく、木そのものの特徴も一致しているようだった。
「……これなら」
実をいくつか拾い集めた。そしてすぐに手を止めた。
火がない。鍋もない。どうやって食べればいいのだろう。
手の中の木の実を見つめた。せっかく見つけたのに。少し考えてから、布袋の端に実を包んだ。今は食べられなくても、あとで役に立つかもしれない。
*
午後になると、沢の下流へ向かって歩き始めた。水の流れをたどれば、どこかで人の通る道に出られるかもしれない。少なくとも、同じ場所をぐるぐる歩くよりはよさそうだった。
時々立ち止まり、周囲の木々を確かめた。知らない植物を見つけるたび、図鑑を開きたくなる。でも今日はあまり寄り道をしないことにした。
食べ物も水も十分ではない。それに、足も痛い。今は先へ進むことが大切だった。
しばらく歩くと、沢の流れが少し広くなった。水辺には丸い石が増え、木々の間から明るい光が差し込んでいる。
足を止めた。向こう岸に何かが見えた。細い木の枝が何本かまとめて置かれている。自然に落ちたにしてはきれいに並んでいた。
首を傾げた。
「……誰か、いたのかな」
さらに近づくと、石の間に黒く焦げた跡があった。焚き火の跡だった。その周りには、小さな木片や灰が残っている。
思わず駆け寄った。誰かが、ここで火を使ったのだ。つまりこの場所まで人が来たことがある。
周囲を見回した。誰もいない。でも少しだけ希望が湧いてきた。人の通る道が近くにあるのかもしれない。
*
焚き火の跡のそばには、平らな石がいくつか並んでいた。その一つに腰を下ろし、手の中の木の実を見つめた。火を起こせれば、食べられるかもしれない。だが、火打ち石も持っていない。
灰の中を覗いた。当然ながら、火は残っていなかった。小さく息を吐いた。
「……そう簡単にはいかないか」
それでも、ここには誰かがいた。それがわかっただけでも少し安心できた。
周囲を見回すと、倒木のそばに古い木の器が落ちていた。ひびが入っていて、片側が欠けている。捨てられたものらしい。
拾い上げた。器の底には泥がこびりついているが、まだ形は残っていた。
「……使えるかな」
沢の水で器を洗った。何度かすすぐと、泥はほとんど落ちた。水を入れてみる。少しずつ漏れてしまうが、すぐに全部なくなるほどではなかった。
しばらく器を見つめた。完全なものではない。でも何もないよりはましだった。そう思うと少しだけ嬉しくなった。
*
日が傾き始めた頃、焚き火跡から少し離れた場所に腰を下ろした。今日は昨日ほど歩いていない。それでも身体は重かった。
食べ物はまだ口にできていない。水筒の水もほとんど残っていない。でも昨日とは違うこともあった。
食べられそうな木の実を見つけた。人が通った跡も見つけた。それから、少し欠けた木の器も。
布袋の中を覗いた。銅貨三枚、着替え、図鑑、覚え書き。そして、拾い集めた木の実。持ち物がほんの少しだけ増えていた。
「……明日はもう少しうまくできるかな」
小さく呟いた。お腹は空いている。足も痛い。でも朝よりは少しだけ、できることが増えた気がした。
そのとき、遠くから乾いた音が聞こえた。
こん。
こん。
木を叩くような音だった。顔を上げた。鳥の声ではない。風の音でもない。
もう一度。
こん、こん。
一定の間隔で響いている。耳を澄ませた。誰かが木を切っているのだろうか。それとも、何かを作っているのだろうか。音は森の向こうから聞こえていた。
ゆっくり立ち上がった。
人がいる。そう思った。
だがすぐに歩き出すことはできなかった。もし、カルンから探しに来た人だったら。もし、ヴァルツ商会の人だったら。
布袋を握りしめた。助けを求めたい気持ちと、見つかりたくない気持ちが、胸の中でぶつかっていた。
遠くでもう一度、木を叩く音がした。その方向を見つめた。
森の中に自分以外の誰かがいる。それだけは、確かなようだった。




