第十三話 森の炭焼き小屋
こん、こん。
木を叩く音が森の向こうから聞こえていた。リシェは沢のそばに立ち、じっと耳を澄ませた。音は一定の間隔で続いている。鳥の声でも枝が折れる音でもない。
誰かが何かを作っている。そう思ったけれど、すぐには歩き出せなかった。
カルンの孤児院を抜け出してから、まだ二日しか経っていない。今頃は町中で探されているかもしれない。もし見つかったら、また、あの馬車に乗せられるのだろうか。
布袋の紐を握りしめた。お腹が空いている。喉も渇いている。足も痛い。誰かに助けてもらいたかった。でも誰でもいいわけではなかった。
「……少しだけ見てみよう」
小さく呟いた。近づいて危なそうなら戻ればいい。そう決めて、音のする方へ歩き始めた。
*
森の中を進むにつれて、空気に変わった匂いが混じり始めた。湿った土や葉の匂いとは違う。少し焦げたような、煙の匂いだった。
足を止めた。木々の間から細い煙が立ち上っている。その下には小さな小屋があった。屋根は黒ずんだ板で葺かれ、壁には薪が積み上げられている。小屋の横には土を盛った丸い窯のようなものが見えた。
炭焼き小屋だ。
図鑑ではなく、孤児院の書庫で読んだ仕事の本を思い出した。木を蒸し焼きにして、炭を作る。そのための小屋が森の中にあると書かれていた。
こん、こん。
音は小屋の前から聞こえていた。木の陰に身を寄せると、そこには一人の老人がいた。白い髭を生やした、背の低い男だった。厚い革の前掛けをつけ、切り株の上で木片を割っている。男は時々手を止め、窯の方を確かめていた。
しばらく、その様子を見つめた。怖そうには見えない。だが見た目だけではわからない。昨日の商会の使者だって優しそうだった。
小さく息を吐いた。どうしよう、声をかけようか。それともこのまま離れようか。
*
「そこにいるのは、誰だ?」
突然、男が言った。リシェは肩を跳ねさせた。男は木片を置き、こちらを見ている。
「……あ」
「隠れてないで、出てきな」
怒っているような声ではなかった。だが逆らいにくい響きがあった。
少し迷ってから木の陰を出ると、男は目を丸くした。
「……子ども?」
小さく頭を下げた。
「……こんにちは」
「こんにちは、じゃないだろう。こんなところで何をしてる」
「……歩いていました」
「見りゃわかる」
男は眉を寄せた。
「一人か?」
頷いた。
「親は?」
「……いません」
男は黙った。それから、リシェの姿を上から下まで眺めた。大きすぎる服、擦り切れた靴、細い腕、肩にかけた小さな布袋。
「……何歳だ」
「十歳です」
男はもう一度、目を丸くした。
「十? 八つくらいかと思ったぞ」
少しだけ視線を落とした。
「……よく言われます」
男は頭を掻いた。
「それで、十歳のお嬢ちゃんがこんな森で何をしてるんだ」
答えに迷った。孤児院から逃げてきた。そう言えば、連れ戻されるかもしれない。でも嘘をつくのも苦手だった。
「……オルテンへ行きたいんです」
「オルテン?」
男は驚いたように眉を上げた。
「ここから歩いてか?」
「……はい」
「ずいぶん遠いぞ」
「……知っています」
「いや、たぶん知らんだろうな」
男は大きく息を吐いた。
*
「腹は減ってるか?」
男が尋ねた。一瞬、迷った。すると、お腹が小さく鳴った。男はそれを聞いて鼻を鳴らした。
「答えは聞かなくてもわかるな」
そう言うと小屋の中へ入っていった。リシェはその場に立ち尽くした。逃げたほうがいいのだろうか。だが男はすぐに戻ってきた。
手には黒いパンと、小さな木の椀を持っている。椀からは湯気が立っていた。
「ほら」
目を見開いた。
「……いいんですか?」
「余り物だ。食えるなら食え」
椀の中には、豆と野菜の入ったスープがあった。思わず喉を鳴らした。温かい。それだけで、胸がいっぱいになりそうだった。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げると、男は切り株を指さした。
「そこに座れ」
腰を下ろし、椀を両手で持った。一口、スープを飲む。豆の柔らかさ、野菜の甘み、少し強い塩味。目を見開いた。
「……おいしい」
男は何も言わず、薪を積み直していた。
もう一口飲んだ。身体の奥まで温かさが広がっていく。孤児院を出てから、初めての温かい食事だった。ゆっくりと最後の一滴まで飲み干した。
*
食事が終わると、男は水筒を指さした。
「水はあるのか」
「……少しだけ」
「見せてみろ」
水筒を差し出すと、男は蓋を開けて中を覗いた。
「ほとんど空じゃないか」
「……沢は見つけたんですけど、そのまま飲んでいいかわからなくて」
男は少しだけ感心したように眉を上げた。
「それは正しい。見た目がきれいでも、腹を壊すことはある」
そう言って、小屋の中から湯冷ましを持ってきた。水筒に注いでくれる。
「これなら飲める」
「……ありがとうございます」
「礼はもういい」
男は水筒を返した。それから、リシェの靴を見た。
「足、痛いだろう」
驚いた。
「……どうしてわかるんですか?」
「歩き方を見ればわかる」
男は小さな布切れを取り出した。
「靴擦れならこれを当てておけ。汚れたままにするなよ」
布を受け取った。柔らかく、清潔な布だった。
「……何から何まで、すみません」
「謝るな。子どもが腹を空かせてるのを見たら、飯くらい出す」
男はぶっきらぼうに言った。リシェは布を握りしめた。
昨日からずっと、誰かに助けてもらうのが怖かった。でも今は少しだけ胸の奥が温かかった。
*
「で、オルテンへ行くんだったな」
男は切り株に腰を下ろした。
「ここからなら、沢沿いに下って古い木橋を渡れ。その先に林道がある」
真剣に耳を傾けた。
「林道を西へ進めばいずれ街道に出る。だが、日が暮れる前には無理だろう」
「……そうですか」
「森で一人寝るのは危ない。特に普通の獣は腹が減ってりゃ子どもでも襲う」
頷いた。
「……魔獣も、ですか?」
男は少し考えた。
「魔獣は種類による。人を襲うものもいるし、そうでないものもいる。だが普通の獣と同じだと思わんほうがいい」
昨夜見た大きな魔獣を思い出した。あの魔獣は自分を見つめただけで去っていった。不思議だった。だが男の言葉を聞くと、少し納得した気もした。
「……わかりました」
「それから、森を歩くなら音をよく聞け。足元ばかり見てると周りが見えなくなる」
頷いた。男は立ち上がり、小屋の中へ戻った。しばらくして細長い木の棒を持ってきた。
「これを持っていけ」
「……何ですか?」
「杖だ。転びにくくなる」
受け取った。自分の背丈より少し短い、軽い木の棒だった。握る部分が滑らかに削られている。
「……ありがとうございます」
男は肩をすくめた。
「森を歩くなら、足元を確かめながら進め」
*
小屋の前に立った。布袋には拾った木の実がまだ入っている。水筒には水が満たされ、手には杖がある。足にはもらった布を当てた。朝よりもずっと心強かった。
「あの……」
男を見上げた。
「お名前を、聞いてもいいですか?」
男は少し驚いたような顔をした。
「名前?」
「……はい」
「ただの炭焼きだ。名前なんぞ、知らなくても困らん」
少し考えた。
「……でも、覚えておきたいです」
男はしばらく黙っていた。それから短く笑った。
「頑固な子だな」
少しだけ頬を赤くした。
「……すみません」
「謝るなと言っただろう」
男は頭を掻いた。
「ガルドだ」
「……ガルドさん」
小さく繰り返した。
「私は、リシェです」
「そうか」
男は頷いた。
「気をつけて行けよ、リシェ」
「……はい」
深く頭を下げ、沢へ向かって歩き始めた。
*
少し進んだところで振り返ると、小屋の前にはまだガルドが立っていた。手を振った。ガルドは片手を軽く上げ、それからまた仕事に戻っていった。
こん、こん。
木を叩く音が森に響く。リシェはその音を聞きながら歩いた。
知らない人に会うのは、怖かった。でも知らない人がみんな怖いわけではない。そのことを今日は少しだけ知った。
手の中の杖を握り直した。森の向こうにはまだ知らない道が続いている。怖いこともきっとある。でも優しい人に出会うこともあるのかもしれない。
小さく微笑んだ。そしてガルドに教えられた道をたどり、森の奥へ歩き出した。




