第十四話 獣たちの森
ガルドの炭焼き小屋を離れてから、リシェは沢に沿って歩いていた。右手にはもらったばかりの木の杖、左肩には着替えや木の実を入れた布袋。そして胸元には、布で包んだ古い図鑑。
昨日までと同じ森なのに、今日は少しだけ歩きやすかった。杖があるだけで、足元の石や木の根を確かめられる。靴擦れも、当ててもらった布のおかげで少し楽になっていた。
「……便利だな」
杖を見つめた。特別な魔道具ではない。ただの木の棒だ。それでも今のリシェには大切な道具だった。
握り直し、沢の流れる方向へ歩き始めた。
*
しばらく進むと沢の幅が少し広くなった。水の流れは穏やかで、岸辺には丸い石が並んでいる。
足を止めた。泥の上にいくつもの足跡が残っていた。小さなものや、細長いもの。そして、自分の手のひらほどもある大きなもの。
しゃがみ込んだ。
「……何の足跡だろう」
図鑑を取り出して魔獣の項目を開き、足跡の形が描かれたページを探した。どれも少しずつ違っている。目の前の大きな足跡には、四つの指と、深く食い込んだ爪の跡があった。
自分の手を横に並べてみると、ほとんど同じ大きさだった。
「……大きい」
こんな足を持つ生き物がここを歩いていたのだ。
周囲を見回した。木々の間は静かだった。だが誰もいないとは限らない。図鑑を閉じ、足跡を踏まないように立ち上がった。
*
昼近く、沢の向こうから水を跳ねる音が聞こえた。木の陰に身を寄せると、向こう岸に一頭の大きな獣がいた。
灰褐色の毛並みと太い首。肩のあたりには黒い鱗のようなものが並び、額からは短い角が二本伸びていた。
目を見開いた。図鑑で見たことがある。森に棲む、草食性の魔獣だった。大きな身体をしているが、普段はおとなしいと書かれていたはずだ。
魔獣は沢に顔を近づけ、水を飲んでいた。息を潜めた。
昨日の夜に見た魔獣とは違う種類だ。やはり大きい。あの角で突かれたらひとたまりもないだろう。そう思ったとき、魔獣が顔を上げた。
こちらを見ている。
身体を硬くした。魔獣はしばらく動かなかった。それから、ゆっくりと耳を動かした。不思議なことに、その目には警戒の色がなかった。まるでそこにいるのが当たり前だとでもいうように、静かにリシェを見つめていた。
少しだけ首を傾げた。
「……こんにちは」
思わず小さく呟いた。声が届いたかどうかはわからない。魔獣は一度だけ頭を下げ、それから再び水を飲み始めた。
目を瞬かせた。
「……挨拶、したのかな」
もちろんそんなはずはない。偶然だろう。なんとなく嬉しかった。
魔獣の邪魔をしないように、静かにその場を離れた。
*
沢を下っていくと、やがて古い木橋が見えてきた。ガルドが教えてくれた橋だ。思わず足を速めた。
「……あった!」
橋は思っていたより細く、ところどころ板が黒ずんでいた。手すりもない。慎重に杖で板を叩いた。
こん、こん。
乾いた音がする。腐っている場所はないだろうか。少しずつ足を乗せ、体重をかけてみる。
板が小さく軋み、息を止めた。板が折れる様子はなかった。
「……大丈夫かな」
杖を先に出し、一歩ずつ進む。橋の下では沢の水がさらさらと流れていた。
真ん中まで来たとき、風が吹いた。思わず身体を縮めた。手すりがないので少し怖い。足元を見つめながらゆっくり進み、やがて向こう岸へたどり着いた。
「……渡れた」
ほっと息を吐いた。それだけのことなのに、少し誇らしかった。
*
橋を渡った先には細い林道が続いていた。人が通った跡があり、車輪の轍もところどころに残っている。
その道を見つめた。これなら迷わず進めるかもしれない。そう思ったときだった。
がさり。
道の脇の茂みが揺れ、足を止めた。低い唸り声が聞こえる。
ぐるる……。
茂みの奥から、灰色の獣が姿を現した。狼だった。図鑑で見た魔獣とは違う。額に角もなければ、身体に鱗もない。普通の狼だ。
杖を握りしめた。狼は痩せていた。肋骨が浮き、毛並みも荒れている。黄色い目が、まっすぐリシェを見つめていた。
一歩、後ずさった。狼も一歩、前へ出た。
ぐるる……。
低い唸り声が続く。心臓が速く打ち始めた。
さっきの魔獣とは違う。この狼からは、何も伝わってこない。ただこちらを見ている。獲物を見つけたような目だった。
ゆっくりと杖を持ち上げた。逃げたら追いかけてくるかもしれない。でも、このまま立っていても危ない。
狼がさらに近づき、息を呑んだ。
そのとき。
森の奥から重たい足音が聞こえた。
どしん。
どしん。
狼がぴたりと動きを止め、耳を立てて音のする方を見た。
木々の間から大きな影が現れた。先ほど沢で見かけた、角のある魔獣だった。ゆっくりと歩き、リシェと狼の間に立った。その巨体が道を塞ぐ。
狼は低く唸った。だが、魔獣は動かなかった。ただ静かに狼を見つめている。
しばらくして狼は一歩後ずさった。それから身を翻して森の奥へ走り去った。
リシェはその場に立ち尽くしていた。魔獣がゆっくりと振り返り、大きな目で見下ろしてくる。杖を握ったまま、動けなかった。
怖いはずだった。でもなぜだろう。目の前の魔獣からは、先ほどの狼のような恐ろしさを感じなかった。むしろ、どこか落ち着くような気がした。
「……助けてくれたの?」
小さく尋ねた。魔獣は答えず、ただゆっくりと頭を下げた。
その大きな額を見つめた。触れてもいいのだろうか。少し迷ったが、手は伸ばさなかった。知らない生き物に、むやみに触れてはいけない。図鑑にもそう書かれていた。
「……ありがとう」
深く頭を下げた。魔獣はしばらくリシェを見つめていた。それから、静かに森の奥へ戻っていった。
*
魔獣の姿が見えなくなってからも、しばらく動けなかった。狼に襲われかけたこと、魔獣が現れたこと、そして助けられたこと。どれも図鑑には書かれていない出来事だった。
ゆっくりと息を吐いた。
「……不思議」
あの魔獣はどうして戻ってきたのだろう。たまたま通りかかっただけかもしれない。狼と自分の間に立ったのは偶然なのだろうか。
図鑑を取り出し、魔獣の項目を開いて、さっき見た生き物を探した。似た絵はあった。そこには『人に対して警戒心が強い』と書かれていた。
首を傾げた。
「……そうなの?」
少なくとも、自分にはそんなふうに見えなかった。
図鑑を閉じた。あの魔獣は怖い生き物には思えなかった。むしろ優しかった。そう考えると、胸の奥が少し温かくなった。
*
夕方、林道の脇にある小さな空き地へたどり着いた。木々の間から西の空が見えている。赤く染まった雲がゆっくりと流れていた。
杖を地面に立て、空を見上げた。今日もいろいろなことがあった。足跡を見つけた。大きな魔獣に出会った。古い橋を渡った。狼に襲われかけた。そして、魔獣に助けられた。
小さく息を吐いた。森は美しいだけの場所ではない。危険もたくさんある。でも、恐ろしいだけの場所でもなかった。
布袋を下ろし、木の根元に腰を下ろした。ガルドからもらった杖をそっと隣に置き、それから図鑑を開いた。
今日見た魔獣の絵を、もう一度眺める。大きな角、灰褐色の毛並み、黒い鱗のような突起。絵はよく似ていた。でも、あの静かな目だけは、うまく描かれていない気がした。
指先で、絵の輪郭をなぞった。
「……また、会えるかな」
返事はなかった。
森の奥から風が吹いてきた。葉が揺れ、枝が小さく鳴った。
図鑑を閉じた。オルテンへ続く道は、まだ長い。それでも昨日より少しだけ、この森が好きになっていた。




