第十五話 森に残された痕跡
森に入ってから四度目の朝が来た。
リシェは木の根元で目を覚ました。身体のあちこちが痛い。特に足は、昨日より重く感じられた。それでも最初の朝ほど途方に暮れることはなかった。
夜のうちに落ち葉が服へ入り込まないよう、寝る場所を選ぶこと。風の当たりにくい木の陰を探すこと。朝になったら、まず周囲の音を聞くこと。ほんの少しずつだが、覚えたことが増えていた。
布袋を開いた。中には、数日前に拾った木の実が残っている。まだ火を起こせず、食べられないままだった。
ガルドにもらった食事の温かさを思い出す。あの豆のスープは本当においしかった。
「……また食べたいな」
思わず呟いてから、小さく笑った。こんな森の中で食べ物のことばかり考えている。お腹が空いているのだから仕方がない。
*
林道を歩き始めてしばらくすると、木々の間から明るい場所が見えてきた。小さな草地だった。陽の光が差し込み、背の低い草が風に揺れている。
足を止めた。草地の端に薄紫色の花が群生していた。花びらは五枚で、細い茎の先に小さな花がいくつもついている。
しゃがみ込み、図鑑を開いた。
「……これ、かな」
似た花を見つけた。森の明るい場所に生える植物で、葉を乾燥させると薬草として使われることがあるらしい。ただし、よく似た別の植物には毒があるとも書かれていた。
慎重に葉の形を確かめた。先端の尖り方、葉脈の数、茎に生えた細かな毛。図鑑の説明といくつも一致している。
それでもすぐには摘まなかった。少し離れた場所に、似た花が咲いていたからだ。こちらは葉の縁がわずかに丸い。
二つを見比べた。
「……本当に似てる」
図鑑の中では違いがはっきり描かれていた。けれど、実際に見るとほんの少ししか違わない。
しばらく観察してから、確信できた方の葉を数枚だけ摘んだ。今すぐ使う予定はない。でももし誰かに会えたら、薬草かどうか確かめてもらえるかもしれない。
葉を布に包み、袋の端へしまった。
*
草地を抜けると林道は緩やかな坂になった。杖をつきながらゆっくり登り、途中で何度も休んだ。
足が痛むたび、ガルドにもらった布を確かめる。擦り切れた靴の中でかかとが少し赤くなっていた。それでも、昨日より歩き方は上手になった気がした。
杖を先に出し、足元を確かめる。石の多い場所では歩幅を小さくする。下り坂では、急がない。そんな小さな工夫が少しずつ役に立っていた。
坂の途中で立ち止まった。木の幹に、深い傷がついていた。三本の長い線は、まるで大きな爪で引っかいたような跡だった。
傷を見上げた。自分の頭より高い場所まで続いている。
「……大きな生き物」
周囲を見回すと、地面には折れた枝が散らばっていた。少し離れた場所には、土を掘り返した跡もあった。
魔獣だろうか。それとも普通の獣だろうか。図鑑には、木の幹に爪を立てて縄張りを示す獣がいると書かれていた。
傷に触れず、静かにその場を離れた。昨日の狼のことを思い出したからだ。
*
昼過ぎ、林道の脇にある浅い窪地を見つけた。そこには小さな水たまりができていた。雨水が溜まったものらしい。
水面を覗いた。泥が混じっていて、とても飲めそうにはない。その周りの土にはいくつもの足跡が残っていた。細い蹄の跡、丸い肉球の跡、鳥のような三本指の跡。
そして、その少し離れた場所に見慣れない足跡があった。
しゃがみ込んだ。小さな足跡だった。四つの指があり、先端には細い爪の跡がついている。狐に似ている。けれど少し違う。足跡の周りには、淡い銀色の毛が一本だけ落ちていた。
そっと拾い上げた。
「……きれい」
陽の光を受けると、毛は白にも銀にも見えた。とても細くて柔らかい。指先でそっと撫でた。
普通の狐の毛なのだろうか。図鑑には銀色の毛を持つ魔獣も載っていた。こんな小さな足跡を残す種類だったかどうか、思い出せなかった。
図鑑を開いて狐に似た魔獣の項目を探した。いくつか似た絵はあった。だがどれも決め手に欠けていた。
「……わからないな」
銀色の毛を図鑑のページの間にそっと挟んだ。いつか何の毛なのか分かるかもしれない。
*
さらに進むと、森の様子が少し変わった。木々の間隔が狭くなり、地面には湿った落ち葉が厚く積もっている。空気も少し冷たかった。
歩く速度を落とした。そのとき、遠くから鳥の鋭い声が聞こえた。
きぃっ。
続いて枝が激しく揺れる音。足を止めた。
何かが、森の奥で動いている。けれど姿は見えない。しばらくすると音は静かになった。
耳を澄ませた。風の音。葉が擦れる音。それから、ほんのかすかな鳴き声。
きゅう……。
顔を上げた。
「……今の何?」
小さな声だった。鳥の声とは違う。狐や犬の鳴き声に、少し似ていた。でも、どこから聞こえたのかわからない。
しばらくその場に立っていた。もう一度聞こえるかもしれない。そう思ったけれど、森は静かなままだった。
「……気のせいかな」
杖を握り直した。森にはいろいろな生き物がいる。小さなものも、大きなものも。そのすべてを自分が知っているわけではない。
再び歩き始めた。
*
夕方、林道から少し離れた場所に、倒れた大木を見つけた。根元には小さなくぼみがあり、風を避けられそうだった。
周囲を確かめてから、そこに腰を下ろした。今日は昨日より少し遠くまで歩けた気がする。身体は相変わらず重かった。
布袋を開いた。拾った木の実、摘んだ薬草、水筒。それから、古い図鑑。食べ物はまだ十分ではない。
木の実を手に取った。火があれば食べられるかもしれない。でも、今夜も火は起こせそうになかった。
「……明日は何か考えないと」
木の実を袋へ戻し、それから図鑑を開いた。昼間に見つけた銀色の毛が、ページの間から覗いている。
取り出して月明かりにかざすと、細い毛が淡く光った。
「……何の生き物なんだろう」
小さく呟くが、答えはない。なぜだか気になって仕方がなかった。
毛をもう一度図鑑に挟み、そっと本を閉じた。
*
夜が深まる頃、森の奥で何かが動いた。
目を開けた。遠くからかすかな足音が聞こえる。小さな足音だった。落ち葉を踏みしめる、軽い音。
息を潜めた。音は近づいてこなかった。しばらくすると、静かになった。
図鑑を抱きしめた。昼間に見つけた足跡、銀色の毛、あの小さな鳴き声。それらが同じ生き物のものなのかはわからない。
森のどこかにまだ出会っていない小さな命がいる。そう思うと、不思議と胸が温かくなった。
目を閉じた。明日もきっと知らないものに出会う。そのことが、少しだけ楽しみだった。




