↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/87

第十六話 銀色の小さな命


朝露に濡れた森はまだ薄い霧に包まれていた。


 リシェは倒木の陰で目を覚まし、ゆっくりと身体を起こした。夜の冷気が服の奥まで染み込んでいる。膝を伸ばすと足の裏に鈍い痛みが走った。


「……いたた」


 小さく顔をしかめながら、靴の具合を確かめる。ガルドにもらった布は少し汚れていた。それでも、何も当てていなかった頃よりはずっとましだった。


 布袋を開き、持ち物を確かめた。水筒、着替え、銅貨三枚、拾った木の実、摘んだ薬草。そして、大切な図鑑。


 食べ物は相変わらず足りない。昨日は結局、何も食べられなかった。思わずお腹を押さえた。


「……今日は何か食べないと」


 声に出すと余計にお腹が空いた。小さく息を吐き、杖を手に取った。


     *


 林道を進んでいると、昨日とは違う鳥の声が聞こえてきた。高く、鋭い声に足を止めた。


 木々の間から、何羽もの鳥が飛び立っていく。何かに驚いたのだろうか。周囲を見回した。そのとき。


 きゅう……。


 かすかな鳴き声が聞こえた。目を瞬かせた。昨日も似た声を聞いた気がする。もう一度、耳を澄ませる。


 きゅ……。


 今度は少し近かった。


「……何かいるの?」


 小さく呟くが返事はない。声は林道の脇、低い茂みの奥から聞こえていた。


 少し迷った。知らない生き物に近づくのは危険だ。昨日の狼のこともある。でも今の声は、何かを威嚇するようなものではなかった。むしろ苦しそうだった。


 杖で足元を確かめながら、ゆっくりと茂みに近づいた。


     *


 茂みの奥には細い獣道があった。人が歩くには狭い道だったが、リシェの小さな身体なら通れそうだった。


 枝を避けながら進むと、地面に不自然なものが見えた。細い金属の輪と、そこから伸びる錆びた鎖。


 罠だった。そして、その先に小さな生き物がいた。


 息を呑んだ。銀白色の毛並み、細い鼻先、狐に似た大きな耳。身体は小さく、まだ子どものように見えた。毛は泥で汚れ、ところどころ固まっている。後ろ脚には金属の輪が食い込んでいた。


「……怪我してる」


 小さな生き物は、リシェに気づくと身体を震わせた。琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見つめる。


 ぐるる……。


 低い唸り声が聞こえた。小さな身体を必死に大きく見せようとしている。


 慌てて足を止めた。


「……ごめんね」


 声を落とす。


「怖いよね。近づかないから」


 その場にしゃがみ込んで、目を凝らす。小さな生き物はまだ警戒していた。耳を伏せて牙を見せている。だが後ろ脚が罠に挟まっているため、逃げることはできない。


 その姿に胸の奥が苦しくなった。


     *


 しばらく一人と一匹は動かなかった。距離を保ったまま、罠の形を観察した。


 金属の輪は脚を挟む仕組みになっているらしい。錆びた鎖は近くの木の根に固定されていた。


 誰かが仕掛けたものだ。


 眉間に皺がよる。この小さな生き物は、どれくらいここにいたのだろう。泥に汚れた毛、痩せた身体、乾いた鼻先。ずいぶん長い間、動けなかったのかもしれない。


「……痛かったね」


 小さく呟いたその瞬間、小さな生き物の耳がぴくりと動いた。リシェは気づかなかった。ただできるだけ優しい声で話しかけた。


「私、リシェっていうの」


 琥珀色の瞳がこちらを見つめている。


「あなたをここから出してあげたいの」


 小さな生き物は答えなかった。だが唸り声が少しだけ弱くなった。


     *


 ゆっくりと手を伸ばすと、小さな生き物が牙を剥いた。すぐに手を引っ込めた。


「……うん。怖いよね」


 無理に触れてはいけない。罠を外すには、どうすればいいのだろう。図鑑には動物の生態は書かれていても、罠の外し方までは載っていない。


 金属の輪を見つめてみる。両側に短い板のような部分がついている。そこを押すと、輪が開く仕組みなのかもしれない。でも今の位置からでは手が届かない。


 布袋を下ろし、着替えの布を取り出して手に巻いた。噛まれても、少しは守れるかもしれない。


「……ちょっとだけ、触るね」


 ゆっくり近づくと、小さな生き物は身体を震わせ、牙を見せた。


「……大丈夫」


 自分に言い聞かせるように呟いた。大丈夫。怖いのはきっと向こうも同じだ。


 罠の横にしゃがみ込み、金属の板に手をかけた。冷たい。そして、思っていたより重かった。両手で押してみるがびくともしない。


「……うう」


 力を込めると細い腕が震えた。それでも輪は開かなかった。


 息を吐いた。自分の力では無理なのだろうか。けれど、このまま置いていくこともできなかった。


     *


 一度手を離し、周囲を見回した。何か使えるものはないだろうか。目に入ったのは、ガルドにもらった杖だった。


 罠の板の下に、杖の先を差し込んでみる。てこのように使えば、少しは動くかもしれない。ゆっくり力をかけた。


 ぎしり。


 金属が軋み、小さな生き物が身体を震わせた。


「……ごめん、もう少しだけ」


 必死に杖を押した。細い腕に力が入る。肩が痛い。少しずつ金属が動いていた。


 ぎし、ぎし。


 やがて、輪がわずかに開いた。


「……今!」


 片手で杖を押さえながら、もう片方の手で小さな生き物の脚をそっと動かした。


 小さな身体が跳ねた。鋭い牙が、リシェの手に触れそうになる。だがその瞬間、琥珀色の瞳がまっすぐリシェを見つめた。


 胸の奥に、不思議な感覚を覚えた。


 怖い。痛い。逃げたい。そんな気持ちが、言葉にならないまま流れ込んでくるようだった。


「……もう少し。もう少しだから」


 そして。


 かしゃん。


 金属の輪が開き、小さな脚が罠から外れた。


     *


 小さな生き物はすぐに逃げようとした。だが後ろ脚に力が入らず、その場に崩れ落ちた。


 慌てて手を伸ばしかけて、やめた。怖がらせてはいけない。少し離れた場所に座り直した。


「……もう大丈夫だよ」


 小さな生き物は荒い息をしていた。後ろ脚には赤く腫れた傷があり、毛には血がこびりついていた。その姿に胸が痛んだ。


 何かしてあげたい。でも、どうすればいいのかわからない。


 水筒を取り出した。ガルドにもらった飲める水は、まだ少し残っていた。欠けた木の器に注ぎ、小さな生き物の近くへ置いた。


「……飲めるかな」


 小さな生き物は警戒していた。しばらくすると、ゆっくりと顔を近づけた。


 ぺろり。


 小さな舌が、水を舐めた。ほっと息を吐いた。


「……よかった」


 小さな生き物は何度か水を舐めた。それから、疲れたように身体を伏せた。


 このまま置いていけば、また危険な目に遭うかもしれない。連れていくにはどうすればいいのだろう。自分だってまともに歩けないのに。


 小さく息を吐いた。


     *


 しばらくして、布袋から清潔な布を取り出した。傷を覆えれば、少しはましになるかもしれない。だが無理に触れればまた怖がらせてしまう。


 布を手に持ったまま、小さな生き物を見つめる。


「……触っても、いい?」


 もちろん、返事はない。でも小さな生き物はもう牙を見せなかった。ただ、琥珀色の瞳でリシェを見つめている。


 ゆっくりと手を伸ばした。銀白色の毛に指先が触れる。思っていたよりもずっと柔らかかった。


 小さな身体がぴくりと震えた。逃げようとはしなかった。


 傷の周りをそっと確かめた。深く切れている。だが今は血が激しく流れているわけではなかった。


 傷に布を軽く当て、強く縛らないようにそっと巻いた。これが正しいのかは、わからない。でも何もしないよりはいいと思った。


「……これで、少しは楽になるかな」


 小さな生き物は目を細めた。


     *


 夕暮れが近づいていた。森の奥では、鳥たちが巣へ戻り始めている。


 リシェは小さな生き物のそばに座っていた。今日はもう先へ進めそうにない。だが不思議と焦る気持ちはなかった。


 銀白色の毛は泥に汚れているけれど、ところどころに淡い光沢が残っている。琥珀色の瞳は、静かにこちらを見つめていた。


「……何ていう生き物なんだろう」


 図鑑には、似た魔獣がいくつか載っていた。でもどれも少しずつ違っている。この小さな生き物が何者なのか、リシェにはわからなかった。


 ただひとつだけ確かなことがある。


 この子は今、助けを必要としている。


「……もう少しだけ、一緒にいようか」


 小さな生き物は答えなかったけれど、ゆっくりと目を閉じた。


 そのそばで、静かに空を見上げた。木々の隙間から一番星が見えていた。


 森の中で出会った、小さな銀色の命。


 それが、これからの旅を大きく変えることになるとは、このときのリシェはまだ知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。