第十六話 銀色の小さな命
朝露に濡れた森はまだ薄い霧に包まれていた。
リシェは倒木の陰で目を覚まし、ゆっくりと身体を起こした。夜の冷気が服の奥まで染み込んでいる。膝を伸ばすと足の裏に鈍い痛みが走った。
「……いたた」
小さく顔をしかめながら、靴の具合を確かめる。ガルドにもらった布は少し汚れていた。それでも、何も当てていなかった頃よりはずっとましだった。
布袋を開き、持ち物を確かめた。水筒、着替え、銅貨三枚、拾った木の実、摘んだ薬草。そして、大切な図鑑。
食べ物は相変わらず足りない。昨日は結局、何も食べられなかった。思わずお腹を押さえた。
「……今日は何か食べないと」
声に出すと余計にお腹が空いた。小さく息を吐き、杖を手に取った。
*
林道を進んでいると、昨日とは違う鳥の声が聞こえてきた。高く、鋭い声に足を止めた。
木々の間から、何羽もの鳥が飛び立っていく。何かに驚いたのだろうか。周囲を見回した。そのとき。
きゅう……。
かすかな鳴き声が聞こえた。目を瞬かせた。昨日も似た声を聞いた気がする。もう一度、耳を澄ませる。
きゅ……。
今度は少し近かった。
「……何かいるの?」
小さく呟くが返事はない。声は林道の脇、低い茂みの奥から聞こえていた。
少し迷った。知らない生き物に近づくのは危険だ。昨日の狼のこともある。でも今の声は、何かを威嚇するようなものではなかった。むしろ苦しそうだった。
杖で足元を確かめながら、ゆっくりと茂みに近づいた。
*
茂みの奥には細い獣道があった。人が歩くには狭い道だったが、リシェの小さな身体なら通れそうだった。
枝を避けながら進むと、地面に不自然なものが見えた。細い金属の輪と、そこから伸びる錆びた鎖。
罠だった。そして、その先に小さな生き物がいた。
息を呑んだ。銀白色の毛並み、細い鼻先、狐に似た大きな耳。身体は小さく、まだ子どものように見えた。毛は泥で汚れ、ところどころ固まっている。後ろ脚には金属の輪が食い込んでいた。
「……怪我してる」
小さな生き物は、リシェに気づくと身体を震わせた。琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見つめる。
ぐるる……。
低い唸り声が聞こえた。小さな身体を必死に大きく見せようとしている。
慌てて足を止めた。
「……ごめんね」
声を落とす。
「怖いよね。近づかないから」
その場にしゃがみ込んで、目を凝らす。小さな生き物はまだ警戒していた。耳を伏せて牙を見せている。だが後ろ脚が罠に挟まっているため、逃げることはできない。
その姿に胸の奥が苦しくなった。
*
しばらく一人と一匹は動かなかった。距離を保ったまま、罠の形を観察した。
金属の輪は脚を挟む仕組みになっているらしい。錆びた鎖は近くの木の根に固定されていた。
誰かが仕掛けたものだ。
眉間に皺がよる。この小さな生き物は、どれくらいここにいたのだろう。泥に汚れた毛、痩せた身体、乾いた鼻先。ずいぶん長い間、動けなかったのかもしれない。
「……痛かったね」
小さく呟いたその瞬間、小さな生き物の耳がぴくりと動いた。リシェは気づかなかった。ただできるだけ優しい声で話しかけた。
「私、リシェっていうの」
琥珀色の瞳がこちらを見つめている。
「あなたをここから出してあげたいの」
小さな生き物は答えなかった。だが唸り声が少しだけ弱くなった。
*
ゆっくりと手を伸ばすと、小さな生き物が牙を剥いた。すぐに手を引っ込めた。
「……うん。怖いよね」
無理に触れてはいけない。罠を外すには、どうすればいいのだろう。図鑑には動物の生態は書かれていても、罠の外し方までは載っていない。
金属の輪を見つめてみる。両側に短い板のような部分がついている。そこを押すと、輪が開く仕組みなのかもしれない。でも今の位置からでは手が届かない。
布袋を下ろし、着替えの布を取り出して手に巻いた。噛まれても、少しは守れるかもしれない。
「……ちょっとだけ、触るね」
ゆっくり近づくと、小さな生き物は身体を震わせ、牙を見せた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた。大丈夫。怖いのはきっと向こうも同じだ。
罠の横にしゃがみ込み、金属の板に手をかけた。冷たい。そして、思っていたより重かった。両手で押してみるがびくともしない。
「……うう」
力を込めると細い腕が震えた。それでも輪は開かなかった。
息を吐いた。自分の力では無理なのだろうか。けれど、このまま置いていくこともできなかった。
*
一度手を離し、周囲を見回した。何か使えるものはないだろうか。目に入ったのは、ガルドにもらった杖だった。
罠の板の下に、杖の先を差し込んでみる。てこのように使えば、少しは動くかもしれない。ゆっくり力をかけた。
ぎしり。
金属が軋み、小さな生き物が身体を震わせた。
「……ごめん、もう少しだけ」
必死に杖を押した。細い腕に力が入る。肩が痛い。少しずつ金属が動いていた。
ぎし、ぎし。
やがて、輪がわずかに開いた。
「……今!」
片手で杖を押さえながら、もう片方の手で小さな生き物の脚をそっと動かした。
小さな身体が跳ねた。鋭い牙が、リシェの手に触れそうになる。だがその瞬間、琥珀色の瞳がまっすぐリシェを見つめた。
胸の奥に、不思議な感覚を覚えた。
怖い。痛い。逃げたい。そんな気持ちが、言葉にならないまま流れ込んでくるようだった。
「……もう少し。もう少しだから」
そして。
かしゃん。
金属の輪が開き、小さな脚が罠から外れた。
*
小さな生き物はすぐに逃げようとした。だが後ろ脚に力が入らず、その場に崩れ落ちた。
慌てて手を伸ばしかけて、やめた。怖がらせてはいけない。少し離れた場所に座り直した。
「……もう大丈夫だよ」
小さな生き物は荒い息をしていた。後ろ脚には赤く腫れた傷があり、毛には血がこびりついていた。その姿に胸が痛んだ。
何かしてあげたい。でも、どうすればいいのかわからない。
水筒を取り出した。ガルドにもらった飲める水は、まだ少し残っていた。欠けた木の器に注ぎ、小さな生き物の近くへ置いた。
「……飲めるかな」
小さな生き物は警戒していた。しばらくすると、ゆっくりと顔を近づけた。
ぺろり。
小さな舌が、水を舐めた。ほっと息を吐いた。
「……よかった」
小さな生き物は何度か水を舐めた。それから、疲れたように身体を伏せた。
このまま置いていけば、また危険な目に遭うかもしれない。連れていくにはどうすればいいのだろう。自分だってまともに歩けないのに。
小さく息を吐いた。
*
しばらくして、布袋から清潔な布を取り出した。傷を覆えれば、少しはましになるかもしれない。だが無理に触れればまた怖がらせてしまう。
布を手に持ったまま、小さな生き物を見つめる。
「……触っても、いい?」
もちろん、返事はない。でも小さな生き物はもう牙を見せなかった。ただ、琥珀色の瞳でリシェを見つめている。
ゆっくりと手を伸ばした。銀白色の毛に指先が触れる。思っていたよりもずっと柔らかかった。
小さな身体がぴくりと震えた。逃げようとはしなかった。
傷の周りをそっと確かめた。深く切れている。だが今は血が激しく流れているわけではなかった。
傷に布を軽く当て、強く縛らないようにそっと巻いた。これが正しいのかは、わからない。でも何もしないよりはいいと思った。
「……これで、少しは楽になるかな」
小さな生き物は目を細めた。
*
夕暮れが近づいていた。森の奥では、鳥たちが巣へ戻り始めている。
リシェは小さな生き物のそばに座っていた。今日はもう先へ進めそうにない。だが不思議と焦る気持ちはなかった。
銀白色の毛は泥に汚れているけれど、ところどころに淡い光沢が残っている。琥珀色の瞳は、静かにこちらを見つめていた。
「……何ていう生き物なんだろう」
図鑑には、似た魔獣がいくつか載っていた。でもどれも少しずつ違っている。この小さな生き物が何者なのか、リシェにはわからなかった。
ただひとつだけ確かなことがある。
この子は今、助けを必要としている。
「……もう少しだけ、一緒にいようか」
小さな生き物は答えなかったけれど、ゆっくりと目を閉じた。
そのそばで、静かに空を見上げた。木々の隙間から一番星が見えていた。
森の中で出会った、小さな銀色の命。
それが、これからの旅を大きく変えることになるとは、このときのリシェはまだ知らなかった。




