第十七話 小さな手と薬草の知恵
銀白色の小さな生き物はまだ眠っていた。
リシェはその傍らに膝をつき、そっと顔を覗き込んだ。朝の光が木々の隙間から差し込み、泥に汚れた毛を淡く照らしている。
昨夜はほとんど眠れなかった。小さな身体が動くたびに目を覚まし、息をしていることを確かめた。時々、苦しそうな声を上げることもあった。そのたびに、何もできない自分がもどかしかった。
「……おはよう」
小さく声をかけると、琥珀色の瞳がゆっくりと開いた。昨日ほど鋭い警戒の色はない。まだ身体は強張っていた。
「……痛いよね」
後ろ脚を見つめた。昨日巻いた布には薄く血が滲み、傷の周りも赤く腫れている。このままではよくならないかもしれない。
唇を噛んだ。何か、できることはないだろうか。
*
布袋から古い図鑑を取り出した。
『大陸の植物と魔獣』
何度も読み返してきた大切な本。表紙の角は擦り切れ、ページの端には小さな折り目がついている。
植物の項目を開いた。傷に使える薬草や、炎症を抑える植物、痛みを和らげる葉。そんなものが載っていないだろうか。ページをめくる指が、少し震えていた。
「……あった」
一つの絵に目を止めた。細長い葉、白い産毛に覆われた茎、小さな淡紫色の花。図鑑には、傷の手当てに用いられることがあると書かれていた。葉を清潔な水で洗い、よく潰してから布に包んで使うらしい。
目を見開いた。
「……これ見たことある」
昨日、林道の途中で見つけた花だ。似た植物が二種類あって、慎重に見比べた。確信できた方の葉を数枚だけ摘んでいたはずだった。
慌てて布袋を開き、端にしまった小さな包みを取り出した。中には、少ししおれた葉が入っていた。
図鑑の絵と見比べた。葉の形、縁の細かな切れ込み、裏側の色、茎に残った白い産毛。どれもよく似ている。けれど、図鑑には注意書きもあった。
『酷似する別種あり。葉裏の脈と茎の毛を確認すること。』
何度も確かめた。一度。二度。三度。それでも不安は消えなかった。
もし間違っていたら、この小さな生き物をもっと苦しめてしまうかもしれない。
葉を握りしめた。
「……もう一度探そう」
確かめるためにも、もっと新しい葉が欲しかった。
*
小さな生き物のそばに、水を入れた木の器を置いた。
「……少しだけ待っててね」
琥珀色の瞳がこちらを見つめた。立ち上がり、周囲を見回した。
昨日見つけた草地は、ここから少し離れている。でも戻れないほど遠くはないはずだった。杖を握り直した。
「……すぐ戻るから」
そう言って森の中へ歩き出した。足は痛かった。お腹も空いていた。でも今はそれ以上に、あの小さな生き物のことが気になっていた。
*
草地へ戻るまでに、思っていたより時間がかかった。昨日は何気なく歩いた道なのに、今日は足が重い。何度も立ち止まり、木の幹に手をついた。
ようやく薄紫色の花が見えたとき、ほっと息を吐いた。
「……あった」
草地には昨日と同じ花が咲いていた。しゃがみ込み、図鑑を開いて、似た二種類の植物をもう一度見比べる。
片方は葉の縁が細かく切れ込み、もう片方は少し丸みがある。茎の毛の向きも違っていた。
慎重に一株を選んだ。葉の裏を確かめ、茎を指先でなぞる。図鑑の説明と一致している。
「……これなら」
必要な分だけ葉を摘んだ。根は残した。また新しい葉が育つように。そんなことを、以前読んだ本で覚えていた。
摘んだ葉を布に包み、そっと袋へしまった。立ち上がる。早く戻らなければ。
*
小さな生き物は、リシェが戻ったときも同じ場所にいた。だが身体の向きが少し変わっていた。どうやら動こうとしたらしい。後ろ脚をかばうように、地面に伏せている。
「……ただいま」
息を切らしながらしゃがみ込んだ。琥珀色の瞳がゆっくりとこちらを向いた。
「……薬草、見つけたよ」
もちろん、言葉が通じるとは思っていない。何も言わずに触れるよりはいい気がした。
葉を取り出し、それから水筒を見つめた。残りの水は少ない。でも傷に使うなら、できるだけ清潔な水がいい。
少し迷った。自分が飲むために残しておきたい。でも小さな脚は、もっと大変なことになっている。
「……少しだけ」
水を布に含ませ、傷の周りの汚れをそっと拭った。小さな生き物が身体を震わせた。
きゅっ。
痛そうな声が漏れる。
「……ごめんね」
手を止めた。少し待ってから、またゆっくり拭く。泥と乾いた血が、少しずつ落ちていった。傷は思っていたより深かった。
胸が苦しくなった。これで本当に大丈夫なのだろうか。図鑑を読んだだけの自分に、何ができるのだろう。
*
平らな石を探し、水で汚れを落とした。その上に薬草の葉を置き、別の小さな石でゆっくりと潰していく。緑色の汁が滲み出て、草の青い匂いが広がった。
図鑑を開き、手順を確かめた。葉を潰し、清潔な布に包む。傷の上に強く押しつけずに当てる。ただし、深い傷には注意が必要とも書かれていた。
手を止め、小さな生き物の脚を見た。罠に挟まれた傷は、浅い擦り傷ではない。これをそのまま当ててもいいのだろうか。
考え込んだ。薬草は、役に立つかもしれない。間違った使い方をすれば、かえって悪くなるかもしれない。
潰した葉を見つめた。
「……どうしよう」
しばらく迷ってから、薬草を直接傷に乗せるのをやめた。代わりに、傷の周りの腫れた部分へ、布越しにそっと当てることにした。傷そのものには清潔な布を使う。それなら、少しは安心できる気がした。
*
手当てを始めると、小さな生き物は何度も身体を震わせた。そのたびに手を止めた。
「……痛いね」
そっと声をかける。
「もう少しだけ、我慢してね」
琥珀色の瞳が、じっとリシェを見つめていた。不思議なことに、昨日のように牙を剥くことはなかった。ただ時々小さく鳴いた。
胸の奥がきゅっと痛んだ。自分が痛いわけではないのに、その声を聞くたび、同じ場所が痛むような気がした。
できるだけ優しく布を巻いた。きつくならないように。血の巡りを妨げないように。それからそっと手を離した。
「……できた」
小さく息を吐いた。うまくできたかどうかはわからない。だが昨日より傷はきれいになった。少なくとも、泥がついたままではなくなった。
小さな生き物を見つめた。
「……早く、よくなるといいね」
琥珀色の瞳が、ゆっくりと細められた。
*
午後になると、小さな生き物のそばに座り込み、図鑑を開いた。今度は、魔獣の項目だった。
銀白色の毛、狐に似た耳、細い鼻先、琥珀色の瞳。似た特徴を持つ魔獣を探すが、どの絵も少しずつ違っていた。
あるものは耳がもっと短く、あるものは尾が二本ある。あるものは、成獣になると身体が大きくなるらしい。
小さな生き物を見つめた。
「……あなた、何者なの?」
小さな生き物は答えなかった。ただ、ゆっくりと尻尾を動かした。微笑んだ。
「……わからないことばっかり」
図鑑にはたくさんのことが書かれている。でも森に来てから、そこに載っていないことをいくつも知った。
魔獣が助けてくれること。同じ花でも、少しずつ形が違うこと。そして、こんな小さな生き物が、人間の罠にかかってしまうこと。
ページの端に書かれた、古い文字を見つめた。
『記録と実物は、必ずしも一致しない。』
誰が書いたのかわからない言葉。けれど、今なら少しだけ意味がわかる気がした。
*
夕方になる頃、小さな生き物は少しだけ身体を起こした。驚いて顔を上げた。
「……動ける?」
小さな生き物は前脚をつき、ゆっくり立ち上がろうとした。だが後ろ脚に力が入らず、すぐに座り込んでしまった。
慌てて手を伸ばした。
「……無理しないで」
その手に小さな鼻先が触れ、動きを止めた。柔らかく、少し冷たい感触。
小さな生き物は、リシェの指先に鼻を寄せていた。昨日は近づくだけで牙を剥いていたのに。目を見開いた。
「……怖くなくなった?」
小さな生き物は答える代わりに、もう一度鼻先を押しつけた。
胸の奥がじんわりと温かくなり、思わず笑みがこぼれた。
「……よかった」
そっと、銀白色の頭を撫でた。
*
夕暮れの光が森を淡い金色に染めていた。
小さな生き物の隣に座り、空を見上げた。木々の隙間から、最初の星が見え始めている。その光を見つめた。
孤児院の小さな窓からも、同じように星を眺めていた。今は窓も壁もない。空はどこまでも広がっている。
隣の小さな生き物を見つめた。
「……ねえ」
琥珀色の瞳が、こちらを向いた。
「あなたの名前、知らないんだよね」
小さな生き物は首を傾げた。少し考えた。
銀白色の毛、琥珀色の瞳、小さな身体。それから、森の中で出会った不思議な温かさ。
夜空を見上げた。風が木々の葉を揺らしている。
「……フィエル」
小さく呟いた。
「フィエル、ってどうかな」
小さな生き物は、ぴくりと耳を動かした。微笑んだ。
「なんとなく、あなたに似合う気がするの」
琥珀色の瞳が、じっとリシェを見つめていた。それから、小さな鼻先がもう一度リシェの手に触れた。
嬉しくなった。
「……気に入ってくれた?」
小さな生き物は、ゆっくりと尻尾を揺らした。そっと、その頭を撫でた。
「……よろしくね、フィエル」
森の中に、優しい風が吹いた。銀白色の小さな生き物は、リシェの手に顔を寄せたまま静かに目を閉じた。
その名前が、いつか大きな意味を持つことになるとは。
まだ誰も知らなかった。




