第十八話 二人で見つけたもの
目を覚ましたとき、リシェは自分の手が温かいことに気づいた。不思議に思って目を開けると、指先に銀白色の毛が触れていた。
フィエルだった。小さな身体を丸め、手のすぐそばで眠っている。昨夜は少し離れた場所に伏せていたはずなのに、いつの間にか近づいてきたらしい。
「……おはよう、フィエル」
小さく声をかけると、琥珀色の瞳がゆっくり開いた。フィエルは一度だけ耳を動かし、また目を閉じた。
思わず微笑んだ。けれど、身体を起こそうとした瞬間、その笑みは消えた。
目の前がふわりと揺れた。
「……あれ?」
木々が傾いたように見える。慌てて地面に手をつき、しばらくじっとしていると、ようやく景色が元に戻った。
お腹が空いていたが、それだけではない。身体に力が入らなかった。森に入ってから、まともに食べられたのはガルドにもらったスープとパンくらいだ。昨日も一昨日も、ほとんど何も口にしていない。
自分の手を見つめた。もともと細い指が、今はいつも以上に頼りなく見えた。
「……困ったな」
呟くと、フィエルが顔を上げた。琥珀色の瞳がじっとリシェを見つめている。
「大丈夫だよ」
そう言って笑おうとした。お腹が小さく鳴ってしまった。
*
フィエルの傷は、昨日より少し落ち着いているように見えた。だが腫れはまだ残っていた。後ろ脚を地面につけようとすると、すぐに引っ込めてしまう。
図鑑を開き、昨日読んだページをもう一度確かめた。傷を汚さないこと。無理に動かさないこと。腫れや熱が強くなるようなら、専門の手当てが必要なこと。
最後の一文を読んで、眉を寄せた。
「……専門の手当て」
それは今の自分にはできない。オルテンへ行けば、薬師や治療師がいるかもしれない。ここからどれくらいかかるのだろう。フィエルを抱えて歩けるだろうか。自分の足だけでもこんなに痛いのに。
図鑑を閉じた。今すぐ答えは出なかった。まずは、今日をどう過ごすか考えなければならない。
*
フィエルのそばに水の入った木の器を置いた。昨日残しておいた水だった。器にはひびがあるので、少しずつ漏れてしまう。それでもフィエルは顔を近づけて水を舐めた。
その様子を見守ってから、空になった水筒を手に取った。
「……水もなくなっちゃった」
沢まで戻れば水はある。だが煮沸する道具がない。ガルドにもらった湯冷ましも、もう残っていなかった。
水筒の蓋を閉めた。森の中には、水も植物もたくさんある。それなのに、自分が安全に口にできるものは驚くほど少なかった。
図鑑を読むだけでは生きていけない。そのことを、何度も思い知らされていた。
「……街道まで行けたら」
誰かに会えるかもしれない。食べ物を買えるかもしれない。でもフィエルを置いていくことはできなかった。
銀白色の小さな身体を見つめた。フィエルは前脚を伸ばし、こちらを見上げている。
「……もう少し、ここにいようね」
そう言って頭を撫でると、フィエルは目を細めた。
*
昼近くになった頃、薬草を探しに少しだけ歩いた。フィエルから遠く離れないように、何度も振り返りながら進む。
森の地面にはいろいろな植物が生えていた。小さな白い花、細長い葉、赤い実をつけた低木。図鑑を開き、一つずつ確かめた。だが食べられると確信できるものは見つからなかった。
途中で黄色い茸を見つけた。丸い傘が落ち葉の間から顔を出している。しゃがみ込んだ。図鑑にはよく似た茸が載っていたが、よく見ると裏側のひだの色が違う。
「……だめだ」
立ち上がった。お腹が空いているからといって、何でも食べるわけにはいかない。何も食べなければ、歩くこともできなくなる。
木の幹に手をついた。少し休もう。そう思ったけれど、足に力が入らなかった。膝が折れて、その場に座り込んだ。
「……あれ」
立ち上がろうとしても、身体が重い。頭がぼんやりする。目を閉じた。
ほんの少しだけ。休めば、きっと動ける。
*
どれくらい経ったのだろう。
頬に柔らかいものが触れた。ゆっくり目を開けると、目の前に琥珀色の瞳があった。
「……フィエル?」
銀白色の小さな生き物が、顔を覗き込んでいた。後ろ脚をかばいながら、ここまで来たらしい。
驚いて身体を起こした。
「だめだよ、動いちゃ」
フィエルは答えず、ただリシェの袖を小さく噛んで引いた。
「……どうしたの?」
フィエルは少し離れた場所へ歩こうとした。後ろ脚が痛むのか、すぐに立ち止まる。それでもリシェを振り返った。
首を傾げた。
「……ついてきて、ってこと?」
フィエルは小さく耳を動かした。
ゆっくり立ち上がった。まだ少しふらつくけれど、杖をつけば歩けそうだった。
「……わかった。ゆっくりね」
*
フィエルは何度も立ち止まりながら進み、リシェもその後をゆっくりついていった。小さな生き物は時々こちらを振り返り、リシェが遅れると、その場で待っていた。
やがて、木々の間に明るい場所が見えてきた。小さな草地だった。その端に、背の低い木が何本か生えている。
フィエルはその一本の下で立ち止まった。木を見上げると、枝には黄色がかった小さな実がついていた。
「……木の実?」
フィエルは木の根元へ鼻を近づけた。そこには、熟して落ちた実がいくつも転がっていた。
しゃがみ込んだ。丸い実、薄い黄色の皮、先端に残った小さな萼。どこかで見たことがある。
慌てて図鑑を開き、果実の項目を探した。何枚かページをめくると、似た絵が見つかった。
「……これだ」
森の明るい場所に生える果樹。熟した実は食用になると書かれていた。
慎重に特徴を確かめた。葉の形、枝のつき方、実の色、皮の模様。どれも図鑑の説明と一致している。
さらに注意書きも読んだ。似た毒果は、葉の裏に白い斑点があるらしい。
葉を裏返して確かめた。斑点はない。別の葉も調べたが、やはりなかった。
「……食べられるかもしれない」
実を一つ拾い、傷んだところがないか確かめて皮を剥いた。中には淡い黄色の果肉が詰まっていた。甘酸っぱい匂いがする。
しばらく見つめた。図鑑の説明とは一致している。だが本当に大丈夫だろうか。
迷っていると、フィエルが落ちた実を一つ咥えた。小さな牙で皮を破り、果肉を少し食べる。
「……フィエル?」
驚いた。フィエルは実を食べ終えると、もう一度リシェを見上げた。まるで、食べられるよ、と教えているようだった。
小さく笑った。
「……ありがとう」
それから、慎重に果肉を一口食べた。
甘い。ほんの少し酸っぱくて、みずみずしい。
目を見開いた。
「……おいしい」
久しぶりに、食べ物の味が口いっぱいに広がった。ゆっくり噛み、飲み込んだ。それから、もう一口。甘い果汁が喉を通っていく。
思わず目を閉じた。おいしかった。ただ、それだけで泣きそうになった。
*
一度にたくさん食べないよう、少しずつ実を口にした。フィエルも隣で小さな実を食べながら、時々リシェの方を見上げた。
「……見つけてくれたんだね」
そっと頭を撫でると、フィエルは目を細めた。
昨日まで、自分が一方的に助けていると思っていた。でも今は違う。自分が倒れてしまったとき、フィエルが探しに来てくれた。そして、食べ物のある場所まで案内してくれた。
胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……私も、助けてもらっちゃった」
フィエルは小さく尻尾を揺らした。微笑んだ。
「……ありがとう、フィエル」
銀白色の小さな生き物は、リシェの手に鼻先を寄せた。
*
夕方、草地の近くに、風を避けられそうな場所を見つけた。今日はここで休むことにした。
木の実をいくつか布袋に入れ、フィエルのそばに座る。足はまだ痛い。身体も疲れている。でも朝よりは少しだけ元気になった気がした。
フィエルの傷を確かめた。腫れはまだ残っている。昨日よりひどくなっている様子はなかった。
「……早く治るといいね」
小さく呟いた。フィエルは、リシェの膝に頭を乗せた。
驚いて、すぐに微笑んだ。そっと銀白色の毛を撫でる。柔らかくて温かかった。
森の中で、一人きりだったはずの旅。でも今は隣に小さな命がいる。
空を見上げると、木々の隙間から夕焼けが見えた。
「……一緒に、オルテンまで行けたらいいね」
フィエルは答えず、ただゆっくりと尻尾を動かした。
まだ何も決まっていない。明日、フィエルが森へ戻るかもしれない。それでも今は一緒にいたかった。
小さな頭を撫でながら、静かに目を閉じた。森の風が、二人の間を優しく通り抜けていった。




