↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/81

第十九話 街道をいく人々


 朝の光が草地に差し込んでいた。


 リシェはゆっくりと目を開けた。胸元には柔らかな温もりがあった。フィエルだった。銀白色の小さな身体を丸め、腕の中で眠っている。昨夜、膝の上に頭を乗せていたはずなのに、いつの間にかもっと近くへ寄ってきたらしい。


 小さく微笑んだ。


「……おはよう、フィエル」


 琥珀色の瞳がゆっくり開いた。フィエルは一度だけ耳を動かし、また目を閉じた。


「……まだ眠い?」


 そっと頭を撫でると、小さな尻尾が揺れた。その様子が可愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。


 フィエルが身体を起こそうとしたとき、表情を引き締めた。後ろ脚をまだかばっている。昨日より少し動けるようになった気もするが、普通に歩くには時間がかかりそうだった。


「……今日はあまり歩かないほうがいいかな」


 だがここに留まっていても食べ物は限られている。水も十分ではない。それに、オルテンへ向かわなければならない。


 少し考えてから布袋を開き、中身を整理して着替えを畳み直した。その上に、フィエルが乗れるくらいの空間を作る。


「……入れるかな?」


 フィエルは首を傾げた。布袋を地面に置き、口を広げた。


「歩くの、痛いでしょう?」


 フィエルはしばらく袋を見つめていた。それから、ゆっくりと前脚を入れた。後ろ脚をかばいながら、小さな身体を袋の中へ滑り込ませる。


 目を輝かせた。


「……入った!」


 布袋から、銀白色の耳が二つ覗いている。思わず笑った。


「……かわいい」


 フィエルは少し不満そうに鼻を鳴らした。


     *


 フィエルを入れた布袋を持ち上げると、思わずよろめいた。


「……お、重い」


 フィエルは小さい。だが図鑑や水筒、着替えまで入った袋は、リシェにはずいぶん重かった。


 一度袋を下ろし、中身を取り出して持ち方を考えた。図鑑は布で包み、胸元に抱える。水筒は紐で腰に結び、袋には着替えとフィエルを入れる。それでも軽くはならなかった。


「……少しずつ、歩こう」


 袋を両腕で抱えた。フィエルは縁に顎を乗せ、こちらを見上げている。


「……落ちないでね」


 そう声をかけて、ゆっくり歩き始めた。


     *


 林道は、昨日より少し広くなっていた。木々の間隔が開き、地面には車輪の跡が残っている。


 その跡を見つめた。人が通ったのだ。それも、つい最近。轍の中にはまだ新しい土が見えていた。


「……街道が近いのかな」


 顔を上げた。木々の向こうが、少し明るく見える。風の匂いも変わってきた。湿った森の匂いに、乾いた土と草の匂いが混じっている。


 胸の奥が高鳴るのを感じた。森の外。孤児院を出てから、初めて見る広い道。どんな場所なのだろう。


 少しだけ歩く速度を上げた。だがすぐに足が痛み、立ち止まった。


「ゆっくり、だった」


 自分に言い聞かせるように呟く。フィエルが袋の中から、じっとリシェを見上げていた。


「大丈夫だよ」


 その声には少し疲れが混じっていた。


     *


 昼を過ぎた頃、ようやく森の出口へたどり着いた。木々の間から、明るい光が差し込んでいる。


 思わず足を止めた。目の前には、踏み固められた土の広い街道が続いていた。両脇には草地が広がり、その向こうには低い丘が見える。空が驚くほど広かった。


「わあ」


 小さく声を上げた。森の中では、空は木々の隙間からしか見えなかった。でも、ここには遮るものがない。青い空がどこまでも続いている。


 しばらく、その景色を眺めていた。フィエルも袋から顔を出し、耳を動かしている。


「広いね」


 呟くと、フィエルは小さく鼻を鳴らした。


     *


 街道へ出てから、西へ向かって歩き始めた。ガルドが教えてくれた方向だ。


 道は森の中より歩きやすかった。木の根も、深い落ち葉もない。だが日差しを遮るものが少なく、しばらく歩くと額に汗が滲んできた。


 道端の木陰で休むことにした。布袋を下ろし、フィエルをそっと地面へ降ろす。フィエルは後ろ脚をかばいながら、草の上に伏せた。


 その隣に座り、昨日集めた果実を取り出した。残っているのは、三つだけだった。


「半分こしようか」


 実を一つ割り、フィエルの前に置いた。フィエルは小さく匂いを嗅ぎ、果肉を食べ始めた。


 リシェも少しずつ口にした。甘酸っぱい味が広がった。けれど、それだけではお腹は満たされなかった。


 遠くの街道を見つめた。誰か、通らないだろうか。そう思った。でももしカルンから探しに来た人だったら。


 すぐに視線を落とした。人に会いたい。でも、見つかりたくない。その気持ちはまだ変わらなかった。


     *


 午後の光が少し傾き始めた頃、遠くからかすかな音が聞こえてきた。


 からん。


 からん。


 金属が触れ合うような音だった。顔を上げると、街道の向こうに小さな影が見える。ゆっくりと近づいてくる。


 目を細めた。荷車だった。大きな荷物を積んだ木製の車を、一頭の灰色の驢馬が引いている。車の横には、三人の人影があった。


 慌てて布袋を抱えた。隠れたほうがいいだろうか。だが街道には身を隠せる場所が少ない。それに、もう相手はこちらに気づいているかもしれない。


 立ち尽くした。


     *


「おや?」


 最初に声をかけてきたのは、荷車の横を歩いていた男だった。丸い顔に、少し大きな鼻。茶色い上着を着た、中年の男だった。


 男はリシェを見ると、驚いたように目を丸くした。


「こんなところに、子ども?」


 小さく頭を下げた。


「こんにちは」

「こんにちは」


 男は穏やかに返した。その後ろにいた二人は、すぐに周囲を見回した。


 一人は背の高い男で、腰には剣を下げている。もう一人は、短い赤茶色の髪をした女性だった。こちらも武器を身につけている。


 護衛だろうか。少し緊張した。


「君、一人かい?」


 中年の男が尋ねた。迷ってから、首を横に振った。


「……一人じゃ、ありません」


 男は首を傾げた。そのとき、布袋の中から銀白色の耳が覗いた。


「……きゅ」


 小さな声がした。男は目を見開いた。


「おやおや。かわいい連れがいるじゃないか」


 少しだけ微笑んだ。


「フィエルです」

「フィエル?」

「この子の名前です」

「なるほど」


 男は笑った。


「いい名前だね」


 フィエルは袋の中から、じっと男を見つめていた。


     *


「俺はハンス。行商人をしている」


 男は胸に手を当てた。


「こっちは護衛のダリオとリタだ」


 背の高い男が軽く頷いた。


「ダリオだ」


 赤茶色の髪の女性も、片手を上げた。


「リタよ。よろしくね」


 小さく頭を下げた。


「……リシェです」


 ハンスは微笑んだ。


「リシェちゃんか。いい名前だ」


 それから、少しだけ表情を曇らせた。


「それで、リシェちゃん。こんな街道で、何をしているんだい?」


 答えに迷った。孤児院から逃げてきたことは、言いたくない。でも嘘をつくのも苦手だった。


「……オルテンへ、行きたいんです」


 ハンスは目を丸くした。


「オルテン?」

「……はい」

「一人で?」


 布袋を見下ろした。


「……フィエルと、二人です」


 ハンスは少し困ったように笑った。その横で、リタがリシェの足元を見つめていた。


「その靴」


 顔を上げた。


「……はい?」

「足、痛いでしょう」


 驚いた。リタはしゃがみ込み、リシェの靴を見た。


「歩き方が少しおかしいもの。靴擦れしてるんじゃない?」


 小さく頷いた。


「……少し」

「少し、ねえ」


 リタは眉を寄せ、それからフィエルの方を見た。


「その子も怪我してる?」


 目を見開いた。


「……わかるんですか?」

「包帯が見えてるもの」


 リタは穏やかに言った。布袋を抱きしめた。


「……罠にかかっていて」


 リタの表情が変わった。


「罠?」

「はい。森で見つけたんです」


 小さく頷いた。


「……図鑑を見ながら手当てしました」


 リタはしばらく黙っていた。それからハンスを見上げた。


「……この子たち、このまま歩かせるつもり?」


 ハンスは困ったように頭を掻いた。


「いやあ、そうは言ってもねえ」


 ダリオが口を開いた。


「荷車には空きがある。少しなら乗せられるだろう」


 ハンスは目を瞬かせた。


「おや、ダリオがそんなことを言うとは」

「怪我人を置いていくよりましだ」


 ダリオは短く答えた。


 三人を見つめた。荷車に乗せてもらえる。そう思った瞬間、胸が高鳴った。けれど、同時に不安も湧いてきた。


 この人たちは、本当に信用していいのだろうか。


     *


「どうする、リシェちゃん?」


 ハンスが尋ねた。


「俺たちはオルテンへ向かう途中なんだ。途中まででも、乗っていくかい?」


 答えられなかった。荷車、商人、そして知らない大人たち。ヴァルツ商会のことが、頭をよぎった。


 優しい言葉、甘いお菓子、立派な服。あのときも、みんな親切だった。けれど、自分は何も知らなかった。どこへ連れていかれるのか。何が待っているのか。


 布袋を強く抱きしめた。フィエルが小さく鼻を鳴らした。その頭をそっと撫でた。


「……少し、考えてもいいですか?」


 ハンスは驚いたように目を丸くした。それから穏やかに微笑んだ。


「もちろん」


 リタも頷いた。


「急がなくていいわ」


 ダリオは何も言わず、街道の向こうを見張っていた。


 三人を見つめた。この人たちは返事を急がせなかった。それだけで、少しだけ安心した。


     *


 夕方の風が街道を吹き抜けていった。驢馬が小さく鼻を鳴らし、荷車の車輪がきしりと音を立てた。


 布袋の中のフィエルを見つめた。琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを見上げている。


「……どうしようか」


 フィエルは答えなかった。だがリシェの指先に鼻を寄せた。


 森の中では、何もかも自分で決めなければならなかった。今もそれは変わらない。


 誰かが優しくしてくれたからといって、すべてを任せていいわけではない。けれど、誰かの手を借りることが、必ずしも悪いことではないのかもしれない。


 ゆっくり顔を上げるとハンスたちは、少し離れた場所で待っていた。


 リシェは小さく息を吸った。そして、自分の足で一歩、前へ踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。