第十九話 街道をいく人々
朝の光が草地に差し込んでいた。
リシェはゆっくりと目を開けた。胸元には柔らかな温もりがあった。フィエルだった。銀白色の小さな身体を丸め、腕の中で眠っている。昨夜、膝の上に頭を乗せていたはずなのに、いつの間にかもっと近くへ寄ってきたらしい。
小さく微笑んだ。
「……おはよう、フィエル」
琥珀色の瞳がゆっくり開いた。フィエルは一度だけ耳を動かし、また目を閉じた。
「……まだ眠い?」
そっと頭を撫でると、小さな尻尾が揺れた。その様子が可愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。
フィエルが身体を起こそうとしたとき、表情を引き締めた。後ろ脚をまだかばっている。昨日より少し動けるようになった気もするが、普通に歩くには時間がかかりそうだった。
「……今日はあまり歩かないほうがいいかな」
だがここに留まっていても食べ物は限られている。水も十分ではない。それに、オルテンへ向かわなければならない。
少し考えてから布袋を開き、中身を整理して着替えを畳み直した。その上に、フィエルが乗れるくらいの空間を作る。
「……入れるかな?」
フィエルは首を傾げた。布袋を地面に置き、口を広げた。
「歩くの、痛いでしょう?」
フィエルはしばらく袋を見つめていた。それから、ゆっくりと前脚を入れた。後ろ脚をかばいながら、小さな身体を袋の中へ滑り込ませる。
目を輝かせた。
「……入った!」
布袋から、銀白色の耳が二つ覗いている。思わず笑った。
「……かわいい」
フィエルは少し不満そうに鼻を鳴らした。
*
フィエルを入れた布袋を持ち上げると、思わずよろめいた。
「……お、重い」
フィエルは小さい。だが図鑑や水筒、着替えまで入った袋は、リシェにはずいぶん重かった。
一度袋を下ろし、中身を取り出して持ち方を考えた。図鑑は布で包み、胸元に抱える。水筒は紐で腰に結び、袋には着替えとフィエルを入れる。それでも軽くはならなかった。
「……少しずつ、歩こう」
袋を両腕で抱えた。フィエルは縁に顎を乗せ、こちらを見上げている。
「……落ちないでね」
そう声をかけて、ゆっくり歩き始めた。
*
林道は、昨日より少し広くなっていた。木々の間隔が開き、地面には車輪の跡が残っている。
その跡を見つめた。人が通ったのだ。それも、つい最近。轍の中にはまだ新しい土が見えていた。
「……街道が近いのかな」
顔を上げた。木々の向こうが、少し明るく見える。風の匂いも変わってきた。湿った森の匂いに、乾いた土と草の匂いが混じっている。
胸の奥が高鳴るのを感じた。森の外。孤児院を出てから、初めて見る広い道。どんな場所なのだろう。
少しだけ歩く速度を上げた。だがすぐに足が痛み、立ち止まった。
「ゆっくり、だった」
自分に言い聞かせるように呟く。フィエルが袋の中から、じっとリシェを見上げていた。
「大丈夫だよ」
その声には少し疲れが混じっていた。
*
昼を過ぎた頃、ようやく森の出口へたどり着いた。木々の間から、明るい光が差し込んでいる。
思わず足を止めた。目の前には、踏み固められた土の広い街道が続いていた。両脇には草地が広がり、その向こうには低い丘が見える。空が驚くほど広かった。
「わあ」
小さく声を上げた。森の中では、空は木々の隙間からしか見えなかった。でも、ここには遮るものがない。青い空がどこまでも続いている。
しばらく、その景色を眺めていた。フィエルも袋から顔を出し、耳を動かしている。
「広いね」
呟くと、フィエルは小さく鼻を鳴らした。
*
街道へ出てから、西へ向かって歩き始めた。ガルドが教えてくれた方向だ。
道は森の中より歩きやすかった。木の根も、深い落ち葉もない。だが日差しを遮るものが少なく、しばらく歩くと額に汗が滲んできた。
道端の木陰で休むことにした。布袋を下ろし、フィエルをそっと地面へ降ろす。フィエルは後ろ脚をかばいながら、草の上に伏せた。
その隣に座り、昨日集めた果実を取り出した。残っているのは、三つだけだった。
「半分こしようか」
実を一つ割り、フィエルの前に置いた。フィエルは小さく匂いを嗅ぎ、果肉を食べ始めた。
リシェも少しずつ口にした。甘酸っぱい味が広がった。けれど、それだけではお腹は満たされなかった。
遠くの街道を見つめた。誰か、通らないだろうか。そう思った。でももしカルンから探しに来た人だったら。
すぐに視線を落とした。人に会いたい。でも、見つかりたくない。その気持ちはまだ変わらなかった。
*
午後の光が少し傾き始めた頃、遠くからかすかな音が聞こえてきた。
からん。
からん。
金属が触れ合うような音だった。顔を上げると、街道の向こうに小さな影が見える。ゆっくりと近づいてくる。
目を細めた。荷車だった。大きな荷物を積んだ木製の車を、一頭の灰色の驢馬が引いている。車の横には、三人の人影があった。
慌てて布袋を抱えた。隠れたほうがいいだろうか。だが街道には身を隠せる場所が少ない。それに、もう相手はこちらに気づいているかもしれない。
立ち尽くした。
*
「おや?」
最初に声をかけてきたのは、荷車の横を歩いていた男だった。丸い顔に、少し大きな鼻。茶色い上着を着た、中年の男だった。
男はリシェを見ると、驚いたように目を丸くした。
「こんなところに、子ども?」
小さく頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
男は穏やかに返した。その後ろにいた二人は、すぐに周囲を見回した。
一人は背の高い男で、腰には剣を下げている。もう一人は、短い赤茶色の髪をした女性だった。こちらも武器を身につけている。
護衛だろうか。少し緊張した。
「君、一人かい?」
中年の男が尋ねた。迷ってから、首を横に振った。
「……一人じゃ、ありません」
男は首を傾げた。そのとき、布袋の中から銀白色の耳が覗いた。
「……きゅ」
小さな声がした。男は目を見開いた。
「おやおや。かわいい連れがいるじゃないか」
少しだけ微笑んだ。
「フィエルです」
「フィエル?」
「この子の名前です」
「なるほど」
男は笑った。
「いい名前だね」
フィエルは袋の中から、じっと男を見つめていた。
*
「俺はハンス。行商人をしている」
男は胸に手を当てた。
「こっちは護衛のダリオとリタだ」
背の高い男が軽く頷いた。
「ダリオだ」
赤茶色の髪の女性も、片手を上げた。
「リタよ。よろしくね」
小さく頭を下げた。
「……リシェです」
ハンスは微笑んだ。
「リシェちゃんか。いい名前だ」
それから、少しだけ表情を曇らせた。
「それで、リシェちゃん。こんな街道で、何をしているんだい?」
答えに迷った。孤児院から逃げてきたことは、言いたくない。でも嘘をつくのも苦手だった。
「……オルテンへ、行きたいんです」
ハンスは目を丸くした。
「オルテン?」
「……はい」
「一人で?」
布袋を見下ろした。
「……フィエルと、二人です」
ハンスは少し困ったように笑った。その横で、リタがリシェの足元を見つめていた。
「その靴」
顔を上げた。
「……はい?」
「足、痛いでしょう」
驚いた。リタはしゃがみ込み、リシェの靴を見た。
「歩き方が少しおかしいもの。靴擦れしてるんじゃない?」
小さく頷いた。
「……少し」
「少し、ねえ」
リタは眉を寄せ、それからフィエルの方を見た。
「その子も怪我してる?」
目を見開いた。
「……わかるんですか?」
「包帯が見えてるもの」
リタは穏やかに言った。布袋を抱きしめた。
「……罠にかかっていて」
リタの表情が変わった。
「罠?」
「はい。森で見つけたんです」
小さく頷いた。
「……図鑑を見ながら手当てしました」
リタはしばらく黙っていた。それからハンスを見上げた。
「……この子たち、このまま歩かせるつもり?」
ハンスは困ったように頭を掻いた。
「いやあ、そうは言ってもねえ」
ダリオが口を開いた。
「荷車には空きがある。少しなら乗せられるだろう」
ハンスは目を瞬かせた。
「おや、ダリオがそんなことを言うとは」
「怪我人を置いていくよりましだ」
ダリオは短く答えた。
三人を見つめた。荷車に乗せてもらえる。そう思った瞬間、胸が高鳴った。けれど、同時に不安も湧いてきた。
この人たちは、本当に信用していいのだろうか。
*
「どうする、リシェちゃん?」
ハンスが尋ねた。
「俺たちはオルテンへ向かう途中なんだ。途中まででも、乗っていくかい?」
答えられなかった。荷車、商人、そして知らない大人たち。ヴァルツ商会のことが、頭をよぎった。
優しい言葉、甘いお菓子、立派な服。あのときも、みんな親切だった。けれど、自分は何も知らなかった。どこへ連れていかれるのか。何が待っているのか。
布袋を強く抱きしめた。フィエルが小さく鼻を鳴らした。その頭をそっと撫でた。
「……少し、考えてもいいですか?」
ハンスは驚いたように目を丸くした。それから穏やかに微笑んだ。
「もちろん」
リタも頷いた。
「急がなくていいわ」
ダリオは何も言わず、街道の向こうを見張っていた。
三人を見つめた。この人たちは返事を急がせなかった。それだけで、少しだけ安心した。
*
夕方の風が街道を吹き抜けていった。驢馬が小さく鼻を鳴らし、荷車の車輪がきしりと音を立てた。
布袋の中のフィエルを見つめた。琥珀色の瞳が、まっすぐこちらを見上げている。
「……どうしようか」
フィエルは答えなかった。だがリシェの指先に鼻を寄せた。
森の中では、何もかも自分で決めなければならなかった。今もそれは変わらない。
誰かが優しくしてくれたからといって、すべてを任せていいわけではない。けれど、誰かの手を借りることが、必ずしも悪いことではないのかもしれない。
ゆっくり顔を上げるとハンスたちは、少し離れた場所で待っていた。
リシェは小さく息を吸った。そして、自分の足で一歩、前へ踏み出した。




