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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第二十話 荷馬車の小さな旅人


「……あの」


 リシェが声をかけると、ハンスが振り返った。


「おや、決まったかい?」


 胸元の布袋を抱き直した。袋の縁からフィエルの銀白色の耳が覗いている。


「オルテンまで、一緒に行ってもいいですか」


 ハンスはにっこり笑った。


「もちろん。こちらこそ、よろしく頼むよ」

「でも」


 言葉を続けた。


「お金は、あまり持っていなくて……」


 ハンスは少し驚いた顔をした。それから、声を立てて笑った。


「ははは! こんな小さな旅人から、荷車代を取るつもりはないさ」

「本当ですか?」

「ああ。どうせ同じ道を行くんだ。荷物が一つ増えるくらい、どうということはない」


 少し迷った。何かをもらうときには必ず理由がある。孤児院ではそう教えられてきた。けれど、ハンスは代わりに何かを求める様子もなかった。


「……ありがとうございます」


 深く頭を下げた。その様子を見ていたリタが、くすりと笑った。


「そんなにかしこまらなくていいのよ。ほら、乗りましょう」


     *


 荷車は思っていたより大きかった。木箱や麻袋が積まれ、その間には毛布や食器、旅道具が収められている。荷台の後ろには人が座れるくらいの空間があった。


 リタはそこに厚手の布を敷いた。


「ここなら揺れも少しはましよ」


 荷台を見上げた。思っていたより、高い。自分で登ろうとしたが、足がうまく上がらなかった。


「……あ」


 よろめいたところを、リタが支えた。


「無理しないの」


 そう言って、リシェの身体をそっと持ち上げた。


 驚いて目を丸くした。こんなふうに抱き上げられたのは、いつ以来だろう。少なくとも、最近の記憶にはなかった。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 リタは笑って、リシェを荷台に座らせた。フィエルの入った袋も隣へそっと置く。するとフィエルがひょこりと顔を出した。


「まあ」


 リタが目を細めた。


「本当にかわいい子ね」


 フィエルは警戒するように耳を伏せた。リタはすぐに手を引いた。


「おっと。触らないから安心して」


 その言葉に、少しだけ安心した。


     *


「さて、出発するか」


 ハンスが御者台に腰を下ろし、灰色の驢馬の首を軽く撫でた。


「頼むぞ、ロッテ」


 驢馬はぶるる、と鼻を鳴らした。目を輝かせた。


「……ロッテ?」

「そう。この子の名前だよ」


 ハンスは振り返った。


「もう十年近く、一緒に旅をしているんだ」

「十年も?」

「ああ。私よりよっぽど道を覚えている」


 ハンスが笑うと、ロッテは耳を動かした。まるで得意そうにしているみたいだった。思わず微笑んだ。


「すごいね、ロッテ」


 ロッテはもう一度、鼻を鳴らした。やがて、荷車がゆっくり動き始めた。


 ごとん。


 ごとん。


 車輪が土の上を転がる。荷台の縁を握った。自分の足で歩かなくても、景色が少しずつ後ろへ流れていく。それが不思議で、しばらく見入ってしまった。


     *


 街道の両側には草原が広がっていた。遠くには低い丘があり、その向こうには青みがかった山並みが見える。時々、鳥が空を横切った。


 荷台から身を乗り出さないようにしながら、景色を眺めた。森の中とはまるで違う世界だった。


「……きれい」


 思わず呟くと、荷車の横を歩いていたダリオが顔を上げた。


「初めてか?」


 頷いた。


「……はい。こんなに広い道は、初めてです」


 ダリオは少しだけ目を細めた。


「そうか」


 それ以上は何も聞かなかった。少しほっとした。どこから来たのか。どうして一人なのか。そんなことを聞かれると思っていたからだ。けれど、ダリオはただ周囲を見張りながら歩いていた。


     *


 しばらく進んだところで、リタが荷台に上がってきた。


「リシェ。ちょっと、その子の脚を見せてもらってもいい?」


 フィエルを見下ろした。銀白色の小さな身体は、布の上で丸くなっている。


「……フィエル、いい?」


 フィエルはリタを見つめた。琥珀色の瞳には、まだ警戒の色が残っている。リタは無理に近づかなかった。


「私、治療師じゃないけどね。護衛の仕事をしてると、怪我の手当てくらいは覚えるの」


 少し考えて、フィエルの頭をそっと撫でた。


「見てもらおう?」


 フィエルは小さく鼻を鳴らした。ゆっくり布をほどくと、後ろ脚の傷が現れた。


「……思ったより深いわね」


 その言葉に胸がきゅっとなった。


「治りますか?」


「今ここで、必ず治るとは言えないわ」


 リタは正直に答えた。


「でも傷の周りはきれいにしてあるし、布もきつく巻きすぎていない。よく頑張ったわね」


 驚いて顔を上げた。


「図鑑を見ながら、やったんです」

「図鑑?」


 大切な本を取り出した。擦り切れた表紙を見て、リタが目を丸くする。


「ずいぶん読み込んでるのね」

「はい」


 少しだけ誇らしくなった。


「植物も魔獣も、たくさん載っているんです」


 リタはページを覗き込んだ。


「へえ。なかなか詳しい本じゃない」


 それからフィエルの脚へ視線を戻した。


「薬草を使ったの?」

「はい。でも、深い傷に直接つけるのは怖くて、周りだけにしました」

「それでよかったと思うわ。何の植物か確かめられても、その子に合うとは限らないもの」


 自分が迷ったことは、間違いではなかったらしい。それだけで、少し胸が軽くなった。


     *


 リタは荷物から小さな革袋を取り出した。中には清潔な布や細い包帯、小瓶が入っていた。


「旅の途中では、こういうものが役に立つのよ」


 興味深そうに覗き込む。


「……いつも持っているんですか?」

「ええ。怪我はいつ起きるかわからないから」


 リタは水を含ませた布で、フィエルの傷の周りを慎重に拭った。フィエルが小さく身をよじる。慌てて声をかけた。


「フィエル、大丈夫だよ」


 琥珀色の瞳がリシェを見上げた。そっと頭を撫でた。


「……もう少しだけ」


 不思議なことに、フィエルはそれ以上暴れなかった。リタが小さく目を見開いた。


「あなたの声、ちゃんと聞いてるみたいね」


 首を傾げた。


「そうでしょうか」

「ええ。少なくとも、あなたのことは信頼してるんでしょうね」


 フィエルを見つめると、小さな鼻先が指に触れた。その温かさにリシェは微笑んだ。


     *


 手当てが終わると、リタは新しい布を巻いた。


「しばらくは、無理に歩かせないほうがいいわ」

「……はい」

「それから、腫れが強くなったり、元気がなくなったりしたら、ちゃんと診てもらわないとね」


「……オルテンに、治療師さんはいますか?」

「いるわよ。人を診る治療師も、家畜や魔獣を診られる人も」 


「……本当ですか?」

「ええ。ただ、魔獣を診られる人は限られるから、街に着いたら聞いてみましょう」

「……よかったね」


 フィエルは小さく尻尾を動かした。


     *


 夕方、ハンスたちは街道沿いの休憩場所で荷車を止めた。そこには旅人が火を使った跡が残っていた。


 ダリオが周囲を確かめ、リタが薪を集める。ハンスは荷台から鍋を取り出した。


「さて、夕飯にしようか」


 リシェは目を丸くした。


「……夕飯?」

「もちろん。旅をするには、食べなきゃいけないからね」

「……私も食べていいんですか?」


 ハンスは不思議そうに首を傾げた。


「一緒に旅をしているんだから、当たり前だろう?」


 その言葉に、何も言えなくなった。


 当たり前。


 そんなふうに言われたことが、あまりなかった。小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


     *


 鍋の中では野菜と豆が煮えていた。リタが干し肉を細かく切り、少しずつ加える。香ばしい匂いが広がった。


 お腹が、きゅう、と鳴った。リタが振り返った。


「ふふ。お腹空いた?」


 頬を赤くした。


「……はい」

「もう少し待ってね」


 火のそばに座り、鍋を見つめた。フィエルは隣の毛布の上で丸くなり、時々鼻を動かしていた。


 やがて、ハンスが木の器にスープをよそった。


「はい、お待たせ」


 両手で受け取った。温かい。湯気が、顔に触れる。そっと息を吹きかけ、それから一口飲んだ。


「……おいしい」


 思わず声が漏れた。豆の柔らかさ、野菜の甘み、少し塩気のあるスープ。身体の奥まで、温かさが広がっていく。


 ゆっくりと食べた。急いで食べると、お腹が驚いてしまいそうだった。ハンスはそんなリシェを見て、穏やかに微笑んだ。


「たくさん歩いてきたんだろう。ゆっくり食べるといい」


 小さく頷いた。


     *


 食事の後、リタはフィエルのために、味つけ前に取り分けておいた柔らかな肉を少し持ってきた。


「この子、食べられるかしら」


 フィエルの前に置いた。フィエルは匂いを嗅ぎ、それから小さく口を開けた。


 もぐもぐ。


 ゆっくりと食べ始める。嬉しくなった。


「食べた!」


 リタも笑った。


「よかった。食欲があるのはいいことね」


 フィエルは肉を食べ終えると、リシェの膝に頭を乗せた。そっと撫でた。


「……おいしかった?」


 フィエルは小さく鼻を鳴らした。


     *


 夜になると、ハンスは荷台の一角に毛布を敷いてくれた。


「今日はここで眠るといい。外よりは風を避けられるからね」


 目を丸くした。


「……いいんですか?」

「もちろん」


 ハンスは笑った。


「フィエルも一緒でいいよ」


 深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 毛布は思っていたより柔らかかった。そこに横になり、フィエルを隣へ寝かせた。荷台の外では火が小さく燃え、ハンスたちの話し声が時々聞こえてきた。


 知らない大人たち。知らない荷車。知らない街道。それでも、今夜は少しだけ安心できた。


 フィエルの頭を撫でた。


「……よかったね、フィエル」


 フィエルは目を細めた。毛布を胸元まで引き上げ、ゆっくりと目を閉じた。


 森の中では毎晩、風の音に耳を澄ませていた。けれど今夜は違う。荷車の外には誰かがいる。火を守り、周囲を見張り、明日の道を知っている人たちが。


 小さく息を吐いた。人を信じることはまだ少し怖い。でも全ての親切を疑わなくてもいいのかもしれない。


 そう思いながら、久しぶりに深い眠りへ落ちていった。

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