第二十一話 荷車の上の小さな教室
朝、リシェは焼いたパンの匂いで目を覚ました。最初は夢を見ているのかと思った。
孤児院の厨房から漂ってきた、焼きたてのパンの匂い。朝食の時間が近づくと、廊下の向こうから聞こえてきた食器の音。
でも目を開けると、そこには見慣れない木の天井があった。荷車の幌だった。
「……そうだった」
毛布の中で小さく呟いた。
もう孤児院じゃないんだ。
ここはオルテンへ向かう街道の途中で、今はハンスたちと一緒に旅をしている。
胸元ではフィエルが丸くなって眠っていた。銀白色の毛に、朝日が淡く差し込んでいる。そっと身体を起こすと、フィエルも顔を上げた。
「おはよう、フィエル」
琥珀色の瞳がゆっくり瞬いた。その頭を撫でてから、荷台の外を覗いた。
小さな焚き火のそばでリタがパンを温めていた。ハンスは荷物の紐を締め直し、ダリオは街道の様子を確かめている。灰色の驢馬ロッテは、少し離れた場所で草を食んでいた。
リシェが一番最後だ。
「おはようございます」
声をかけると、リタが振り返った。
「おはよう、リシェ。よく眠れた?」
「はい」
「それならよかった。朝ごはん、もうすぐできるわよ」
荷台から降りようとして、少し迷った。昨日はリタに持ち上げてもらったけど、毎回助けてもらうのは申し訳ない。荷台の縁に手をかけ、慎重に足を下ろす。
「待て」
ダリオに止められた。
「そこは高い。車輪の横に足掛けがある」
下を覗くと、確かに小さな木の踏み台が取り付けられていた。教えられた通りに足をかけると、昨日よりずっと楽に降りられた。
「ありがとうございます」
ダリオは短く頷いた。
「怪我を増やすなよ」
自分の靴を見下ろした。まだ痛みは残っている。だが昨日はほとんど歩かずに済んだおかげか、少し楽になっていた。
*
朝食は温めた黒パンと豆の煮込みだった。木の器を両手で持ち、少しずつ口へ運んだ。
昨日の夕食に続いて温かいものを食べられる。それだけで朝が特別なものに感じられた。
フィエルには、リタが取り分けておいた味のついていない肉が与えられた。小さな口で懸命に食べる姿を見て、ほっとする。
「フィエル、食べられてよかったね」
フィエルは顔を上げ、鼻先についた肉の欠片を舐めた。その様子を見ていたハンスが笑った。
「なかなか食いしん坊だな、その子は」
「私も食べるの好きです」
真面目に答えると、ハンスは一瞬きょとんとしてから、声を立てて笑った。張り合っているように見えたのだ。
「ははは! それはいい。旅人にとって、食べる楽しみは大事だからね」
少し頬を赤くした。でもハンスの笑い方は嫌な感じがしなかった。
*
朝食を終えると、荷車は再び西へ向かって動き始めた。ロッテの蹄が規則正しく地面を踏む。
ごとん、ごとん、と車輪が揺れる。
荷台の後ろに座り、フィエルを膝に乗せていた。
今日は昨日より空が高く見えた。遠くの丘には薄い雲の影がゆっくり流れている。街道沿いには、ときどき畑や牧草地が現れた。
森の中では見られなかった景色ばかりだ。飽きることなく眺めていた。
「そんなに珍しいかい?」
御者台からハンスが声をかけた。
「はい」
「畑がこんなに広いのも初めてです」
「そうかそうか。なら、オルテンに着いたらもっと驚くぞ」
「もっと?」
「ああ。市場にはいろんな土地から品物が集まるからね」
「どんなものがあるんですか?」
「そうだなあ。南からは香辛料、北からは毛皮や鉱石。東の村々からは穀物や果物。珍しいところでは、魔獣の素材を扱う店もある」
「……魔獣の?」
膝の上のフィエルを見下ろした。フィエルは耳をぴくりと動かした。
「もちろん、生きた魔獣を売る店ばかりじゃないよ。抜け落ちた角や鱗、毛なんかを材料にする職人もいるんだ」
「そうなんですね」
昨日、リタがフィエルの傷を手当てしてくれた。森では、角のある大きな魔獣が狼から助けてくれた。けれど、人間の街では、魔獣は材料として扱われることもある。
図鑑には載っていたことだが、実際に聞くと不思議な気持ちになった。
「魔獣って、怖いものなんですか?」
尋ねると、ハンスは少し考えた。
「種類によるね。人を襲うものもいるし、近づかなければ何もしないものもいる。家畜のように飼われる種類だっている」
「そうなんですか」
「ただ、見た目だけで安全かどうかは決められない。知らない魔獣には近づかない方がいいよ」
頷きながら、森で出会った角のある魔獣を思い出していた。
あの大きな生き物は、自分を助けてくれた。図鑑には人を警戒すると書かれていたのに。
どうしてだったのだろう。
その疑問を胸の中にしまった。
*
昼近くになると、ハンスは荷車を道端に止めた。ロッテを休ませるためだった。
荷台から降り、驢馬のそばへ歩いていった。ロッテは草を食べながら、ゆっくり耳を動かしている。
「ロッテ」
声をかけると、驢馬は顔を上げた。大きな黒い瞳が、リシェを見つめる。
「いつも荷物を運んでるんだね」
ロッテは鼻を鳴らした。それを見て少し笑った。
「すごいね」
すると、ハンスが近づいてきた。
「撫でてみるかい?」
「いいんですか?」
「ああ。ロッテは人に慣れているからね。ただし、後ろから急に近づいちゃいけないよ」
頷き、ロッテの首へそっと手を伸ばした。毛は思っていたより硬かったけど、温かかった。ロッテは嫌がる様子もなく、ゆっくり目を細めた。
「ふふ」
フィエルとは違う毛の感触。違う身体の大きさ。けれど、触れると温かいところは同じだった。
*
昼食の後、ハンスは荷台から小さな木箱を取り出した。中には布の束や紐、針、留め金などがきれいに並べられている。リシェは興味深そうに覗き込んだ。
「これ、全部売るんですか?」
「そうだよ。村では針や糸がよく売れるし、街では少し珍しい布が人気なんだ」
「場所によって違うんですね」
「その通り」
ハンスは嬉しそうに頷いた。
「同じ品物でも欲しがる人がいる場所へ運べば価値が変わる。商売っていうのは、そういうものなんだ」
しばらく考えて、尋ねる。
「じゃあ森で採った薬草も、街では売れるんですか?」
ハンスは目を丸くした。
「薬草?」
布袋から、昨日摘んだ葉の残りを取り出した。少ししおれている。
「図鑑で調べて採ったんです」
ハンスは葉を覗き込んだ。
「ほう。なかなか珍しいものを持っているね」
「売れますか?」
「種類と状態によるかな。薬草を買い取る店はあるけど、何でも買ってくれるわけじゃない」
こくり、頷く。
「でも、オルテンには薬草を扱う組合がある。詳しい人に見てもらえば、何か教えてもらえるかもしれないよ」
顔が明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ。薬草を集めて生計を立てている人もいるからね」
自分の図鑑を見下ろした。植物の名前を覚えるのは好きだった。森で実物を探すのも、怖いことばかりではなかった。
もしそれが仕事になるのなら。
胸の奥が少し高鳴るのを感じた。
*
「でもね、リシェちゃん」
ハンスが穏やかに言った。
「薬草を売るには、ちゃんと見分けられないといけない。間違えたら使う人が困ってしまうからね」
真剣に頷いた。
「はい」
「それから、採っていい場所と、いけない場所もある。街の組合で教えてもらうといいよ」
「わかりました」
その言葉を忘れないよう、覚え書きの小さな冊子を取り出した。短く書きつける。
『薬草を売るなら、種類と採る場所を確認すること。』
ハンスがその様子を見て、感心したように眉を上げた。
「おや。ちゃんと書き留めるんだね」
「忘れたくないので」
「それはいい習慣だ。商人も、記録をつけるのが大事だからね」
褒められて少し嬉しくなった。
*
午後、リタが荷台へ上がってきた。フィエルの傷を確かめるためだった。膝の上のフィエルをそっと抱き直した。
「お願いします」
「はいはい。今日も見せてね」
リタは新しい布を用意し、慎重に包帯を外した。傷の周りはまだ赤い。だが昨日より腫れが少し引いているようだった。
「うん。悪くはなっていないわね」
ほっとした。
「よかった」
「でもまだ歩かせちゃだめよ。治りかけで無理をすると、長引くから」
「はい」
リタは清潔な布で傷を覆い直した。フィエルは少し身じろぎしたが、昨日ほど嫌がらなかった。頭を撫でてやると、静かに目を閉じた。
「本当に、あなたのことが好きなのね」
リタが微笑んだ。少し頬を赤くした。
「私もフィエルが好きです」
フィエルは嬉しそうに小さく尻尾を揺らした。
*
夕方が近づく頃、街道の向こうに小さな村が見えてきた。煙突から細い煙が上がり、畑の間には木造の家が並んでいる。
荷台から身を乗り出しかけ、慌てて座り直した。
「村?」
「ああ。今夜はあそこで休む予定だよ」
ハンスが答えた。
「宿屋もあるし、ロッテを休ませる場所もある」
「宿屋」
その言葉だけで、胸が少し高鳴った。孤児院以外の建物で眠るのは、初めてかもしれない。けれど、すぐに心配になった。
「お金、かかりますよね」
ハンスは笑った。
「まあ、宿屋だからね」
布袋を抱きしめた。銅貨は三枚しかない。宿代を払ったら、オルテンに着く前になくなってしまうかもしれない。
そんなリシェの表情を見て、ハンスは少し声を柔らかくした。
「心配しなくていい。今夜は私たちと一緒で構わないよ」
「……でも」
「その代わり、できることがあったら手伝ってくれるかい?」
「お手伝い?」
「ああ。荷物の数を数えたり、紐をまとめたり。小さな仕事はいくらでもあるからね」
「できます!」
思わず、大きな声が出た。ハンスは笑った。
「それは頼もしい」
胸の奥が温かくなるのを感じた。
ただ助けてもらうだけではなく、自分にもできることがある。それが何より嬉しかった。
*
荷車が村へ近づくと、道の両側に家が増えてきた。
木の柵。小さな畑。井戸のそばで話す人たち。子どもたちが走り回り、犬が吠えている。
その景色をじっと見つめていた。
知らない場所。知らない人たち。けれど、どこか温かい。
フィエルが膝の上で小さく身じろぎした。そっとその頭を撫でた。
「フィエル」
琥珀色の瞳が、こちらを向いた。
「私ね、オルテンに着いたらやってみたいことができたの」
フィエルは首を傾げた。
「薬草のこと、もっと知りたい」
「それから、本屋さんにも行ってみたいな」
図鑑に載っていない植物。まだ知らない魔獣。遠い土地のこと。
世界には、きっとたくさんの本がある。
胸の奥が高鳴るのを感じた。フィエルは小さく鼻を鳴らした。まるで、いいね、と言っているようだった。
「一緒に行こうね」
荷車はゆっくりと村の中へ入っていった。夕焼けの空には、細い雲が伸びている。その光を見上げた。
旅はまだ始まったばかり。
知らなかった世界が、少しずつ自分のものになっていく。
そんな気がしていた。




