第二十二話 小さな商人のお手伝い
村の朝は鶏の鳴き声から始まった。
リシェが目を覚ますと、窓の外はまだ薄明るいばかりだった。昨夜はハンスたちと一緒に宿屋へ泊まった。小さな宿だったけれど、部屋には木の寝台があり、柔らかな毛布が敷かれていた。
その寝台の端に座り、そっと足を床へ下ろした。冷たい木の感触が足の裏に伝わる。
森の地面とは違う。靴を履かなくても足が汚れない。それだけのことが、少し不思議だった。
「おはよう、フィエル」
寝台の脇に置いた毛布の上で、フィエルが顔を上げた。銀白色の毛は昨日より少しきれいになっている。リタが濡らした布で泥を拭いてくれたからだ。後ろ脚にはまだ包帯が巻かれていた。
そっと頭を撫でた。
「今日はお手伝いするんだよ」
フィエルは小さく耳を動かした。
*
朝食を終えると、ハンスは宿屋の裏庭に荷車を移動させた。ロッテは木の柵につながれ、のんびりと草を食んでいる。ダリオは荷車の周囲を確認し、リタは売り物を並べるための布を広げていた。
リシェは布袋を抱えて近づいた。
「おはようございます」
「おはよう、リシェちゃん」
ハンスが笑った。
「よく眠れたかい?」
「はい」
「それならよかった。さて、今日は忙しいぞ」
少し背筋を伸ばして尋ねた。
「何をすればいいですか?」
ハンスは荷車から木箱を一つ下ろした。
「まずはこれを数えてもらおうかな」
箱の中には、小さな金属の留め金が入っていた。銀色のもの。黒いもの。丸いもの。四角いもの。
「種類がたくさん」
目を輝かせるリシェに、ハンスが答えた。
「そう。形と大きさで分けて、数を確かめてほしいんだ」
渡された一枚の紙には、品物の名前と数が書かれていた。
「やってみます」
真剣に頷いた。
*
木箱の前に座り、留め金を一つずつ並べ始めた。丸いものを右へ。四角いものを左へ。大きいものと小さいものを分ける。
最初は簡単そうに思えた。けれど、よく見ると似た形でも穴の数が違っていた。
「あれ?」
手を止めた。同じ丸い留め金に見えたものが、二種類混ざっている。一つは穴が二つ。もう一つは、四つ。
紙を確かめると、そこには別々の品物として記録されていた。
「危なかった」
小さく呟いた。もし、まとめて数えていたら間違えていた。
一つずつ裏返し、穴の数まで確かめることにした。時間はかかったけれど、間違えるよりはいい。
*
しばらくして、数え終えた品物を小さな布の上に並べ、紙と照らし合わせた。
丸い留め金が十二個。四角い留め金が八個。小さな飾り金具が十五個。
一つだけ数が合わなかった。
「……一個足りない」
眉を寄せて、もう一度数える。やはり、一個足りない。
箱の底を覗いた。何もない。布の下も確かめる。それでも見つからなかった。
「どうしよう」
ハンスに伝えるべきだろうか。でも、自分が落としたのかもしれない。
周囲を見回すと、木箱の側面に小さな隙間があることに気づいた。箱の板が少し反っている。そっと指を入れると、何か硬いものが触れた。
「あ」
細い隙間に、小さな金具が挟まっていた。慎重に取り出すと、丸い留め金だった。
「あった!」
思わず声が出た。ハンスが振り返った。
「どうしたんだい?」
金具を見せて答えた。
「箱の隙間に入っていました」
ハンスは目を丸くした。
「おやおや。そんなところに」
小さく頷いた。
「数が合わなかったので、探しました」
ハンスは感心したように笑った。
「よく見つけたね。助かったよ」
「よかったです」
少し頬を赤くして答えた。
*
昼前になると、宿屋の裏庭に村の人たちが集まり始めた。ハンスが売り物を並べる日だと聞いて、買い物に来たらしい。
布。針。糸。小さな金具。香辛料。日用品。
荷車の隅に座り、品物を見つめていた。村の人たちはハンスと楽しそうに話している。
「ハンスさん、前に頼んだ針はあるかい?」
「もちろん。ちゃんと持ってきたよ」
「この布、もう少し安くならない?」
「いやあ、それはちょっと厳しいなあ」
笑い声が響く。
物を売るだけなのに、みんな楽しそうだ。不思議に思った。
ハンスは品物の説明をしながら、村の人たちの話も聞いている。誰の家で子どもが生まれたとか。今年の畑の出来がどうだとか。そんな話までしていた。
その様子をじっと眺めていた。
*
しばらくすると、一人の女性が店先へやってきた。年配の女性で、手には古い上着を持っている。
「ハンスさん、丈夫な糸はあるかい?」
「もちろん。何に使うんだい?」
「孫の上着を直したくてね。すぐに破れてしまうんだよ」
女性は困ったように笑った。ハンスは糸の束をいくつか取り出した。
「それなら、これかな」
その様子を見ていると、女性が持っている上着の袖に目が止まった。破れた部分の布が少し薄くなっている。糸だけで縫っても、また破れてしまいそうだった。
自分が口を出していいのだろうかと少し迷った。でも気になってしまった。
「あの」
小さく声をかけると、女性が振り返った。
「おや、かわいいお嬢さん」
少し緊張しながら口を開いた。
「その上着、袖の布が薄くなっているので……」
女性は首を傾げた。
「うん?」
「糸だけじゃなくて、小さな布を当てたほうが長く使えるかもしれません」
女性は上着を見下ろした。ハンスも覗き込む。
「なるほど。確かに、そこは擦り切れているね」
小さく頷いて答えた。
「孤児院で、服を直すことがあったので」
言ってから、はっとした。
孤児院。その言葉を口にしてしまった。
慌てて俯いたが、女性は特に気にした様子もなかった。
「まあ、そうなの。偉いねえ」
女性は優しく笑った。
「じゃあ当て布も買おうかしら」
ハンスは小さな端切れの束を取り出した。
「それならこれがいいね」
女性が糸と端切れを買い、嬉しそうに帰っていくと、ほっと息を吐いた。
*
「リシェちゃん」
ハンスに声をかけられ、顔を上げた。
「はい」
「さっきは助かったよ」
目を丸くするリシェに、ハンスは続けた。
「ああ。あのまま糸だけ売っていたら、すぐにまた破れてしまったかもしれない」
ハンスは笑った。
「お客さんが本当に必要としているものを考えるのも、商人の仕事なんだ」
しばらく考えてから答えた。
「ただ売るだけじゃないんですね」
「そういうこと」
ハンスは頷いた。
「物を売るのは簡単さ。でも、またこの人から買いたいと思ってもらうのは、なかなか難しい」
その言葉を心の中で繰り返した。
またこの人から買いたい。
そう思ってもらえること。それが商人にとって大切なのだろう。
*
午後になると、客足は少し落ち着いた。荷車のそばで、売れた品物の数を記録する手伝いをしていた。ハンスが品物を売るたびに、紙へ印をつける。
最初は少し緊張したけれど、慣れてくると楽しくなってきた。
売れたもの。残っているもの。よく売れるもの。あまり売れないもの。
数字を並べると、村の人たちが何を必要としているのか、少しずつ見えてくる気がした。
「面白い」
思わず呟くと、ハンスが笑った。
「商売の面白さがわかってきたかい?」
「はい」
少し照れながら頷いた。
*
夕方、店じまいの時間になった。ハンスたちは売り物を箱へ戻し、荷車へ積み込んだ。リシェも小さな箱を一つ運んだ。
重いものは持てない。でも自分にもできる仕事があった。
最後の箱を積み終えると、ハンスがリシェを呼んだ。
「リシェちゃん」
「はい」
ハンスは小さな布袋を差し出した。
「今日のお礼だよ」
目を丸くして聞き返した。
「お礼?」
「よく働いてくれたからね」
戸惑いながら言った。
「でも泊めてもらって、ご飯もいただいているのに」
「それとこれとは別さ」
ハンスは穏やかに言った。
「仕事をしてくれた分には、ちゃんとお礼をしないとね」
布袋を見つめた。中には小さな銅貨が二枚入っていて、息を呑んだ。
「お金だ」
「少ないけどね。今日のお手伝いの分だ」
銅貨をそっと手に取った。
冷たい金属の感触。でも胸の奥は温かかった。
今まで持っていた三枚の銅貨は、孤児院で少しずつ集めたものだった。だがこの二枚は違う。
自分が働いてもらったお金だ。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げた。声が少し震えていた。
*
夜、宿屋の寝台に座り、銅貨を並べていた。
一枚。二枚。三枚。四枚。五枚。
全部で五枚になった。何度も数えた。何度数えても、五枚だった。
フィエルが隣から顔を覗かせる。
「見て、フィエル」
小さく微笑んで言った。
「今日初めてお仕事して、お金をもらったの」
フィエルが銅貨に鼻を近づけたので、慌てて手を引いた。
「食べちゃだめだよ」
不思議そうに首を傾げるフィエルを見て、くすりと笑った。それから銅貨を大切に布袋へしまった。
明日も旅は続く。オルテンまでまだ少し距離がある。
けれど心には、昨日までなかったものが生まれていた。
自分にもできることがある。
誰かの役に立てることがある。
そして、その働きでお金をもらうこともできる。
フィエルをそっと抱き寄せた。
「オルテンでもお仕事できるかな」
フィエルは小さく鼻を鳴らした。
「……できたらいいな」
微笑んで言った。
窓の外には星が輝いていた。
小さな村の宿屋で、リシェは初めて自分の力で暮らしていく未来を想像していた。




