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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第二十三話 静かすぎる街道

 

 村を出る朝、リシェは宿屋の女将に何度も頭を下げた。


「お世話になりました」

「はいはい。道中、気をつけるんだよ」


 女将は笑いながら、リシェの頭を軽く撫でた。少し驚いたが、嫌ではなかった。


 宿屋の庭ではハンスがロッテの荷具を確かめている。ダリオは荷車の車輪を点検し、リタは水筒に水を補充していた。


 リシェも自分にできることを探した。昨夜のうちに数を確かめた留め金の箱を、荷台の決まった場所へ戻す。紐がほどけていないか、指先で確かめる。それからフィエルのために敷いた布を整えた。


「これでよし」


 布の上には、銀白色の小さな身体が丸くなっていた。フィエルの後ろ脚はまだ完全には治っていない。だが包帯を替えるときに見た傷は、少しずつ塞がり始めていた。


「今日もゆっくりしようね」


 声をかけると、フィエルは尻尾の先を揺らした。


     *


 村を離れると、街道は緩やかな丘陵地へ続いていた。左右には背の低い草が広がり、ところどころに小さな林がある。森を抜けたばかりのリシェには、どこまでも見通せる道が新鮮だった。


 荷車の幌の隙間から顔を出すと、遠くに白い花の咲く斜面が見えた。


「あの花は何ですか?」


 呟くと、荷車の横を歩いていたリタが顔を上げた。


「どれ?」

「あの丘の白い花です」

「ああ。春の終わりによく咲く花ね。名前は……何だったかしら」


 図鑑を取り出した。遠くからでは細かな形がわからない。でも花の咲く場所や時期から、候補をいくつか考えることはできた。


「近くで見てみたいな」

「オルテンに着いたら、街の外で探してみるといいわ」


 リタは笑った。


「ただし、一人で遠くへ行かないこと」

「はい」


 素直に頷いた。


     *


 昼前、ダリオが不意に足を止めた。街道の脇にある低い茂みを見つめている。


 荷台からその様子を見ていたリシェが尋ねた。


「何かいるんですか?」


 ダリオはすぐには答えなかった。しばらくしてから、短く言った。


「痕跡だ」


 リタも近づいた。茂みの根元には、土を掘り返した跡があった。細かな爪の跡がいくつも重なっている。


「ああ、これ」


 リタが眉を寄せた。


「灰牙鼠ね」

「はいがねずみ?」


 首を傾げると、リタが説明した。


「小型の魔獣よ。鼠に似ているけれど、普通の鼠よりずっと大きいの」


 リタは両手を少し広げた。


「このくらい。牙が灰色で、荷車の食料を狙うことがあるわ」

「そんなに大きいんですか」


 目を丸くして尋ねた。


「ええ。しかも群れで動くことがあるから、油断できないの」


 ダリオは地面にしゃがみ込み、爪痕を確かめた。


「新しい」


 リタの表情が引き締まった。


「近くにいる?」

「おそらくな」


 思わずフィエルを抱き寄せた。フィエルは怖がる様子もなく、茂みの方へ耳を向けていた。


     *


 ダリオはしばらく周囲を見回した。だが魔獣の姿は現れなかった。


 茂みの奥でかすかに草が揺れた。目を凝らすと、一瞬、灰色の小さな影が見えた気がしたけれど、影はすぐに奥へ消えた。


「あ」


 小さく声を上げると、リタが振り返った。


「見えた?」

「少しだけ」


「どんな感じだった?」

「灰色で……小さくて、すぐに隠れちゃいました」


 リタはダリオと顔を見合わせた。


「やっぱりいるわね」


 ダリオは頷いた。だが剣を抜くことはなかった。


「こちらに来る気配はない」


 リタは不思議そうに茂みを見つめた。


「……珍しいわね」

「何がですか?」


 首を傾げて尋ねた。


「灰牙鼠って、荷車を見ると寄ってくることが多いのよ。特に食料を積んでいるとね」


 荷台を見回した。確かに、干し肉や穀物の袋が積まれている。


「お腹が空いていないんでしょうか」


 リタは小さく笑った。


「そうかもしれないわね」


 その声には少し考え込むような響きがあった。


     *


 昼食のために荷車を止めたとき、ダリオは周囲を確かめながら、リタに声をかけた。


「……気づいているか」


 リタは水筒の蓋を閉めながら顔を上げた。


「何に?」

「魔獣だ」


 少し考えてから、リタは眉を上げた。


「ああ」


 ダリオは街道の向こうを見つめた。


「この辺りは小型の魔獣が多い。いつもなら何度か追い払うことになる」

「そうね。去年ここを通ったときは灰牙鼠に干し肉を狙われたわ」

「一昨年は、夜に荷車の下へ潜り込まれた」


 リタは苦笑した。


「あれは大変だったわね。ロッテが驚いて、ハンスが転びそうになって」


 ダリオは頷いた。


「だが今回は一度も寄ってこない」


 リタは黙った。


 確かにそうだった。森を抜けてから何日か経っている。魔獣の痕跡は見つけた。遠くに姿を見たこともあった。だがこちらへ近づいてきたものは一匹もいない。


「……偶然じゃない?」


 リタが言った。ダリオは答えず、ただ荷車の方へ視線を向けた。


     *


 荷台では、リシェがフィエルに水を飲ませていた。小さな木の器を両手で支え、こぼれないようにしている。


「フィエル、ゆっくりね」


 フィエルは器に鼻先を近づけ、ぺろぺろと水を舐めた。その様子を見守っていたが、ダリオの視線に気づくと顔を上げた。


「どうかしましたか?」


 ダリオは少し間を置いた。


「いや」


 それだけ言って、視線を戻した。リタは小さく首を傾げた。


「……何か気になるの?」

「まだわからん」


 ダリオは短く答えた。


     *


 午後、街道は小さな林のそばを通った。木々の間には薄暗い影が広がっている。


 荷台からその林を眺めていると、フィエルが突然、顔を上げた。耳をぴんと立て、林の方を見つめる。


「……フィエル?」


 声をかけても、フィエルは動かなかった。しばらくして、林の奥からかすかな物音が聞こえた。


 がさり。


 目を凝らすと、木々の間に何かがいた。


 小さな影が二つ。三つ。


 だがそれらは街道へ出てこなかった。ただ、こちらを見ているようだった。


 不思議に思った。怖いというより、何かを確かめられているような気がした。


「こんにちは」


 思わず、小さく呟いた。


 その瞬間。


 林の奥で、影が動いた。一つ。また一つ。やがて、すべての影が木々の奥へ消えていった。


 目を瞬かせた。


「行っちゃった」


 フィエルはゆっくり耳を伏せた。それから何事もなかったようにリシェの膝へ頭を乗せた。


     *


 その様子をリタは見ていた。荷車の横を歩きながら、林の奥へ視線を向ける。


 今の影はおそらく灰牙鼠だった。少なくとも三匹。あの距離なら、荷車へ飛び出してきてもおかしくなかった。


 だが近づいてこなかった。


 リタは小さく息を吐いた。


「……ねえ、ダリオ」

「何だ」


「さっきの、見た?」

「ああ」

「やっぱり、少し変じゃない?」


 ダリオは答えなかった。だがその表情は険しかった。


「リシェが乗ってからよね」


 リタが小さく言うと、ダリオは横目で彼女を見た。


「何がだ」

「魔獣が寄ってこなくなったの」


 ダリオはしばらく黙っていた。


「……そうだな」


 リタは荷台を見上げた。リシェは図鑑を開き、何かを熱心に読んでいる。膝の上ではフィエルが眠っていた。


「……あの子たち、何かあるのかしら」


 ダリオは首を横に振った。


「わからん」


 それから少し間を置いて続けた。


「だが悪い気配ではない」


 リタは驚いたように彼を見た。


「珍しいこと言うのね」


 ダリオは答えなかった。


     *


 夕方、荷車は街道沿いの小さな休憩地に到着した。ハンスはロッテを休ませ、ダリオとリタは野営の準備を始めた。


 リシェもできることを探して手伝った。軽い薪を運び、食器を並べる。フィエルのために毛布を敷く。それからハンスが取り出した乾燥豆を器へ移した。


 夕食の準備が進むにつれて、辺りには温かな匂いが広がっていった。


 火のそばに座り、図鑑を開いた。今日見た灰色の魔獣を探していた。


「あった」


 灰牙鼠。


 図鑑には、灰色の牙を持つ小型魔獣と書かれていた。食料を狙って人の荷車へ近づくことがあり、群れで行動する。


 絵をじっと見つめた。


「本当だ。荷車を狙うんだ」


 するとリタが隣へ座った。


「何を読んでるの?」

「今日の魔獣です」


 図鑑を見せると、リタは絵を覗き込んだ。


「ああ、それね。よく載ってるわ」

「でも、今日は来ませんでしたね」


 リタは少し笑った。


「そうね」

「運がよかったんでしょうか」


 真面目に言うリシェの顔を、リタは見つめた。


 灰青色の瞳。小さな身体。長い亜麻色の髪。どこにでもいそうな、少し痩せた女の子。


 だが何かが違う。


 リタはそんな気がしていた。


「そうかもしれないわね」


 そう答えると、リシェは安心したように微笑んだ。


     *


 夜が更ける頃。


 荷車の中で、フィエルと一緒に横になっていた。外ではダリオとリタが交代で見張りをしている。焚き火の音が、時々聞こえた。


 フィエルの頭を撫でた。


「今日もいろいろ見たね」


 フィエルは目を細めた。


「魔獣って、たくさんいるんだね」


 小さな尻尾が揺れた。微笑んで続けた。


「いつか、もっといろんな魔獣を見てみたいな」


 フィエルは静かに目を閉じた。リシェも毛布を引き寄せた。


 街道の夜は、森の中より静かだった。


 その静けさが少し不思議なものであることを、リシェはまだ知らなかった。


     *


 焚き火のそばで、リタはダリオに声をかけた。


「ねえ」

「何だ」

「もし、あの子に何か特別な力があるとしたら……」


 ダリオは火を見つめたまま答えた。


「決めつけるな」


 リタは口を閉じた。ダリオは続けた。


「魔獣が寄ってこない理由は、まだわからん。あの小さな魔獣のせいかもしれないし、偶然かもしれない」

「……そうね」


「それに、本人が何も知らないなら、今は騒ぐ必要もない」


 リタは荷車へ視線を向けた。幌の向こうでは小さな旅人が眠っている。


 森を一人で抜け、傷ついた魔獣を助けた女の子。


 小さく息を吐いた。


「不思議な子ね」


 ダリオは答えず、ただ街道の向こうへ視線を向けた。


 夜の草原は静かだった。いつもなら聞こえるはずの、小型魔獣の鳴き声さえも。


 その夜、荷車へ近づくものは、一匹もいなかった。

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