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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第二十四話 丘の向こうに待つ町

 

 朝露に濡れた草が、柔らかな光を受けて輝いていた。


 リシェは荷車の縁に腰を下ろし、靴紐を結び直していた。足の痛みはずいぶんましになっている。まだ長く歩くのは難しそうだけれど、少しずつ身体が軽くなってきた気がした。


 隣ではフィエルが毛布の上で丸くなっている。銀白色の毛は朝日を受け、淡く光っていた。


「おはよう」


 声をかけると、フィエルは片方の耳を動かした。その仕草が可愛らしくて、小さく笑った。


「今日はどこまで行くのかな」


 すると、荷車の前からハンスの声が聞こえた。


「うまくいけば、今日の夕方にはオルテンが見えるよ」


 顔を上げた。


「本当ですか?」

「ああ。最後の大きな丘を越えれば、街はすぐそこだ」


 胸が高鳴った。


 オルテン。孤児院を出た日から、ずっと目指してきた場所。


 ようやく、そこへたどり着ける。


 でも嬉しさと一緒に、胸の奥が少しだけきゅっとなった。オルテンに着いたら、ハンスたちとはお別れなのだ。


     *


 朝食を終え、荷車はゆっくりと街道を進み始めた。ロッテの蹄が規則正しく地面を踏む。


 ごとん、ごとん。


 車輪の音が穏やかな朝の空気に響いた。


 荷台から周囲を眺めていた。丘陵地には、黄色い小さな花が点々と咲いている。遠くには羊の群れが見えた。羊飼いらしい少年が、長い杖を持って歩いている。


 その姿をじっと見つめた。自分と同じくらいの年齢だろうか。あの少年にも毎日の仕事があるのだろう。


 ふと、村でハンスの手伝いをした日のことを思い出した。


 品物を数えたこと。お客さんに声をかけたこと。そして、初めて自分で稼いだ銅貨。


 布袋の中には、今も五枚の銅貨が入っている。そっと袋に触れた。


 オルテンに着いたらまず何をしよう。


 フィエルを診てもらう。それから泊まる場所を探す。できれば仕事も見つけたい。


 考えることはたくさんあった。


     *


 昼前、ハンスが荷車を止めた。


「ここで少し休もうか」


 街道の脇には、小さな泉があった。澄んだ水が岩の間から湧き出し、細い流れとなって草地へ続いている。


「きれい」


 目を輝かせると、リタが笑った。


「この辺りの旅人は、よくここで休むのよ」


 泉へ近づいた。水面には青い空が映っている。小さな魚が岩陰を泳いでいた。


「お魚」


 思わず呟く。フィエルも興味を示したのか、腕の中から顔を出した。琥珀色の瞳が水面をじっと見つめている。


「フィエルも見たい?」


 そっとしゃがみ込むと、フィエルは鼻先を動かした。その瞬間、小さな魚がぴゅっと岩陰へ隠れた。


「びっくりしちゃったね」


 くすりと笑った。


     *


 休憩の間、泉の周りに生えている植物を観察していた。細い葉を持つ草。小さな紫色の花。岩の隙間に広がる苔。図鑑に載っているものもあれば、名前のわからないものもある。


 覚え書きを取り出し、簡単な絵を描いた。すると背後から声がした。


「また勉強しているのか」


 ダリオだった。顔を上げた。


「はい」

「そんなに植物が好きか」

「好きです」


 それから付け加えた。


「知らないことが、わかるようになるのが好きなんです」


 ダリオは少しだけ目を細めた。


「そうか」


 覚え書きを見下ろした。


「でも、まだ知らないことばかりです」

「当たり前だ」


 ダリオが短く言ったので、少し驚いて顔を上げた。


「十年生きただけで、何もかも知っているほうがおかしい」


 目を瞬かせるリシェに、ダリオは続けた。


「俺だって知らないことはいくらでもある」

「ダリオさんでも?」

「ああ」


 驚いた。ダリオは強くて、旅のこともよく知っている。そんな人でも知らないことがあるのだ。


 ダリオはリシェの覚え書きへ視線を落とした。


「だから、これから覚えればいい」


 しばらく黙っていた。それから小さく微笑んで答えた。


「はい」


     *


 午後になると、道は少しずつ上り坂になった。ロッテの歩みもゆっくりになる。ハンスは御者台から降り、手綱を引きながら歩いた。


 荷台から顔を出した。


「ロッテ、大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫」


 ハンスは笑った。


「この子は坂道にも慣れているからね。ただ、急がせないことが大事なんだ」


 頷いた。ロッテの耳が、ゆっくり動いている。


 荷台の中を見回した。重い荷物がいくつも積まれている。自分とフィエルも乗っている。ロッテは、こんなにたくさんのものを運んでいるのだ。


「私、歩きます」


 そう言うと、ハンスが振り返った。


「おや、どうしたんだい?」

「ロッテが大変そうなので」


 ハンスは少し驚いた顔をした。それから優しく笑った。


「気持ちは嬉しいよ。でも、リシェちゃんの足もまだ治りきっていないだろう?」

「少しなら歩けます」


 真剣に言うと、ダリオが口を開いた。


「無理をするな」


 肩をすくめた。ダリオは続けた。


「ロッテの負担を減らしたいなら、別の方法がある」

「別の方法?」

「荷物が揺れないように、紐を確かめてくれ。坂道では、荷がずれることがある」

「はい!」


 目を輝かせ、すぐに荷台の中を見回した。紐が緩んでいないか。木箱が傾いていないか。一つずつ確かめる。


 自分にできることがある。それが嬉しかった。


     *


 坂道を登りきった頃、風が変わった。草原を吹き抜ける風に、少しだけ違う匂いが混じっている。


 煙。焼いたパン。人の暮らしの匂い。


 顔を上げると、ハンスが笑った。


「さあ、リシェちゃん」


 御者台の方を見た。


「見えてきたよ」


 荷台の縁へ近づいた。


 丘の向こう。


 遠くの平地に、たくさんの建物が並んでいた。赤茶色の屋根。白い壁。細い煙突。その周囲には石造りの低い外壁が続いている。


 街の中心にはひときわ高い塔が見えた。夕方の光を受け、その先端が淡く輝いている。


「あれが」


 息を呑んだ。


「オルテン?」

「ああ」


 ハンスが頷いた。


「ヴァレンティア王国の西部にある交易都市、オルテンだ」


 しばらく言葉を失った。


 図鑑の地図で見た名前。ガルドから教えてもらった街。ハンスたちが話してくれた市場や店。


 それらが今、目の前にある。


 胸の奥がいっぱいになるのを感じた。


「本当に着いたんだ」


 小さく呟いた。


     *


 荷車は丘の上で、しばらく休憩することになった。フィエルを抱き、街を見下ろしていた。


 遠くから、かすかに鐘の音が聞こえてくる。風に乗って何度も響いた。フィエルは腕の中で耳を動かした。


「フィエル」


 小さく微笑んで言った。


「あそこに行くんだよ」


 フィエルは街を見つめた。琥珀色の瞳に、夕焼けの光が映っている。


 そっと頭を撫でた。


「治療師さんもいるんだって」


 フィエルは鼻を鳴らした。


「ちゃんと診てもらおうね」


 街を見つめた。


 期待と不安。その両方が胸の中にあった。でも、もう森へ戻りたいとは思わなかった。


     *


 その夜は丘の麓の休憩地で野営することになった。街の門は日が沈むと閉じられる。今から向かっても間に合わないらしい。


 ハンスは焚き火のそばで、明日の予定を話してくれた。


「朝早く出れば、昼前には門を通れるだろう」

「はい」


 頷いた。


「街に入ったら、まず荷物を商館へ運ぶ。それから宿を探そうか」


 少し迷ってから尋ねた。


「私も一緒に行っていいんですか?」

「もちろん」


 ハンスは笑った。


「オルテンに着いたからって、すぐに放り出すわけにはいかないからね」


 胸が温かくなった。


「ありがとうございます」


 けれど、同時に少し寂しくなった。明日になればこの旅は終わる。ハンスたちはまた別の場所へ向かうのだろう。


 焚き火を見つめた。ぱちり、と薪がはぜる。その音を聞きながら、小さく呟いた。


「……あの」


 ハンスが顔を上げた。


「何だい?」

「皆さんはオルテンにどのくらいいるんですか?」


 ハンスは少し考えた。


「そうだねえ。荷物を売って、次の仕入れをして……三日か四日くらいかな」

「……そうですか」


 小さく頷いた。


 たった三日か四日。それが思っていたより短く感じられた。


 ハンスはそんなリシェを見て、少しだけ目を細めた。


「寂しいかい?」


 驚いて顔を上げた。それから少し俯いた。


「……はい」


 小さな声だった。だが嘘ではなかった。


 ハンスは優しく笑った。


「それは嬉しいな」


 目を瞬かせた。


「旅の途中で出会った人に、また会いたいと思ってもらえるのは、商人にとっても嬉しいことだからね」


 しばらく黙っていた。それから小さく微笑んで答えた。


「私もまた会いたいです」


 ハンスは大きく頷いた。


「もちろん。またオルテンへ来ることもあるだろうし、そのときは顔を見せるよ」


     *


 夜が更けると、荷車の中へ戻った。フィエルを隣に寝かせ、毛布を引き寄せる。外ではダリオとリタが交代で見張りをしている。


 天井の幌を見つめた。


 明日オルテンへ入る。そこには知らない人がたくさんいる。知らない店も、知らない道もある。仕事を探して、フィエルを診てもらって、泊まる場所を決めなければならない。


 考えることはたくさんあった。でも今は少しだけ楽しみだった。


「フィエル」


 小さく声をかけると、フィエルが顔を上げた。


「私たち、ここまで来たね」


 琥珀色の瞳が、リシェを見つめた。微笑んで続けた。


「明日から、また新しい場所だよ」


 フィエルは小さく鼻を鳴らした。その頭を撫で、そっと目を閉じた。


 丘の向こうには、オルテンの街がある。


 まだ見ぬ本屋。まだ知らない人々。そして、これから始まる新しい暮らし。


 胸の奥に小さな期待を抱きながら、静かな眠りへ落ちていった。

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