第二十五話 はじめての街、オルテン
朝の街道には、いつもより多くの人がいた。
荷車を引く商人。籠いっぱいの野菜を運ぶ農夫。背中に大きな荷物を背負った旅人。みんな同じ方向へ進んでいる。
リシェは荷台の縁に座り、行き交う人々を目で追っていた。
「こんなにたくさん」
思わず呟くと、御者台のハンスが笑った。
「オルテンは西部の交易都市だからね。朝は特に混むんだよ」
目を丸くして尋ねた。
「みんな街に行くんですか?」
「そうさ。物を売る人もいれば買う人もいる。仕事を探す人もいるし、旅の途中で立ち寄る人もいる」
胸元の布袋を見下ろした。
自分もその一人だ。仕事を探し、泊まる場所を見つけ、フィエルを診てもらう。
ここからは誰かに連れていってもらうだけではいけない。自分で暮らしていくのだ。
*
街が近づくにつれて、道は広くなっていった。土の街道はやがて石畳へ変わり、荷車の車輪が、かたん、かたんと音を立てる。
驚いて足元を見た。
「石の道」
「珍しいかい?」
ハンスが尋ねる。
「はい。こんなにきれいに並んでいるの、初めてです」
石は大きさが揃えられ、隙間なく敷き詰められていた。ところどころに溝があり、雨水が流れるようになっている。その仕組みを不思議そうに眺めた。
誰がこんなにたくさんの石を並べたのだろう。どれくらい時間がかかったのだろう。
考えているうちに、荷車は大きな門の前へ到着した。
*
オルテンの門は、リシェが想像していたよりずっと大きかった。
灰色の石を積み上げた城壁。その中央には、分厚い木製の扉が開かれている。門の上には青い旗が風にはためいていた。
思わず息を呑んだ。
「大きい」
ダリオが荷車の横から声をかけた。
「門の前ではあまり身を乗り出すなよ」
「はい」
慌てて座り直した。
門の前には、何台もの荷車が並んでいた。兵士たちが荷物を確かめ、通行人に声をかけている。
少し緊張した。兵士。身元の確認。そんな言葉が頭をよぎる。
もしカルンから連絡が来ていたら。もしヴァルツ商会の人が探していたら。
布袋を強く抱きしめると、フィエルが小さく顔を上げた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いた。
*
やがてハンスたちの順番が来た。
「おはようございます、ハンスさん」
門番の一人が声をかけた。ハンスは笑顔で手を上げた。
「おはよう。今日もよろしく頼むよ」
「いつもの荷物ですか?」
「ああ。布と日用品、それから少し香辛料をね」
門番は帳簿を確かめ、荷台を覗いた。その視線がリシェで止まった。
「おや?」
思わず背筋を伸ばした。
「今日は小さな同行者がいるんですね」
ハンスが頷いた。
「ああ。道中で出会った旅人だよ」
門番はリシェを見た。
「名前は?」
「リシェです」
小さく答えた。
「どこへ向かうんだい?」
「オルテンにしばらく滞在したいです」
門番は少し驚いたようだった。だがすぐに穏やかに頷いた。
「そうか。街では迷子にならないようにね」
「はい、ありがとうございます」
深く頭を下げた。門番は荷物をもう一度確かめ、通行を許可した。
ほっと息を吐いた。
*
門をくぐった瞬間、世界が変わった。
まず音が違った。人々の話し声。荷車の車輪。店先から聞こえる呼び込みの声。遠くで鳴る鐘。それらが一度に耳へ飛び込んできた。
目を見開いた。道の両側には石造りや木造りの建物が並んでいる。窓には色とりどりの布が飾られ、店先には商品が積まれていた。
焼きたてのパンの匂い。香辛料の刺激的な香り。花屋から漂う甘い香り。
何度も顔を動かした。
「すごい」
それしか言葉が出なかった。ハンスが笑った。
「ようこそ、オルテンへ」
胸の奥が熱くなるのを感じた。
ついにたどり着いた。
孤児院の小さな窓から、外の世界を眺めていた自分が。今こんなにも広い街の中にいる。
*
荷車は大通りを進んでいった。通り沿いの店を一つずつ眺めた。
パン屋。布屋。靴屋。鍛冶屋。薬草を並べた小さな露店。
そして、本屋。
「あ」
思わず声を上げた。古い木の看板に、本の絵が描かれている。窓の向こうには棚いっぱいの本が並んでいた。
「本屋さん」
目を輝かせると、ハンスが振り返った。
「おや、見つけたかい?」
「はい」
「オルテンには何軒か本屋があるんだよ」
「何軒も?」
驚いて聞き返した。
「ああ。学問の街ほどじゃないけどね」
窓の向こうを見つめた。
あんなにたくさんの本。どんなことが書かれているのだろう。どんな世界が、そこに広がっているのだろう。
しばらく、その店から目を離せなかった。
*
やがて荷車は商館のある通りへ入った。大きな倉庫が並び、荷物を運ぶ人々が忙しそうに行き交っている。
ハンスは一軒の商館の前でロッテを止めた。
「さて、まずは荷物を預けようか」
荷台から降りると、石畳の感触が靴の裏に伝わった。森の柔らかな土とは違う、硬い地面。少しだけ足を動かした。
「ここがオルテン」
小さく呟いた。
フィエルは布袋から顔を出し、周囲を見回していた。人の声。荷物の音。知らない匂い。少し落ち着かない様子だった。
そっと頭を撫でた。
「大丈夫だよ」
*
荷物を預け終えると、ハンスはリシェのところへ戻ってきた。
「さて、次はフィエルのことだね」
顔を上げて答えた。
「はい」
「リタ、心当たりはあるかい?」
リタは少し考えた。
「魔獣を診られる治療師なら、南通りの方にいたはずよ」
「南通り?」
「ええ。家畜の治療もしている人。前にロッテの蹄を診てもらったことがあるわ」
ハンスは頷いた。
「それなら、そこへ行ってみようか」
「いいんですか?」
目を輝かせて尋ねた。
「もちろん。ここまで一緒に来たんだから、最後まで付き合うよ」
胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
*
南通りは大通りより少し静かな場所だった。小さな店や工房が並び、道端には鉢植えの花が置かれている。
フィエルを抱えながら、リタの後ろを歩いていた。足はまだ少し痛む。だが街の景色が珍しくて、つい周囲を見てしまう。
「リシェ、足元も見てね」
リタが笑った。
「はい」
少し頬を赤くして答えた。
やがて、一軒の小さな建物の前でリタが足を止めた。木の看板には、動物の足跡と薬草の絵が描かれている。
「ここよ」
看板を見上げた。
「ここが」
「ええ。魔獣も診てくれる治療所」
胸元のフィエルを見下ろすと、琥珀色の瞳がこちらを見上げていた。
「フィエル」
小さく微笑んで言った。
「やっと着いたね」
フィエルは鼻を鳴らした。
*
リタが扉を叩いた。少しして、中から声がした。
「はい、どうぞ」
扉が開くと、薬草の匂いが漂ってきた。室内には棚いっぱいの瓶や布、道具が並んでいる。奥には小さな診察台があった。
そして白い前掛けをつけた女性が、こちらを振り返った。
「いらっしゃい。今日はどうしました?」
リタが一歩前へ出た。
「怪我をした魔獣を診てほしいんです」
女性の視線が、リシェへ向いた。それから、布袋から顔を出しているフィエルを見た。
「あら」
女性は少し驚いたように目を細めた。
「珍しい子ね」
緊張しながら、フィエルを抱き直した。
「森で罠にかかっていたんです」
女性はすぐに表情を引き締めた。
「そう。では傷を見せてもらえるかしら」
小さく頷き、フィエルの頭をそっと撫でた。
「大丈夫だよ」
そして診察台へ一歩近づいた。
オルテンでの最初の大切な用事が、始まろうとしていた。




