第二十六話 小さな命の治療費
治療所の中には、乾いた薬草の匂いが満ちていた。
壁際の棚には、大小さまざまな瓶が並んでいる。透明な液体の入ったもの、細かく砕かれた葉の入ったもの、名前の書かれた紙が貼られたもの。
思わず棚を見上げると、図鑑で見たことのある薬草の名前も、いくつか混じっていた。
「こちらへどうぞ」
白い前掛けをつけた女性が、部屋の奥にある診察台を示した。年齢は四十歳くらいだろうか。茶色い髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。
「私はエルダ。この治療所で動物や魔獣を診ているの」
「リシェです」
エルダは微笑み、リシェの腕の中のフィエルへ視線を向けた。
「この子が患者さんね」
「はい」
「まずはそこに寝かせてくれる?」
診察台へ近づき、フィエルを下ろそうとすると、小さな身体がぎゅっと腕にしがみついた。
「あら」
エルダが手を止める。フィエルは耳を伏せ、琥珀色の瞳で彼女を警戒していた。
「知らない場所が怖いのね」
「大丈夫だよ。脚を診てもらうだけだから」
リシェはそっと背中を撫でた。フィエルはしばらく動かなかったが、もう一度声をかけると、少しずつ力を緩めた。
「いい子」
毛布ごとフィエルを診察台へ移す。その様子を、エルダはじっと見ていた。
「ずいぶん懐いているのね」
「森で出会ったんです」
「野生の魔獣でしょう?」
「はい」
エルダは少し驚いたようだった。
「それでここまで連れてきたの?」
「罠にかかっていて、脚を怪我していたので」
エルダの表情が引き締まった。
「そう。では傷を見せてもらいましょう」
*
包帯をほどく間、フィエルは何度か身じろぎした。そのたびに、リシェが頭を撫でる。
「もう少しだよ」
エルダは慎重に布を外していった。銀白色の毛の下から、赤く傷ついた後ろ脚が現れる。罠の金具が食い込んでいた部分には、まだ深い傷が残っていた。周囲の腫れは以前より引いているものの、完全には治っていない。
エルダは傷を観察し、指先で周囲をそっと確かめた。フィエルが小さく鳴き、胸が痛んだ。
「フィエル、痛い?」
「少し我慢してね」
エルダはフィエルに声をかけ、それからリシェを見た。
「罠にかかっていたのは何日前?」
「えっと、森で見つけたのが……」
指を折り、旅の日々を思い返す。フィエルを助けた日。果物を見つけた日。ハンスたちに出会った日。村に泊まった日。
「一週間くらい前です」
「その間、ずっとあなたが手当てを?」
「最初は私がしました。でも途中からリタさんにも手伝ってもらって」
リタが頷いた。
「傷を洗って、包帯を替えていました。なるべく歩かせないようにもしています」
エルダは傷の周囲を確かめながら言った。
「なるほど。よくここまで悪化させずに済んだわね」
「大丈夫、なんですか?」
「傷は深いけれど、今のところひどい化膿は見られないわ。熱もそれほど高くない」
エルダは優しく続けた。
「ただし、まだ安心はできないわね。傷の奥に汚れが残っているかもしれないし、筋や骨に問題がないかも確かめたい」
ごくりと唾を飲み込んだ。
「治りますか?」
エルダはすぐには答えなかった。フィエルの脚を慎重に動かし、反応を確かめる。それからリシェの目を見た。
「きちんと治療を続ければ、また歩けるようになる可能性は十分あるわ」
肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかった」
「でもしばらくは無理をさせないこと。走るのはもちろん、長く歩かせるのも駄目よ」
「はい」
*
エルダは棚から小さな瓶を取り出した。それから清潔な布と細い器具を並べる。
「これから傷を洗い直すわ。少し痛むと思うけれど、そばにいてあげてね」
「はい」
診察台の横へ立つと、フィエルが不安そうにこちらを見ていた。
「ここにいるよ」
小さな頭に手を添えた。
エルダは傷を丁寧に洗い、奥に残っていた細かな汚れを取り除いた。フィエルが身体を震わせる。思わず手を強く握りしめた。
痛そうだった。代わってあげられるなら、代わってあげたい。でも今できるのは、そばにいることだけだった。
「もう少し、頑張って」
フィエルの琥珀色の瞳がリシェを見上げた。その小さな鼻先が指に触れ、そっと微笑んだ。
やがて処置が終わった。エルダは傷を保護する薬を塗り、新しい包帯を巻いた。
「はい。よく頑張ったわね」
フィエルは疲れたように息を吐いた。リシェはそっと抱き上げた。
「えらかったね」
フィエルはリシェの胸元へ顔を埋めた。
*
「それにしても」
エルダが手を拭きながら言った。
「この子、少し珍しいわね」
「珍しい?」
「ええ。銀白色の毛に、琥珀色の瞳。耳の形も、私が知っている狐型の魔獣とは少し違う」
エルダは棚から一冊の本を取り出した。厚い革表紙の本だった。ページをめくり、いくつかの絵を確かめる。
「銀尾狐に似ているけれど……尾の毛並みが違うわね」
本を覗き込むと、細長い耳と銀色の尾を持つ魔獣が描かれていた。確かにフィエルに似ている。でも顔つきが少し違った。
「この子じゃない気がします」
リシェが小さく言うと、エルダは頷いた。
「私もそう思うわ」
「じゃあ、何の魔獣なんでしょう」
「今はわからないわね。魔獣は地域によって姿が違うこともあるし、まだ記録されていない種類もいるの」
エルダは本を閉じた。
「大事なのは、この子が何という名前の魔獣かより、今の傷を治すことよ」
「はい」
フィエルは二人の会話を聞いているように、静かに耳を動かしていた。
*
エルダは机に向かい、紙へ何かを書き始めた。
薬の名前。包帯を替える日。次に診察を受ける日。手元に並ぶ文字には読み慣れたものもあったが、難しい薬の名前はよくわからなかった。
孤児院では、週に何度か読み書きを教わる時間があった。でも習ったのは簡単な文字や数字がほとんどだった。
図鑑を読めるようになったのは、古い本棚にあった本を、何度も何度も読み返していたからだ。知らない文字は、知っている言葉から意味を考えた。どうしてもわからないときは、大人に尋ねた。そうして少しずつ覚えてきた。
けれど目の前の紙には、まだ知らない言葉がたくさん並んでいる。
「あの、この薬の名前、何て読むんですか?」
小さく声をかけると、エルダは顔を上げた。
「ああ、これは消毒に使う薬よ。名前は少し難しいわね」
そう言って、ゆっくり読み方を教えてくれた。リシェは覚え書きを取り出し、慎重に書き留めた。文字は少し曲がってしまったけれど、読めなくなるほどではない。
エルダはその様子を見て微笑んだ。
「勉強熱心なのね」
少し恥ずかしくなった。
「忘れちゃうと困るので」
「それは大事なことよ」
エルダは頷いた。
「ただし、薬は勝手に増やしたり、違うものを使ったりしないこと。わからなければ必ず聞いてね」
「はい」
*
診察が終わると、エルダは小さな包みを差し出した。中には、傷を保護する薬と清潔な布が入っている。
「三日後にもう一度診せてちょうだい。それまでは、ここに書いたとおりに手当てをしてね」
包みを両手で受け取った。
「ありがとうございます」
そして、少し迷ってから尋ねた。
「あの、お金は」
エルダは机の上の紙を確かめた。
「今日の診察と処置、それから薬代を合わせて銅貨十二枚ね」
動きが止まった。
十二枚。
自分の布袋には、五枚しかない。胸元を押さえた。
「十二枚」
小さく繰り返す。
森を出てから、初めて自分で稼いだお金。大切に持っていた五枚の銅貨。
それでも足りない。
唇を噛んだ。フィエルの傷はきちんと治したい。でもお金がない。
どうしよう。
どうすればいいのだろう。
*
「私が払おう」
声を上げたのは、ハンスだった。
「……え?」
驚いて振り返ると、ハンスは続けた。
「今は治療が先だ。お金のことは後で考えればいい」
ハンスは財布を取り出した。リシェは慌てて首を振った。
「でも」
「遠慮しなくていいよ」
「だめです」
思ったより大きな声が出て、自分でも驚いた。ハンスも、少し目を丸くした。
「あの、ありがとうございます。でも……」
俯き、言葉を探す。
助けてもらってばかりだった。森ではガルドに。街道ではハンスたちに。食べ物も、水も、寝る場所も。たくさんのものをもらった。
それが嬉しかった。だがいつまでも、もらってばかりではいけない気がした。
「私、自分で払えるようになりたいです」
小さな声で言うと、ハンスはしばらく黙っていた。それから、ゆっくり頷いた。
「そうか」
「でも、今は足りなくて」
「それなら貸すことにしよう」
「貸す?」
「ああ。足りない分を私が立て替える。リシェちゃんは、仕事を見つけてから少しずつ返してくれればいい」
「いいんですか?」
「もちろん」
ハンスは笑った。
「商人は、お金の貸し借りをきちんと記録するものだからね」
そう言って、帳面を取り出した。
「今リシェちゃんが持っているのは五枚だったね」
「はい」
「では七枚を貸そう。利息はなし。返すのは、生活に困らなくなってからでいい」
しばらく考えた。それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず返します」
ハンスは優しく頷いた。
「楽しみにしているよ」
*
治療所を出ると、昼の陽射しが石畳を明るく照らしていた。リシェはフィエルを抱き、ゆっくり歩いた。
胸元の布袋は空になっていた。五枚の銅貨はすべて治療費に使った。そしてハンスから七枚借りた。
そのことを、覚え書きの新しいページに記した。
『ハンスさんから、銅貨七枚を借りた』
文字は少し不揃いだった。何度も読み返して、間違いがないことを確かめた。その下にもう一行書く。
『仕事を見つけて、返す』
しばらく、その文字を見つめた。
「よし」
小さく呟き、覚え書きを閉じる。リタが隣から覗き込んだ。
「何を書いていたの?」
「忘れないように、です」
リタは微笑んだ。
「そう」
それ以上は尋ねなかった。
*
大通りへ戻る途中、一軒の店の前で足を止めた。店先には、籠いっぱいの薬草が並んでいた。乾燥させた葉。束ねられた茎。小さな花のついた枝。思わず見入った。
「あの薬草」
図鑑で見たことがある。森で探していたものと、よく似ている。でも少し違う。葉の形。茎の色。
目を凝らした。すると店の奥から女性が顔を出した。
「何か探しているの?」
「いえ、見ていただけです」
慌てて首を振ると、女性は笑った。
「薬草に興味があるの?」
「はい」
「それなら採集者組合へ行ってみるといいわ。薬草を買い取ってくれるし、初心者向けの仕事もあるから」
「仕事ですか?」
「ええ。採集の仕事よ」
胸が、少しだけ高鳴った。薬草。図鑑。森で覚えた植物の知識。
それが仕事になるかもしれない。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
*
店を離れてからも、その言葉を考えていた。
採集者組合。薬草を集めて、買い取ってもらう場所。
自分にもできるだろうか。
森で見つけた薬草。図鑑で覚えた名前。まだ知らないことも多い。
でも少しずつなら。
「ハンスさん」
勇気を出して声をかけた。
「何だい?」
「採集者組合って、どこにあるんですか?」
ハンスは振り返った。
「おや。興味があるのかい?」
「はい。私、仕事を探したいです」
ハンスは少し驚いたようだった。けれど、すぐに微笑んだ。
「そうか。それなら、ちょうどいい」
「え?」
「オルテンの採集者組合には、知り合いがいるんだ」
「本当ですか?」
「ああ。薬草の買い取りを担当している人でね。名前はクララというんだ」
ハンスは笑った。
「明日、一緒に訪ねてみようか」
胸の奥が温かくなるのを感じた。
「はい!」
少しだけ、大きな声が出た。
*
その日の夕方、リシェたちは宿屋へ向かった。大通りから一本入った場所にある、二階建ての小さな宿屋だった。
木の看板には、白い花と『ブラン』という文字が描かれている。窓辺には花鉢が並び、扉の隙間から温かな料理の匂いが漂っていた。
「ここはよく利用する宿なんだ」
ハンスが言った。
「主人も親切でね。リシェちゃんにも、きっと気に入ってもらえると思うよ」
看板を見上げた。ブラン。新しい街で初めて泊まる宿。
フィエルを抱き直した。扉の向こうから、食器の触れ合う音と、人々の笑い声が聞こえてくる。
ハンスが扉を開けた。
「さあ、入ろうか」
小さく息を吸った。そして一歩を踏み出した。
森の中では、明日の食べ物があるかどうかもわからなかった。けれど今は新しい目標がある。
フィエルの傷を治すこと。
仕事を見つけること。
借りたお金を返すこと。
そして、この街で自分の力で暮らしていくこと。
小さな一歩だった。
だがリシェにとっては、とても大きな一歩だった。




