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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第二十七話 白い花の宿屋


 宿屋の扉を開けると、焼きたてのパンと煮込み料理の匂いが流れてきた。リシェは思わず足を止めた。


 外の石畳はまだ明るかったけれど、宿の中には夕方の柔らかな空気が満ちている。磨かれた木の床。小さな丸い卓。壁に飾られた白い花の刺繍。奥の暖炉では火が燃え、鍋の蓋がことことと揺れていた。


「おや、ハンスさんじゃないか!」


 明るい声が響いた。厨房から出てきたのは、ふっくらとした体つきの女性だった。栗色の髪を後ろでまとめ、生成りの前掛けをつけている。頬はほんのり赤く、笑うと目尻に深い皺が寄った。


「久しぶりだねえ。今回は少し早かったんじゃないかい?」

「こんにちは、マルタさん。道が順調だったものでね」


「それは何よりだよ。ダリオさんもリタさんも元気そうで」

「おかげさまで」


 リタが手を振ると、マルタは嬉しそうに頷いた。それから、ハンスの後ろに隠れるように立っていたリシェに気づいた。


「あら?」


 びくりと肩が揺れた。


「今日は可愛らしいお客さんもいるんだね」


 腰をかがめ、リシェと目の高さを合わせる。


「こんにちは。私はマルタ。この宿の女将だよ」

「こんにちは。リシェです」

「リシェちゃんかい。いい名前だね」


 その笑顔は、厨房から漂う料理の匂いと同じくらい温かかった。


     *


「今日は四人かい?」


 マルタが宿帳を取り出した。


「そうだね。それからもう一匹いるんだ」

「一匹?」


 リシェはそっと布袋を開いた。銀白色の小さな顔が覗き、フィエルは琥珀色の瞳でマルタを見上げた。


「まあ! なんて綺麗な子なんだい」


 けれど、すぐに後ろ脚の包帯に気づいた。


「怪我をしているのかい?」

「はい。森で罠にかかっていて。今日、治療師さんに診てもらいました」

「そうかい。それは大変だったねえ」


 少し考えてから、マルタは続けた。


「うちは動物連れのお客さんも泊めているけど、魔獣となるとちょっと確認しないといけないね」


 胸がきゅっと縮んだ。


「……だめ、ですか?」

「まだ駄目とは言ってないよ。ただ、ほかのお客さんを怖がらせたり、部屋を荒らしたりしないか、確かめたいんだ」

「この子、いい子です。人を噛んだりしません」


 フィエルはちょうどそのとき、リシェの指に鼻先を押しつけた。それを見て、マルタの表情がふっと緩んだ。


「ずいぶん懐いているんだね」

「道中ずっと一緒でしたけど、暴れたり人に飛びかかったりすることはありませんでした。脚を怪我しているので、ほとんど歩けませんし」


 リタが横から言った。


「なるほどねえ」


 しばらく考え、それから頷く。


「じゃあ条件つきで、よしとしよう」

「本当ですか?」

「ああ。部屋の中では布を敷いて休ませること。廊下では必ず抱いていること。それから、何かあったらすぐに知らせること。守れるかい?」

「はい! ありがとうございます」


 リシェが頭を下げると、マルタは笑った。


「そんなに頭を下げなくてもいいよ」


     *


 宿帳に名前を書くことになった。マルタが羽根ペンを差し出す。


「名前は自分で書けるかい?」

「はい」


 ペンを受け取り、紙の上に慎重に文字を書く。


 リシェ。


 少し右に傾いた、不揃いな文字だった。けれど、一文字ずつ丁寧に書かれている。


「上手じゃないか」

「まだ、きれいには書けなくて」

「読めれば十分さ。練習すればもっと上手になるよ」


 孤児院では文字を書く練習の時間があった。だが紙もインクも貴重で、好きなだけ使えるわけではなかった。だから古い紙の余白や覚え書きに、少しずつ文字を書いてきた。


 今もまだ、まっすぐな文字を書くのは難しい。でも自分の名前だけは、何度も練習していた。


     *


「さて、お部屋だけど」


 マルタが宿帳を閉じた。


「ハンスさんたちは、いつもの二部屋でいいかい?」

「ああ、頼むよ」

「リシェちゃんはどうする?」


 少し迷った。部屋。宿泊代。その言葉を聞いて、胸元の布袋が空になっていることを思い出した。


 銅貨はフィエルの治療費ですべて使ってしまった。ハンスにはすでに七枚借りている。これ以上、迷惑をかけたくなかった。


「あの、私、お金がなくて」


 小さく声を出すと、マルタは少し驚いたように目を瞬かせた。


「でも働きます。掃除とか、お皿洗いとか、できます」


 声が少し震えた。


「だから、泊めてもらえませんか?」


 宿の中が少しだけ静かになった。マルタの視線が、小さな身体、少し大きすぎる服、使い古された靴、そして腕の中の怪我をした魔獣へと向けられる。


 ゆっくりと息を吐く音がした。


「なるほどねえ」


 やっぱり難しいだろうか。知らない子どもを、働かせて泊めるなんて。そんな都合のいい話はないのかもしれない。


     *


「リシェちゃん。うちは宿屋だからね。お客さんを泊めるには、どうしてもお金がかかるんだよ」

「はい」

「食べ物も、薪も、洗濯する水も、ただじゃないからね。でも働いてくれる人が必要なのも本当さ」


 リシェは真剣に耳を傾けた。


「朝の食器洗いや、部屋の掃除。忙しい日は、手が足りなくなることもあるんだ」


 少し考えてから、マルタは続けた。


「ただし、あんたはまだ小さい。重いものを運ばせたり、夜遅くまで働かせたりはできないよ」

「はい」

「それに、働いた分だけで宿代全部を払えるとは限らない。そこはきちんと決めないとね」


 そのとき、ハンスが口を開いた。


「マルタさん。最初の三泊分は、私が払おうと思うんだ」

「ハンスさん?」


 驚いて振り返ると、穏やかな笑顔が向けられた。


「リシェちゃんがこの街で暮らし始めるための、ささやかな贈り物だよ」

「でも、もう治療費も借りていて」

「あれは貸したお金。これは贈り物。別のものだよ。三日あれば、仕事を探したり、街のことを覚えたりできるだろう?」


 唇を噛んだ。嬉しかった。けれど、申し訳ない気持ちもあった。


「そんなにしてもらっていいんですか?」

「もちろん。旅の間、君には荷物の整理も手伝ってもらったしね。私としても、君が安心して新しい生活を始められる方が嬉しいんだ」


 しばらく黙っていた。それから、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 声が少し震えた。


「大切に使います」


 ハンスは優しく頷いた。


     *


「それなら話は早いね。最初の三泊は、食事つきでハンスさんにお願いしよう」

「はい」

「その間に、リシェちゃんがどんな仕事をできるか見てみようじゃないか。うちも手伝いが必要な日があるし、長く泊まるなら、少し安い部屋もあるからね」


「本当ですか?」

「ああ。ただし、仕事を覚えること。それから、無理をしないこと」

「はい!」


     *


 部屋へ案内されると、思わず立ち止まった。小さな窓。木の机。椅子が一脚。そして清潔な寝台。


 決して広い部屋ではなかった。窓辺には白い花が一輪飾られていた。


「きれい」

「庭で咲いた花だよ。うちの宿の名前にもなっているんだ」


 窓へ近づくと、外には小さな中庭が見えた。白い花がいくつも咲いている。風が吹くと、細い茎がゆっくり揺れた。


「ブランって、白い花の名前なんですか?」

「そうさ。昔、この辺りにたくさん咲いていた花でね」


 マルタは少し懐かしそうに微笑んだ。


「今は街が大きくなって、見かける場所も減ったけれど」


 知らない花だった。あとで図鑑に載っているか調べてみよう。そう思った。


     *


 マルタが部屋を出ると、リシェはフィエルを寝台のそばに敷いた毛布へ下ろした。フィエルは周囲を見回し、鼻を動かした。


「ここで少し休もうね」


 そっと頭を撫でると、フィエルは毛布の上で丸くなった。


 荷物をほどき、図鑑と覚え書きを机に置いた。それから布袋の中を確かめる。小さな木の器。水筒。ガルドにもらった布。


 そして五枚の銅貨が入っていた袋。今は空っぽだった。


 その袋を手のひらに乗せた。軽い。驚くほど、軽かった。


「お仕事、見つけなきゃ」


 小さく呟く。


 明日は採集者組合へ行く。薬草を集める仕事があるかもしれない。自分にできることが見つかるかもしれない。


 覚え書きを開くと、昼間に書いた文字が目に入った。


『ハンスさんから、銅貨七枚を借りた』


『仕事を見つけて返す』


 その下に、新しい一行を書いた。


『最初の三泊は、ハンスさんからの贈り物』


 そしてもう一行。


『明日採集者組合へ行く』


 少し曲がった文字だった。だが満足そうに頷いた。


     *


 夕食の時間になると、食堂には温かな料理が並んだ。野菜と肉の煮込み。焼きたてのパン。豆の入ったスープ。


「おいしそう」

「たくさん食べな。細いんだから」


 マルタの言葉に、少し恥ずかしくなった。


「いただきます」


 スープを一口飲む。温かい。野菜の甘みが、口いっぱいに広がった。思わず目を細めた。


 森で食べた木の実。ガルドにもらった豆のスープ。ハンスたちと囲んだ焚き火の食事。どれも大切な思い出だった。


 でもこうして屋根の下で温かな料理を食べられることが、今はとても嬉しかった。


     *


 食事のあと、ハンスがリシェに声をかけた。


「明日は朝食のあとで採集者組合へ行こう」

「はい」


「クララに会えば、いろいろ教えてくれるはずだよ」

「ありがとうございます」


「ただし、ひとつ覚えておいてほしいことがある」

「何ですか?」

「組合に登録するには、いくつか決まりがあるんだ。年齢によっては、保証人が必要になることもある」


「保証人?」

「ああ。何かあったときに、連絡を受けたり、本人のことを確かめたりする大人のことだよ」


 少し考えた。保証人。自分には、そんな人がいるだろうか。


 孤児院の人たちには頼めない。カルンへ戻ることもできない。


 俯くと、ハンスが穏やかに言った。


「まあ、詳しいことは明日聞いてみよう」

「はい」


     *


 夜、部屋へ戻ると、フィエルは毛布の上で眠っていた。そっと隣に座った。


 窓の外には街の灯りが見える。遠くから人々の話し声が聞こえていた。


 森の夜とはまるで違う。静かな風の音ではなく、誰かが暮らしている音。


 しばらく、その音に耳を澄ませた。そして、机の上の図鑑を開いた。


 ページの間には、何度も読んだ跡が残っている。古い紙の匂い。少し擦り切れた表紙。


 孤児院の小さな窓辺で、この本を読んでいた頃。外の世界がどんな場所なのか、想像することしかできなかった。


 けれど今は違う。


 森を歩いた。魔獣に出会った。フィエルを助けた。ハンスたちと旅をした。


 そして、オルテンへたどり着いた。


 そっとページを撫でた。


「もっと知りたいな」


 小さく呟くと、フィエルが眠そうに顔を上げた。


「明日も頑張ろうね」


 フィエルは小さく鼻を鳴らし、再び目を閉じた。


 リシェは図鑑を閉じ、寝台へ横になった。窓辺の白い花が、夜風に揺れている。その花の向こうには、まだ知らない街が広がっていた。


 明日は採集者組合へ。


 リシェの新しい暮らしは、少しずつ形になり始めていた。

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