第二十八話 はじめての身分証明書
翌朝、リシェはいつもより早く目を覚ました。窓の向こうから鳥の鳴き声が聞こえる。薄い朝日が部屋へ差し込み、机の上に置いた図鑑の表紙を照らしていた。
寝台の上で身体を起こした。
「今日は組合に行く日」
小さく呟く。寝台のそばでは、フィエルが毛布の上で丸くなっていた。銀白色の毛が、朝の光を受けて柔らかく輝いている。
「おはよう、フィエル」
頭を撫でると、フィエルは片方の耳を動かした。それからゆっくり目を開ける。
「今日はお留守番しててね」
フィエルの脚は、まだ治療の途中だ。昨日も治療師のエルダから、なるべく安静にするよう言われている。街を歩き回るよりは宿で休んでいた方がいいだろう。
だがフィエルは言葉を聞くと、むくりと顔を上げた。そして布袋の方へ鼻先を向けた。
「一緒に行きたいの?」
小さく鼻を鳴らした。
「でも脚が痛いでしょう?」
フィエルはじっとリシェを見つめた。その琥珀色の瞳に見つめられると、少し弱かった。
「じゃあ、ずっと抱っこしてるからね」
フィエルは満足したように目を細めた。
*
階下へ降りると、食堂にはすでに温かなパンの匂いが漂っていた。マルタが厨房から顔を出す。
「おはよう、リシェちゃん。よく眠れたかい?」
「はい。ありがとうございます」
「それはよかった。今日は組合へ行くんだろう?」
「はい」
「うまくいくといいね」
スープとパンを用意してくれた。
食堂ではハンスがすでに朝食を取っていた。ダリオとリタも一緒だ。
「おはよう、リシェちゃん」
「おはようございます」
椅子に座り、温かなスープを一口飲む。今日は少し緊張していた。
組合。登録。仕事。知らないことばかりだった。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
ハンスが穏やかに言った。
「今日はまず、話を聞きに行くつもりでいればいい」
「はい」
少しだけ肩の力が抜けた。
*
朝食を終えると、ハンスとリシェは宿を出た。リタも途中まで一緒に歩いてくれることになった。ダリオは商館で荷物の確認をするらしい。
オルテンの朝は、昨日とはまた違う賑わいを見せていた。店先に商品を並べる商人。水を運ぶ人。パンを抱えて走る子ども。
周囲を見回しながら歩くと、通りの角に果物を積んだ露店があった。赤い林檎。黄色い梨。小さな紫色の実。思わず足を緩めた。
「おいしそう」
「仕事が見つかったら、自分で買ってみるといい」
「はい」
自分で稼いだお金で、好きなものを買う。そんなことができる日が来るのだろうか。
少しだけ胸が弾んだ。
*
採集者組合は市場から少し離れた通りにあった。二階建ての石造りの建物で、入口には緑色の旗が掲げられている。看板には葉と小さな籠を組み合わせた紋章が描かれていた。
「ここだよ」
ハンスの言葉に、建物を見上げた。
「大きい」
「オルテン周辺は薬草や木材が豊富だからね。採集者組合も、それなりに賑わっているんだ」
扉の向こうから、人々の話し声が聞こえてくる。ハンスが扉を開けた。
「さあ行こうか」
フィエルを抱き直し、一歩を踏み出した。
*
建物の中には、独特の匂いが漂っていた。乾燥した薬草。土。木の皮。それから、少し甘い花の香り。
壁には大きな掲示板があり、紙が何枚も貼られている。奥には受付があり、数人の職員が忙しそうに働いていた。
掲示板を見上げた。
『薬草採集依頼』
『木の実の買い取り』
『初心者向け採集講習』
読める文字が並んでいる。
「いろんなお仕事があるんですね」
「ああ。採集者の仕事は、薬草だけじゃないからね」
もう一度掲示板を見た。知らない植物の名前もある。だが図鑑で見たことのある名前もあった。
胸の奥が少しだけ、温かくなった。
*
「……あら? ハンスさんじゃないですか」
受付の奥から、女性の声がした。振り返ると、濃い茶色の髪をひとつに束ねた女性が立っていた。年齢は二十代後半くらいだろうか。淡い緑色の上着を着て、胸元には組合の紋章がついている。
「こんにちは、クララさん。お久しぶりです」
「本当に。今回は何を持ってきたんですか?」
「今日は荷物ではなくてね。この子のことで、相談があるんだ」
ハンスがリシェへ視線を向けると、クララもこちらを見た。
「……あら」
「こんにちは。リシェです」
慌てて頭を下げた。
「こんにちは、リシェちゃん。私はクララ。ここで薬草の買い取りや登録を担当しているの」
「よろしくお願いします」
*
クララは受付の奥にある小さな机へ案内してくれた。
「それで、今日はどうしたの?」
「採集のお仕事をしてみたくて」
少し緊張しながら答えた。
「採集?」
「はい。薬草を集めたり、木の実を探したり……」
「植物のことは、知っているの?」
「少しだけです」
布袋から古い図鑑を取り出した。表紙には『大陸の植物と魔獣』と書かれている。
「まあ、ずいぶん立派な本ね」
「古い本ですけど、好きなんです」
クララは図鑑をそっと覗き込んだ。
「植物の名前も読めるの?」
「はい。でも難しい言葉はまだわからないことがあります」
「それなら登録試験を受けてみる?」
「試験?」
「ええ。採集者として登録するには、簡単な読み書きと計算、それから植物の識別ができるか確かめるの」
少し緊張した。けれど、すぐに頷いた。
「頑張ります」
*
クララは登録用の書類を取り出した。
「まず年齢を教えてくれる?」
「十歳です」
一瞬、驚いたように目を瞬かせた。
リシェは少し俯いた。小柄な身体のせいで、もっと幼く見られることが多かった。
「十歳なのね。それなら、登録できる年齢よ」
ほっとした。
「ただし、未成年者の場合は、成人の保証人が必要なの」
「……保証人」
昨日、ハンスが話していた言葉だった。何かあったときに、連絡を受けたり、本人のことを確かめたりする大人。
膝の上の手を握りしめた。孤児院の人には、頼めない。カルンへ戻ることもできない。
「……あの」
言葉が続かなかった。クララが心配そうに顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「私、頼める人が……」
俯いたまま答えた。そのときだった。
「それなら、私が引き受けましょう」
穏やかな声が響いた。驚いて顔を上げると、ハンスがいつものように笑っていた。
*
「ハンスさん?」
ハンスはクララへ向き直った。
「私が保証人になることはできますか?」
「もちろん、ハンスさんなら問題ありませんけれど……」
商業組合の登録証を取り出す。
「身元の確認も、これで足りますね?」
「ええ。長年のお取引もありますし、登録記録もありますから。保証人には、本人の身元を確かめていただき、問題があった際の連絡先になっていただきます。借金や損害を無制限に肩代わりするようなものではありませんが、それでもよろしいですか?」
「ええ、承知しています」
迷いのない答えだった。
二人の会話を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「でも」
小さく声を出すと、ハンスが振り返った。
「どうしたんだい?」
「私、ハンスさんに、もうたくさん助けてもらっていて」
言葉を探す。
「お金も借りているのに」
ハンスは静かに聞いていた。
「これ以上、迷惑をかけたくないです」
しばらく黙っていたハンスは、椅子に腰を下ろし、リシェと目の高さを合わせた。
「リシェちゃん」
「はい」
「保証人になるというのは、何もかも代わりにしてあげることじゃないんだ」
「違うんですか?」
「ああ。君が自分で働き、自分で暮らしていく。そのために、最初の一歩を少し手伝うだけだよ。旅の間、君がどんな子なのかは、十分見てきたからね」
リシェは目を瞬かせた。
「荷物を丁寧に扱ってくれた。数もきちんと確かめてくれた。わからないことは聞いて、間違えたら直そうとした」
胸の奥が温かくなるのを感じた。
「だから、私は君を信用している」
ハンスは優しく笑った。
「それでは保証人になる理由として足りないかな?」
しばらく何も言えなかった。それから、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ」
声が少し震えた。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
*
二人を見守っていたクララは、静かに書類を机へ置いた。
「では、保証人の件は問題ありませんね。最初に名前と年齢、それから今の滞在先を記入してもらうわ」
羽根ペンを受け取った。名前。年齢。滞在先。紙の上に慎重に文字を書いていく。
『リシェ』
『十歳』
『宿屋ブラン』
文字は少し不揃いだった。だがどれも読めるように丁寧に書いた。
クララは記入された書類を確かめた。
「ありがとう。出身地も教えてもらえる?」
指が止まった。
カルン。孤児院。その名前を口にしたら、何か聞かれるだろうか。
胸の奥が冷たくなった。クララは急かさずに待っている。
少し迷ってから答えた。
「……カルンです」
「カルンね。ここからは少し離れているわね」
それ以上、尋ねられることはなかった。
小さく息を吐いた。
「この組合では、保証人の確認と登録試験をもとに採集者の登録を行うの。今の滞在先が変わったら、あとで知らせてね」
書類をまとめながら、クララが言った。
「はい」
「それから、初回の登録費は無料よ。登録証をなくして再発行する場合は、手数料が必要になるから気をつけて」
「無料なんですか?」
「ええ。これから仕事を始める人が、登録費を払えなくて困らないようにね」
ほっとした。手持ちのお金がないことを、ずっと気にしていたのだ。
「ありがとうございます」
*
「それじゃあ、試験を始めましょう。まずは、ここに書かれている文章を読んでみて」
紙を受け取ると、短い文章が書かれていた。
『知らない植物は採集しない。危険な場所には立ち入らない。採集したものは種類ごとに分けて持ち帰ること。』
一文字ずつ目で追った。難しい言葉はなかった。ゆっくり声に出して読む。
「上手に読めたわね」
「ありがとうございます」
少し頬が赤くなった。
「じゃあ次はこの文章を写してみて」
『薬草は丁寧に扱う。』
羽根ペンを持ち直し、ゆっくり、慎重に文字を書く。少し曲がってしまったが、最後まで書き終えた。
クララは紙を確かめた。
「うん。大丈夫よ」
ほっとした。
*
「次は計算ね」
クララは小さな木札を並べた。
「薬草一束が銅貨二枚で売れるとするわ。三束売ったら、いくらになる?」
少し考えた。二枚。四枚。六枚。
「銅貨六枚です」
「正解。では銅貨十枚を持っていて、道具を買うのに四枚使ったら?」
「六枚残ります」
「それも正解よ」
少し嬉しくなった。数字を数えるのは、嫌いではなかった。孤児院でも簡単な計算を習ったし、ハンスの商売を手伝ったときにも、品物の数を確かめた。
「銅貨二枚の薬草を二束、銅貨三枚の木の実を一袋売ったら、全部でいくら?」
指を折って考えた。二枚が二束で四枚。そこに三枚を足す。
「七枚です」
「正解。計算も問題なさそうね」
クララは採点用の紙に印をつけた。
*
「では、最後は植物の識別よ」
クララは小さな木箱を取り出した。中には、乾燥させた葉や茎がいくつか入っている。
「ここによく似た植物が三種類あるわ」
箱を覗き込んだ。細長い葉。少し丸みのある葉。葉脈の形が違うもの。どれも似ている。
「この中から、食用にできるものを選んでみて」
図鑑で読んだことを思い出す。葉の形。葉脈。茎の色。そして似た植物を間違えないための注意点。
一つずつ、慎重に確かめた。やがて、小さな葉を指さした。
「これだと思います」
「どうしてそう思ったの?」
少し考えた。
「葉の裏に細い筋があって。あと、端の形が……」
言葉を探しながら説明する。クララは最後まで聞いていた。
「正解よ」
「本当ですか?」
「ええ。よく見ているわね」
嬉しくなった。
「では次はこちら」
*
植物の試験は、思っていたより難しかった。見たことのある植物もあれば、初めて見るものもあった。名前は知っていても、乾燥した状態では見分けにくいものもある。
何度も考え込んだ。そして、わからないものには、正直にそう答えた。
「これはわかりません」
「いい答えよ」
「え?」
「採集で一番危険なのは、わからないものを、わかったつもりで扱うことなの」
クララは葉を一枚取り上げた。
「これは薬草によく似た毒草よ。間違えて採集すると、大変なことになるわ」
息を呑んだ。
「そうなんですか」
「ええ。だから、知らないものは無理に採らない。これが一番大切なの」
「覚えておきます」
*
すべての試験が終わると、クララは採点用の紙を確かめた。
膝の上で手を握りしめた。心臓がどきどきしている。
できたものもあった。間違えたものもあった。知らないものも、いくつかあった。
合格できるだろうか。
「リシェちゃん」
「はい」
「合格よ」
「え?」
「初心者の採集者として、登録できるわ」
しばらく動けなかった。それから、ゆっくり笑顔になった。
「ありがとうございます!」
「ただし、最初は安全な区域での採集だけよ。危険な森や、魔獣の多い場所へは行かないこと」
「はい!」
「それから、知らない植物は採らないこと。依頼内容をよく確認すること」
「はい!」
*
クララは登録用の小さな魔導具を取り出した。手のひらほどの大きさの、薄い銀色の板だった。表面には、細かな模様が刻まれている。
「これは?」
「登録証を作るための魔導具よ。名前と年齢、それから本人を確認するための情報を記録するの。魔力がなくても使えるから、安心してね」
ほっとした。自分には、普通の魔法が使えない。そのせいで登録できなかったら、どうしようと思っていたのだ。
クララは魔導具の上に、小さな木製の札を置いた。それからリシェに手を差し出すよう促した。
「ここに指を置いてみて」
そっと指を置くと、銀色の板が淡く光った。温かいような、不思議な感触がした。
やがて光が消えた。クララが札を取り上げると、細かな文字と組合の紋章が刻まれていた。
「はい。これがあなたの登録証よ」
両手で受け取った。小さな木の札。そこには確かに、自分の名前が書かれていた。
『リシェ』
その文字をじっと見つめた。孤児院では、名前を呼ばれることはあっても、自分のものと呼べるものはほとんどなかった。
けれど今。
この札は自分のものだった。
そっと胸元へ抱きしめた。
「ありがとうございます」
小さな声だった。けれど、その言葉には、今までとは違う重みがあった。
*
「この登録証は、ほかの街の採集者組合でも使えるわ。宿に泊まるときや、仕事を引き受けるときにも、身元の確認に使えることが多いの。ただし、なくさないようにね」
「ほかの街でも?」
「ええ。将来、別の街へ行くことがあっても、採集者として登録し直す必要はないわ」
胸が少し高鳴った。オルテンの外。まだ知らない街。図鑑に載っている、遠くの土地。
いつか、そこへ行くこともできるのだろうか。
そっと登録証を握った。
「大切にします」
「それから、最初のうちは安全な採集依頼を選んでね。わからないことがあれば、いつでも聞きに来て」
「はい」
*
組合を出ると、外には明るい昼の光が広がっていた。リシェは何度も登録証を取り出しては、眺めた。
「気に入ったかい?」
「はい。私の名前が書いてあります」
「ああ。君のものだからね」
小さく微笑み、登録証を大切に布袋へしまった。
「これで少しずつ仕事を始められるね」
ハンスが穏やかに言った。
「はい。頑張ります」
「無理をしすぎないようにね」
「はい!」
街の向こうでは、鐘の音が響いていた。人々が行き交い、荷車が石畳を進んでいく。
その賑わいの中で、リシェは小さな一歩を踏み出した。
自分の名前が刻まれた、初めての身分証明書を胸に。
これから始まる、新しい暮らしへ向かって。




