第二十九話 はじめての採集依頼
採集者組合の扉を出てからも、リシェは何度も布袋の中を確かめていた。
指先に触れる、小さな木の札。角は滑らかに磨かれ、表面には組合の紋章と自分の名前が刻まれている。
そっと取り出した。
『リシェ』
何度見ても嬉しかった。
「そんなに眺めていたら、文字が擦り切れてしまうよ」
隣を歩くハンスが、冗談めかして言った。慌てて札を布袋へ戻す。
「ごめんなさい」
「ははは。謝ることじゃないさ。初めて自分の登録証を持ったんだ。嬉しいに決まっている」
「はい」
少し頬が赤くなった。
オルテンの通りには、昼の賑わいが広がっていた。荷車が石畳を通り、店先では商人たちが声を張り上げている。
焼きたてのパンの匂いが、風に乗って流れてきた。思わずお腹を押さえた。
「まずは昼食にしようか」
「でも、お仕事が」
「仕事をするにも、お腹が空いていては力が出ないよ」
少し考えた。確かにそのとおりだった。
「はい」
*
昼食を終えたあと、もう一度採集者組合を訪ねた。ハンスは商館で用事があるため、ここからは一人だ。
正確には、布袋の中にフィエルもいる。銀白色の小さな頭が袋の口から少しだけ覗いていた。
「ここで待っててね」
小さく声をかけると、フィエルは耳を動かした。
組合の中は午前中より少し落ち着いていた。受付の奥ではクララが書類を整理している。こちらに気づくと顔を上げた。
「あら、リシェちゃん。どうしたの?」
「あの」
布袋から登録証を取り出した。
「お仕事を探したくて」
「早速なのね」
「はい」
「じゃあ、初心者向けの依頼を見てみましょうか」
*
クララは掲示板の前へ案内してくれた。そこにはいくつもの紙が貼られている。
『乾燥薬草の納品』
『木の実の採集』
『染料植物の買い取り』
『薬用苔の採集』
一つずつ文字を追った。読めるものもあれば、知らない植物の名前もあった。
「たくさんありますね」
「ええ。でも、リシェちゃんが受けられる依頼はまだ限られているの」
クララが指さした掲示板の下の方には、小さな紙が数枚並んでいた。
「この印がついているものが、初心者向けよ」
紙の隅には、緑色の小さな葉の印が描かれている。
「これなら私もできますか?」
「ええ。ただし、街の外へ出る依頼は、まだおすすめしないわ」
「どうしてですか?」
「登録したばかりだからよ。道も知らないし、周辺の危険な場所もまだ覚えていないでしょう?」
確かにオルテンの街に来たばかりだ。どこに何があるのか、まだほとんど知らない。
「それに、あなたはまだ十歳。まずは安全な場所で、採集の基本を覚えた方がいいわ」
少し残念に思ったが、すぐに頷いた。
「わかりました」
*
クララが一枚の紙を取り外した。
「それなら、これなんてどうかしら」
紙を覗き込んだ。
『青葉草の採集』
青葉草。名前を知っていた。図鑑にも載っている、薬用の草だ。葉の縁が少し青みを帯び、乾燥させると独特の香りが出る。傷薬や湿布に使われることがある。
「青葉草」
小さく呟いた。
「知っている?」
「はい。図鑑で読みました」
「この草は、街の北側にある共同採集地でも育っているの。初心者が練習するには、ちょうどいい場所よ」
「街の中ですか?」
「城壁の内側にある管理された草地よ。昔は畑だった場所なの。組合の職員が定期的に見回っているから、危険な魔獣も入りにくいわ」
少し安心した。
「それなら、私にもできそうです」
「ええ。ただし採集する前に、現地の担当者へ登録証を見せてね」
「はい」
*
クララは小さな籠を貸してくれた。それから青葉草の見本を一束取り出した。
「まずはこれをよく見て」
真剣に覗き込んだ。細長い葉。青みを帯びた縁。茎には細かな産毛が生えている。
「図鑑の絵と、少し違います」
「そうね。植物は、育つ場所や季節によって姿が少し変わるの」
葉にそっと触れた。思っていたより、柔らかい。
「こんな感じなんですね」
「ええ。絵だけでは、手触りや匂いまではわからないでしょう?」
図鑑にはたくさんのことが書かれている。だが本の中だけではわからないこともある。そのことを、森でも何度か感じていた。
「青葉草に似た植物もあるから、必ず葉の裏と茎を確かめてね。少しでも迷ったら、採らずに担当者へ聞くこと」
「はい」
見本を何度も観察し、覚え書きに簡単な絵を描いた。
*
共同採集地は、組合から歩いて十五分ほどの場所にあった。街の北側、住宅の並ぶ通りを抜けた先に小さな草地が広がっている。木の柵で囲まれ、入口には組合の紋章が掲げられていた。
少し緊張しながら門へ近づいた。
「こんにちは」
門のそばにいた男性が顔を上げた。
「おや、見ない顔だね」
「今日、登録したばかりで」
登録証を差し出すと、男性はそれを確かめた。
「リシェちゃんか。私はここの管理をしているベルトだよ」
「よろしくお願いします」
「今日は何を採るんだい?」
「青葉草です」
「そうか。じゃあ、あの奥の区画だね」
ベルトは草地の一角を指さした。
「柵の向こうには行かないこと。それから採りすぎないこと。根は残して、葉と茎の上の方だけを切るんだよ」
「はい」
*
草地には、さまざまな植物が生えていた。低い草。小さな花。背の高い茎。
籠を持ち、ゆっくり歩いた。フィエルは布袋の中から顔を出し、周囲を見回している。
「ここなら、少し安心だね」
小さく呟くと、フィエルは鼻を鳴らした。
しばらく歩くと、青葉草らしい植物が見つかった。しゃがみ込む。
「これかな」
葉の縁は青みを帯びている。茎には細かな毛がある。だがクララに見せてもらったものより、葉が少し丸かった。
迷った。図鑑の絵とも少し違う。似た植物かもしれない。
しばらく考えた。それから手を引っ込めた。
「やめておこう」
わからないものは、無理に採らない。クララの言葉を思い出したのだ。
*
さらに奥へ進むと、今度は見本によく似た草が生えていた。葉を裏返し、茎を確かめる。
細かな毛。青みを帯びた葉の縁。そして独特の香り。
「これだ」
貸してもらった小さな鋏を取り出し、茎の上の方を切った。
根元は残す。次にまた育つように。
切り取った草を、籠へそっと入れる。一束。二束。三束。
夢中になって採集を続けた。だがしばらくすると、膝が痛くなってきた。腰も重い。森を歩いていた頃より体力は戻ってきたけれど、まだ長くしゃがみ続けるのは難しかった。
「ちょっと休もう」
草地の端にある木陰へ移動した。フィエルをそっと膝へ乗せ、水筒から水を飲む。深く息を吐くと、風が草の匂いを運んできた。
籠を見下ろした。まだ少ししか入っていない。
だが、自分で採った草だった。
小さく微笑んだ。
*
休憩を終え、もう少しだけ採集を続けた。やがて籠の底が見えなくなるくらいの青葉草が集まった。
「これくらいでいいかな」
帰り際、ベルトに籠を見せた。草を確かめて頷く。
「うん。ちゃんと青葉草を選んでいるね」
「よかった」
「ただし、これは少し葉が傷んでいるな」
取り出された一束は、葉の端が茶色く変色していた。
「あ」
「採るときに、少し強く握ったんだろう」
確かに、途中で籠が傾きそうになり、慌てて草を押さえた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい。次から気をつければいいんだ。薬草は採るだけじゃなく、運び方も大事だからね」
「覚えておきます」
*
組合へ戻る頃には、午後の陽射しが少し傾いていた。籠を両手で抱え、受付へ向かった。
「クララさん」
「あら、おかえりなさい」
「青葉草、採ってきました」
籠を差し出すと、クララは一束ずつ取り出し、葉の状態を見ていった。少し緊張した。
やがて頷く。
「うん。初めてにしてはよくできているわ」
「本当ですか?」
「ええ。ただ少し傷んだ葉が混じっているわね」
「はい。ベルトさんにも言われました」
「ちゃんと教わったのね」
「次は気をつけます」
*
クララは採集した青葉草を量りに乗せた。それから、帳簿へ数字を書き込む。
「今日の分は銅貨二枚ね」
「二枚」
「ええ。傷んだ分は買い取れないけれど、残りは十分使えるわ」
小さな銅貨が二枚、机の上へ置かれた。
しばらくその銅貨を見つめていた。ハンスの手伝いをしたときにも、お金をもらった。
けれど今日は違う。
自分で仕事を選び、自分で採集して、自分で組合へ持ってきた。その結果が目の前にある。
そっと銅貨を受け取った。
「ありがとうございます」
「よく頑張ったわね」
*
宿屋ブランへ戻ると、マルタが食堂の掃除をしていた。
「おかえり、リシェちゃん」
「ただいま戻りました」
「どうだった? 初めてのお仕事は」
「銅貨二枚もらえました」
「おや、それはよかったじゃないか!」
「でも、ちょっと失敗もしました」
「そうかい。じゃあ次はもっと上手にできるね」
「はい」
*
部屋へ戻ると、机の上に銅貨を二枚並べた。小さな丸い銅貨。窓から差し込む夕日を受けて鈍く光っている。
覚え書きを開いた。
『青葉草の採集』
『銅貨二枚』
それから少し考えて、もう一行書いた。
『葉を強く握らない』
満足そうに頷くと、フィエルが毛布の上から顔を上げた。
「見て、フィエル」
銅貨を一枚持ち上げた。
「今日、初めて採集のお仕事をしたんだよ」
フィエルは小さく鼻を鳴らした。
「まだ、ハンスさんに七枚返さなきゃいけないけど」
銅貨をそっと机へ戻す。
「少しずつ頑張ろうね」
フィエルが手に鼻先を寄せてきた。その頭を撫でた。
窓の外では、オルテンの街に夕暮れが訪れていた。市場の声が遠くなり、家々の窓に明かりが灯り始める。
机の上の銅貨をもう一度見つめた。
たった二枚。
だがその二枚は昨日までの自分にはなかったものだった。
明日はもう少し上手にできるだろうか。もう少したくさん採れるだろうか。
そんなことを考えながら、静かに微笑んだ。




