第三十話 白い花の宿で働く朝
翌朝、リシェは食堂から聞こえてくる物音で目を覚ました。食器が触れ合う音。床を歩く足音。それから誰かが笑う声。
窓の外はまだ、淡い朝の光に包まれていた。寝台の上で身体を起こす。
「朝だ」
隣の毛布では、フィエルが丸くなって眠っている。銀白色の毛が、朝日を受けて柔らかく光っていた。
そっと頭を撫でた。
「おはよう、フィエル」
フィエルは片方の耳を動かした。まだ眠いのか、目を開けようとはしない。
「今日は宿のお手伝いをするんだよ」
昨日、採集者組合で初めての仕事をした。青葉草を集めて銅貨二枚を受け取った。自分で働いて手に入れた、初めての採集の報酬。その二枚は布袋の中に大切にしまってある。
袋を確かめた。小さな硬貨が二枚。指先に触れる金属の冷たさが、少し嬉しかった。
「今日も頑張ろう」
そう呟いて、寝台を降りた。
*
食堂へ降りると、マルタが忙しそうに動き回っていた。大きな鍋から湯気が上がり、厨房には焼きたてのパンの匂いが満ちている。
「おはようございます」
「おや、リシェちゃん。早いねえ」
「今日、お手伝いをするって……」
「ああ、そうだったね。じゃあまずは朝ご飯を食べておいで。空腹じゃ仕事にならないからね」
「でも」
「でも、じゃないよ」
笑いながら、目の前にパンとスープを置いてくれた。
「ちゃんと食べるのも仕事のうちさ」
少し迷ってから頷いた。
「いただきます」
温かなスープを一口飲む。昨日より少し塩気が強く、細かく刻んだ野菜がたくさん入っていた。
「おいしい」
「それはよかった」
*
朝食を終えると、マルタは前掛けを渡してくれた。
「まずは食器を下げるところから始めようか」
「はいっ」
前掛けをつけた。少し大きかったので、紐を二重に結ぶ。
「うん、よく似合ってるよ」
「ありがとうございます」
最初の仕事は食堂の卓を片づけることだった。食べ終わった皿を集めて厨房へ運ぶ。
一度にたくさん持とうとして、危うく皿を落としかけた。
「あっ……!」
慌てて手を伸ばす。皿がかたんと音を立てた。
「こらこら、無理しなくていいんだよ」
すぐにマルタの声がした。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいさ。皿は一枚ずつでも運べるんだから」
「はい」
次からは少しずつ運ぶことにした。時間はかかった。でも落とすことはなかった。
*
次は食器洗いだった。厨房の隅には、大きな桶が二つ置かれていた。一つは洗うための桶。もう一つはすすぐための桶。
マルタが手本を見せてくれた。
「こうして汚れを落としてから、こっちですすぐんだよ」
「はい」
「油のついた皿は、特に丁寧にね」
一枚ずつ洗い始めた。最初は少しぎこちなかったが、何枚か洗ううちに、少しずつ手が慣れてきた。
水の中で皿を回す。布で汚れを落とす。すすいで、乾かす。
同じことを繰り返すうちに、洗い終えた皿が少しずつ増えていった。その様子を見て、嬉しくなった。
「できた」
小さく呟くと、マルタが覗き込んだ。
「おや、きれいに洗えてるじゃないか」
「本当ですか?」
「ああ。丁寧でいいよ」
*
食器洗いが終わると、今度は客室の掃除だった。マルタに連れられて二階へ上がる。
「今日は空いた部屋が二つあるんだ」
「はい」
「まずは窓を開けて、空気を入れ替える。それから寝具を整えて、床を掃くんだよ」
順番に説明してくれるのを、一つずつ覚えようとした。
窓を開ける。寝具を整える。床を掃く。机を拭く。
簡単そうに見えた。だが実際にやってみると、思っていたより難しかった。寝具の端が揃わない。箒を動かすと埃が舞い上がる。机を拭いたつもりでも、隅に汚れが残っている。
何度もやり直した。
「難しい」
思わず呟いた。
「最初から上手にできる人なんていないよ」
マルタが寝具の端を持ち上げた。
「ほら、ここを先に引っ張るときれいに整うんだ」
「なるほど」
もう一度やってみる。今度は少しだけきれいになった。嬉しくなった。
*
二つ目の部屋を掃除する頃には、少し慣れてきた。
窓を開ける。寝具を整える。床を掃く。机を拭く。
一つずつ順番に。
最後の机を拭き終えたとき、ふうっと息を吐いた。腕が少し重い。足も疲れていた。
「今日はここまでにしようか」
マルタが疲れに気づいて声をかけた。
「まだできます」
「そう言うと思ったよ。でも疲れたまま続けると、怪我をしたり、物を壊したりするからね」
「はい」
「仕事は長く続けられることが大事なんだよ」
その言葉に、ゆっくり頷いた。
「覚えておきます」
*
昼前になると、マルタに食堂の隅へ座るよう促された。卓の上には水の入った杯が置かれている。
「さて、今日の仕事はこれでおしまい」
「ありがとうございました」
「こちらこそ助かったよ。特に食器洗いは丁寧だったね」
「嬉しいです」
「それで、これからのことなんだけどね」
姿勢を正した。
「はい」
「ハンスさんが払ってくれたのは、最初の三泊分。今夜までは、食事も部屋代も心配しなくていいよ」
「はい」
「でも、明日からは自分で宿代を用意しないといけないね」
少し緊張した。
「うちの普通の部屋は、朝と夜の食事つきで一泊銅貨四枚なんだ」
「四枚」
「そう。だけどあんたには、もう少し安い屋根裏の部屋も用意できるよ。それに、今日みたいな仕事を手伝ってくれたら、その分はちゃんと報酬として計算する」
「報酬ですか?」
「ああ。今日の仕事なら、銅貨二枚分だね」
「二枚!」
「ただし、今は現金で渡すより、これからの宿代に充てる形にしておこうかと思うんだ」
少し考えた。
「宿代に?」
「そう。あんたが働いた分を帳面につけておいて、四泊目からの宿代に使えるようにするのさ」
マルタが帳面を取り出した。そこには、日付と金額を書く欄が並んでいた。
「もちろん、リシェちゃんが確認できるように、毎回ちゃんと見せるよ」
帳面を覗き込んだ。
『食堂・客室の手伝い 銅貨二枚』
その横には、自分の名前が書かれていた。しばらく、その文字を見つめた。
「私が働いた分」
「そうだよ。昨日の採集の報酬は、手元に残しておきな。何か必要なものができるかもしれないからね」
布袋に入れた二枚の銅貨を思い出した。
今、手元には銅貨二枚。そして宿の帳面には銅貨二枚分。合わせれば四枚分になる。
でも宿代以外にも必要なお金はある。フィエルの治療費。食べ物。服や靴。そしてハンスから借りた七枚。
小さく息を吸った。
「もっとお仕事をしないと」
「そうだね。でも、焦ることはないよ」
*
「それから、もう一つ。屋根裏の部屋は、普通の部屋より安くできるけど、狭いし、階段も急なんだ」
「はい」
「フィエルちゃんの脚が治るまでは、抱いて上り下りしないといけないね」
「大丈夫です」
「そうかい。じゃあ、明日までに部屋を見せてあげるよ」
「ありがとうございます!」
「気に入ったら、そこを使うといい」
*
午後、部屋へ戻った。フィエルは毛布の上で休んでいた。近づくと、ゆっくり顔を上げる。
「ただいま」
そっと頭を撫でると、小さく鼻を鳴らした。
「今日は、いっぱい働いたよ。お皿を洗って、お部屋を掃除して……」
フィエルはじっとリシェを見つめていた。
「銅貨二枚分、もらえたんだ。でもまだまだ足りないね」
ゆっくり動く尻尾を見て、小さく笑った。
*
夕方になると、机に向かった。図鑑の隣に覚え書きを広げ、昨日の記録の下に新しい文字を書いた。
『採集の報酬 銅貨二枚』
『宿のお手伝い 銅貨二枚分』
『宿代の積立 銅貨二枚分』
『ハンスさんに返すお金 銅貨七枚』
一文字ずつ確かめた。少し曲がった文字。不揃いな数字。そっと頁を撫でた。
孤児院にいた頃は、お金を自分で管理することなんてなかった。食事も服も、寝る場所もすべて決められていた。
今は違う。
何を買うか。どこに泊まるか。どんな仕事をするか。
少しずつ、自分で決めていかなければならない。それは少し怖いことだった。
でも、同時に。
胸の奥が、ほんの少し弾んでいた。
*
夕食のあと、リタが部屋を訪ねてきた。
「リシェ、少しいい?」
「はい」
扉を開けると、リタはフィエルの様子を見て、安心したように微笑んだ。
「今日はおとなしくしていたみたいね」
「はい。ずっと休んでいました」
「それならよかった」
包帯へ視線を向ける。
「明日は再診だったわね」
「はい」
エルダに診てもらってから、三日目になる。脚の腫れは、少し落ち着いてきたように見えたが、まだ包帯は必要だった。
「ちゃんと治るでしょうか」
小さく尋ねると、リタは少し考えた。
「傷は深かったから、時間はかかると思う。でも、今のところ悪くなっているようには見えないわ」
「よかった」
「明日は私も一緒に行くわ。ハンスたちの用事も、だいたい片づいたしね」
「本当ですか?」
「ええ。先生の話も一緒に聞いておきたいから」
「ありがとうございます」
「それから、ハンスさんたちは明後日の朝に出発する予定よ」
「明後日……」
「そう。次の街へ向かわないといけないからね」
わかっていたことだった。ハンスたちは商人で、旅を続ける人たちだ。いつまでもオルテンにいるわけではない。
いざ出発の日が近づくと、胸の奥が少し寂しくなった。
「そう、ですよね」
リタがそっと頭を撫でてくれた。
「明日はまだ一緒にいられるわ」
「……はい」
「だから今日はゆっくり休んでね」
*
夜。
寝台の上で、天井を見つめていた。窓の外からは、街の小さな物音が聞こえてくる。遠くで馬車が通る音。誰かが笑う声。そして風に揺れる木々の音。
そっと目を閉じた。
明日はフィエルの再診。その次の日には、ハンスたちが旅立つ。そして自分はこの街で暮らしていく。
まだわからないことばかりだった。それでも今日は自分で働いて、銅貨二枚分の報酬を得た。
それはとても小さな一歩かもしれない。
でもリシェにとっては、大きな一歩だった。
寝台のそばで、フィエルが小さく寝息を立てている。そっと手を伸ばし、柔らかな毛を撫でた。
「明日も頑張ろうね」
フィエルは眠ったまま、尻尾を小さく動かした。
白い花の宿屋で過ごす、三度目の夜。
その夜は、静かに更けていった。




