第三十一話 フィエルの再診
オルテンに来て、四日目の朝。
寝台のそばに膝をついたリシェは、フィエルの顔を覗き込んでいた。
「おはよう、フィエル」
毛布の上で丸くなっていた銀白色の小さな魔獣の耳が、ぴくりと動く。それから、ゆっくりと琥珀色の瞳が開いた。
「今日はエルダさんのところに行く日だよ」
小さく鼻を鳴らすフィエルの後ろ脚には、まだ包帯が巻かれている。最初に森で見つけたときより、腫れはずいぶん落ち着いたように見えた。ただ、傷が治ったわけではない。
包帯に触れないよう気をつけながら、リシェはその背中を撫でた。
「少しでもよくなってるといいね」
指に寄せられた鼻先の温かさに、自然と笑みがこぼれた。
*
朝食の席にはハンスとダリオ、リタが揃っていた。
「おはよう、リシェちゃん」
「おはようございます」
ハンスの挨拶に応じ、リシェは椅子に座って膝の上にフィエルの入った布袋を置いた。マルタが運んできてくれたのは、焼きたてのパンと野菜のスープだった。
「今日はフィエルちゃんの診察だったね」
「はい」
「よくなっているといいねえ」
マルタが袋の中を覗き込むと、フィエルの鼻が少しだけ動いた。
「おや、今日はご機嫌みたいだ」
「朝から元気なんです」
嬉しそうなリシェに、リタが声をかける。
「元気でも、まだ無理はさせちゃ駄目よ」
「はい」
真剣に頷くリシェを前に、ハンスがパンをちぎりながら言った。
「診察が終わったら、少し街を見て回る時間もあるだろうね」
「街を?」
「ああ。明日の朝には出発するから、その前に必要なものがないか確かめておきたいんだ」
明日。
その言葉に、リシェの胸が少しだけ沈んだ。ハンスたちが出発することは、昨日リタから聞いていた。それでも、こうして改めて言われると急に近いことのように感じられた。
「……そうですよね」
リシェの様子を見たハンスの顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「まずはフィエルの診察だね。リタが付き添ってくれるよ」
「はい。ありがとうございます」
*
朝食を終えると、リシェはフィエルを布袋に入れた。袋の底には、柔らかく畳んだ布を敷いてある。怪我をした脚に負担がかからないよう、身体をそっと支える。
「苦しくない?」
フィエルの小さな鼻の音を聞いてから、袋の口を少し広げ、顔を出せるようにした。
宿の入口ではリタが待っていた。
「準備できた?」
「はい!」
「じゃあ、行きましょうか」
二人は並んで歩き出した。
オルテンの朝の通りには、すでに多くの人が行き交っていた。荷車を押す商人。籠を抱えた女性。店先を掃く少年。人の流れを避けながら、リシェはリタの隣を歩いた。
南通りへ向かう途中、薬草を並べた露店が目に入り、思わず足を緩めた。
「あ」
「どうしたの?」
振り返ったリタに、露店を指さす。
「あそこの薬草、一昨日採ったものと似ています」
そこには、細長い青緑色の葉が束ねられていた。
「本当ね。でも、よく似た別の草かもしれないわよ」
「はい。クララさんにも、似ているだけで決めちゃ駄目って教わりました」
「いいことを教わったわね」
リタの微笑みを受け、リシェはもう一度薬草を眺めてから歩き出した。
一昨日までなら、ただの草に見えたかもしれない。今は葉の形や茎の色が気になる。街の中にも知らないことがたくさんあるのだ。
*
エルダの診療所は、前に来たときと変わらず静かだった。扉の上には小さな木の看板がかかっている。リタが扉を叩くと、奥から声がした。
「開いているよ」
中へ入ると、乾燥した薬草の匂いが漂ってきた。棚には瓶や包帯が並び、窓辺には小さな鉢植えが置かれている。
机に向かって何かを書きつけていたエルダが、顔を上げた。
「おや、来たね」
その視線が、リシェの布袋へ向く。
「銀色の子はどうだい?」
「前より元気になりました」
「そうかい。それはよかった」
立ち上がったエルダに、診察台を示された。
「じゃあ傷を見せてもらおうか」
*
診察台にそっと下ろされたフィエルは、周囲を見回したあと、少し警戒したように身体を固くした。
「大丈夫よ」
リタの優しい声がかかる。
エルダが包帯をほどき始めると、リシェは息を詰めて見守った。白い布が一枚ずつ外されていく。やがて傷が現れ、思わず身を乗り出した。
「あ……」
森で見つけたときは、傷の周りが赤く腫れて血が滲んでいた。今は赤みが少し薄くなっている。傷そのものはまだ残っていたが、前より落ち着いて見えた。
慎重に脚を支え、傷の周囲を確かめるエルダの口から、低い声が漏れた。
「ふむ……」
リシェの胸がどきりとした。
「どうですか?」
顔を上げたエルダの返事は、穏やかだった。
「悪くないよ」
「本当ですか?」
「ああ。腫れも引いてきているし、今のところ傷が膿んでいる様子もない」
ほっと息を吐くリシェに、エルダが続ける。
「よかった」
「ただし、まだ深いところまで治ったわけじゃない。無理に歩かせるのは駄目だよ」
「はい!」
リシェは何度も頷いた。
*
傷を洗い、新しい薬を塗る処置の途中で、フィエルが少し身じろぎした。慌てて顔を近づけたリシェは、小さな頭を撫でる前に声をかけた。
「フィエル、大丈夫だよ」
そっと頭を撫でる。
「もう少しだけ頑張ろうね」
リシェを見上げたフィエルの身体から、しばらくしてゆっくり力が抜けた。その様子に、エルダの声が感心したような響きを帯びる。
「本当に、あんたの言うことはよく聞くねえ」
「そうでしょうか」
少し恥ずかしそうに笑うリシェへ、エルダが言った。
「そうさ。魔獣は怪我をしているときほど、人を警戒するものだよ」
手際よく新しい包帯を巻く間も、話は続いた。
「まして傷に触られるのを嫌がる子は多い。それなのに、この子はあんたが声をかけると落ち着く」
フィエルを見つめ、リシェは答えた。
「フィエルは優しい子なんです」
「そうかもしれないね」
エルダの口元に小さな笑みが浮かんだ。ただ、その目は少し考え込むようだった。
*
処置を終えたエルダが、手を拭きながら説明を始めた。
「このまま傷が閉じていけば、少しずつ歩けるようになるだろう。ただ罠で強く締めつけられていたからね。しばらくは慎重に様子を見る必要がある」
リシェは真剣に耳を傾けた。
「どれくらいかかりますか?」
「そうだねえ。順調なら、あと十日ほどで傷の表面はかなり落ち着くだろう。でも、元どおり走れるようになるまでには、もう少し時間が必要かもしれない」
「わかりました」
「包帯は汚れたら取り替えること。傷が熱を持ったり、急に腫れたりしたら、すぐに連れておいで」
「はい」
「次は五日ほどしたら、もう一度見せておくれ」
覚え書きを取り出し、小さな文字で教わったことを書いていく。
『無理に歩かせない』
『包帯を清潔にする』
『腫れや熱に注意』
『五日後に再診』
その様子を見ていたエルダの目が、細くなった。
「ずいぶん熱心だね」
リシェは顔を上げて答えた。
「忘れたら困るので」
「それはいいことだよ」
*
説明が終わると、リシェはそっと布袋に手を入れた。中には、一昨日の採集で得た銅貨が二枚入っている。それを取り出し、両手で握った。
「あの」
振り返ったエルダに、治療費を尋ねる。
「なんだい?」
「今日の治療費はいくらですか?」
「今日は傷の確認と洗浄、薬、それから包帯の交換だからね。銅貨二枚でいいよ」
机の上の道具を片づけながらの返事に、リシェは目を丸くした。
「二枚」
「ああ」
開いた手のひらには、二枚の銅貨があった。
一昨日、自分で集めた青葉草。傷つけないように選び、束ね、組合へ持ち込んだ薬草。
その報酬。
リシェはしばらく硬貨を見つめ、それからエルダへ差し出した。
「お願いします」
「確かに」
銅貨を受け取ってもらうと、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。よく世話をしているね」
エルダの顔には、微笑みが浮かんでいた。
*
診療所を出て、リシェは大きく息を吐いた。空はよく晴れ、石畳の上に明るい日差しが落ちている。
「よかったわね、リシェ」
隣で微笑むリタに返事をして、布袋の中を見下ろした。
「はい」
新しい包帯を巻いた脚をかばいながら、フィエルが静かに顔を上げている。
「少しずつよくなってるって」
リシェの顔に嬉しそうな笑みが浮かぶ。
「それに今日は自分で治療費を払えたわね」
「はい」
一昨日、初めて採集の仕事をした。たった二枚の銅貨だった。それでも、その二枚でフィエルの治療を受けることができた。
胸の奥が温かくなる。
「お仕事してよかったです」
「そうね」
リタの微笑みは優しかった。そして、付け加える。
「全部のお金を治療費に使ったから、また手持ちはなくなっちゃったわね」
「はい」
少しだけ困ったような笑みを浮かべ、リシェは言った。
「また頑張らないと」
リタの手が、頭を軽く撫でた。
「焦らず、一つずつね」
*
宿へ戻る途中、二人は小さな広場を通った。中央には噴水があり、周囲には木の長椅子が並んでいる。
足を止めたリタに、休憩を勧められた。
「少し休んでいきましょうか」
「はい」
二人で長椅子に腰を下ろし、リシェはフィエルを膝の上に抱いた。
噴水の水音が静かに響いている。近くで追いかけっこをする子どもたちを、ぼんやり眺めた。
同じくらいの年頃の子どもたち。きれいな服。楽しそうな笑い声。
少し前まで、自分は孤児院の中にいた。決められた時間に起き、決められた仕事をして、決められた場所で眠っていた。
今は知らない街にいる。自分で仕事を探し、自分でお金を使っている。
膝の上のフィエルを撫でながら、リシェは小さく呟いた。
「ねえ、フィエル」
「……私、ちゃんとできてるかな」
顔を上げたフィエルの琥珀色の瞳に見つめられ、少し笑った。
「まだわからないことばっかりだけど」
手に鼻先を押しつけられると、表情が緩んだ。
「ありがとう」
少し離れたところから二人を見守っていたリタが、やがて静かに口を開いた。
「リシェ」
「はい?」
「ちゃんとできてるわよ」
驚いて顔を上げたリシェに、微笑みが向けられる。
「少なくとも、フィエルのことはね」
少し頬を赤くして、リシェは尋ねた。
「そうでしょうか」
「ええ。自分のことだけでも大変なのに、あの子のことも考えてるんだから」
見下ろした先には、小さな身体と柔らかな銀白色の毛。そして、まだ治りきっていない脚がある。
森の中でこの子を見つけたとき、助けられるかどうかなんて、わからなかった。それでも放っておくことはできなかった。
「フィエルが元気になってくれたら嬉しいです」
「きっと、そうなるわ」
*
宿屋ブランへ戻ると、マルタが食堂の卓を拭いていた。
「おかえり。どうだった?」
「よくなってるって言われました!」
「それはよかった!」
マルタの顔に嬉しそうな笑みが広がる。
「じゃあ、今日はゆっくり休ませてあげないとね」
「はい」
少し迷ってから、リシェは口を開いた。
「あの、マルタさん」
「なんだい?」
「今日の治療費、一昨日のお仕事のお金で払えました」
マルタの目が一瞬丸くなり、それからゆっくりと微笑みに変わった。
「そうかい」
「はい!」
「自分で稼いだお金が、ちゃんと役に立ったんだね」
その言葉に、リシェの胸の奥が温かくなった。
「でも、今度はあんた自身の暮らしのことも考えないとね」
「明日からも採集のお仕事をしたいです」
「そうだねえ。ただ、今日はもう十分頑張ったんじゃないかい?」
マルタの視線がフィエルへ向く。
「その子も疲れているだろうし、午後は少し休んだらどうだい?」
リシェは少し考えた。仕事をしなければ、お金は増えない。でもフィエルの脚も心配だった。
「そうします」
その返事に、マルタが満足そうに頷いた。
*
部屋へ戻り、リシェはフィエルを毛布の上に下ろした。小さく身体を伸ばしてから、ゆっくり丸くなる姿を見守る。
「お疲れさま」
そっと頭を撫で、それから机に向かった。覚え書きを開き、今日のことを書き込んでいく。
『フィエルの傷は、少しずつよくなっている』
『今日の治療費 銅貨二枚』
『手持ちのお金 銅貨零枚』
『宿代の積立 銅貨二枚分』
『ハンスさんに返すお金 銅貨七枚』
数字を確かめると、手持ちのお金はまたなくなってしまっていた。それでも不思議と一昨日ほど不安ではなかった。
働けばお金を得られる。そのお金で、大切なものを守ることができる。
少し前までは知らなかったことだった。
覚え書きを閉じ、窓の外へ目を向けた。オルテンの街並みが、明るい日差しの中に広がっている。
まだ、知らない道がたくさんある。
知らない店。
知らない人。
知らない植物。
小さな笑みを浮かべ、リシェは呟いた。
「明日は何を見つけられるかな」
毛布の上から小さく鼻を鳴らす音が聞こえ、フィエルのほうへ振り返った。
「そうだね。一緒に見つけようね」
窓の外では、白い雲がゆっくり流れていた。
新しい街での暮らしは、まだ始まったばかりだった。




