第三十二話 瞳に宿る小さな光
午後の宿屋ブランは、朝とは違う静けさに包まれていた。昼食を終えた客たちは、それぞれの仕事や用事へ出かけている。食堂に残っているのは、窓際で手紙を書いている旅人が一人だけだった。
開け放たれた窓から、柔らかな風が吹き込んでくる。食堂の隅にある小さな卓で、リシェは覚え書きを広げていた。その隣には布を敷いた籠が置かれ、中ではもちろんフィエルが丸くなっている。
「ここなら外が見えるね」
声をかけると、フィエルは三角形の耳を動かした。籠の縁から顔を出し、窓の向こうを眺めている。
通りを行き交う人々の声。遠くから聞こえる荷車の音。時折、風に乗って漂ってくる焼き菓子の甘い匂い。
フィエルにとっても、この街は知らないものばかりなのだろう。
「私も、まだ知らないところがいっぱいあるんだ」
リシェは窓の外を見た。
「いつか一緒に歩けるといいね」
フィエルが小さく鼻を鳴らすと、微笑んで再び覚え書きに目を落とした。
*
今日エルダから教わったことを読み返す。
『無理に歩かせない』
『包帯を清潔にする』
『腫れや熱に注意』
『五日後に再診』
最後の一行を指でなぞった。フィエルの傷は少しずつよくなっている。それが何より嬉しかった。
ただ、治療にはまだ時間がかかる。次の診察までに、また銅貨を用意しておかなければならない。
覚え書きの次の頁を開いた。
『これから必要なもの』
そう書いて、少し考える。まずはフィエルの治療費。それから、自分の宿代と食事。ハンスに借りた銅貨七枚も、いつか返さなくてはならない。
リシェは指を折りながら数えた。一昨日の採集で手に入れた銅貨二枚は、今日の治療費に使った。今、手持ちのお金はない。宿で働いた分の銅貨二枚は、今後の宿代として預かってもらっている。
「やっぱり、お仕事を増やした方がいいのかな」
思わず呟くと、籠の中から小さな声がした。フィエルがこちらを見上げている。
「大丈夫だよ。ちゃんと考えるから」
笑って、その頭を撫でた。
*
「おや、勉強かい?」
顔を上げると、マルタが水差しを持って立っていた。
「はい。これから必要なものを書いていました」
「どれどれ」
卓の上の覚え書きに、マルタが目を落とす。そこには少し不揃いな文字が並んでいた。
治療費。宿代。食事。借りたお金。
しばらく眺めてから、ふっと笑う。
「ずいぶん真面目だねえ」
リシェは少し頬を赤くして答えた。
「忘れてしまいそうなので……」
「いいことさ。お金のことは、ちゃんと考えておいた方がいいからね」
空いている椅子を引き、マルタが向かいに腰を下ろした。
「でもね、リシェ。必要なものはお金だけじゃないよ」
「ほかにもあるんですか?」
「そりゃあ、あるさ。食べることも眠ることも、休むことも大切だよ」
その視線が、籠の中のフィエルへ向く。
「その子の世話だって、あんたが倒れちまったらできないだろう?」
リシェもフィエルを見下ろした。
「そうですね」
「仕事を頑張るのはいいけど、無理をしすぎちゃ駄目だよ」
「はい」
素直な返事に満足そうに笑い、マルタは水差しから杯に水を注いだ。
「それに、今日からの宿代のことも決めないとね。ハンスさんが払ってくれた三泊分は、昨日までだから」
杯を両手で受け取り、リシェは答えた。
「はい。私も相談しようと思っていました」
「そうかい。じゃあ帳面を持ってこようかね」
*
しばらくして、マルタが宿の帳面を持って戻ってきた。
「さて、今日からの部屋のことだけどね」
リシェは背筋を伸ばした。
「はい」
「前に話した屋根裏の小部屋、覚えているかい?」
「はい。今のお部屋より安く泊まれるところですよね」
「そうそう。広くはないし階段も少し急だけど、窓もあるし、寝台もちゃんと置いてあるよ」
帳面を開き、マルタが続ける。
「食事を朝晩つけて、銅貨三枚。今の部屋より一枚安くしてあげられる」
「三枚……」
「もちろん、フィエルちゃんも一緒でいいよ。ただし、部屋を汚さないように気をつけておくれ」
「はい!」
勢いよく頷くリシェに、マルタが笑った。
「それから、昨日みたいに宿の仕事を手伝ってくれるなら、その分は宿代から引いてあげよう」
少し考えてから、リシェは確かめた。
「昨日のお仕事は、銅貨二枚分でしたよね」
「そうだよ」
「じゃあ、今日の宿代はあと一枚……」
「そういうことさ」
膝の上で両手を握った。
「でも、今は銅貨を持っていなくて……」
「知ってるよ。フィエルちゃんの治療に使ったんだろう?」
「はい」
「だったら残りの一枚は明日以降の仕事で払えばいいさ」
驚いて顔を上げる。
「いいんですか?」
「ああ。ただし、忘れないように帳面につけておこうね」
マルタが宿の帳面に何かを書き込んだ。
「昨日の仕事で預かっている銅貨二枚分を、今夜の宿代に充てる。残りは一枚。これでどうだい?」
少し考えたあと、リシェはしっかりと頷いた。
「はい。必ず払います」
「よし、決まりだね」
マルタの顔に微笑みが浮かぶ。
「それから、宿の仕事は毎日同じだけあるとは限らないからね。採集の仕事と合わせて考えるといい」
リシェは覚え書きに書き込んだ。
『屋根裏の部屋 朝晩の食事つきで銅貨三枚』
『昨日の仕事の分 銅貨二枚を宿代に使う』
『残り 銅貨一枚』
『宿の仕事 できた分だけ宿代から引く』
書き終えて顔を上げる。
「私、そのお部屋に泊まりたいです」
「いいとも。今日のうちに荷物を移そうか」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げると、マルタが穏やかに笑った。
「そんなに何度も頭を下げなくていいよ。あんたがきちんと働いてくれるなら、こっちも助かるんだから」
*
話がまとまると、マルタが屋根裏部屋へ案内してくれた。廊下の奥にある階段を上ると、天井の低い小さな部屋があった。
寝台が一つ。古い机と椅子。壁際には小さな棚が取りつけられている。窓は屋根の傾斜に沿うように作られていて、そこから街の屋根が見えた。
「どうだい?」
リシェは窓へ近づいた。赤茶色の屋根がいくつも並び、その向こうに街の塔が見える。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
「すごいです。遠くまで見えます!」
「気に入ったかい?」
「はい!」
嬉しそうに笑って、マルタが言った。
「夏は少し暑くなるけどね。今の時期なら、窓を開ければ風も通るよ」
リシェは部屋を見回した。今までの部屋より狭い。寝台も机も、ずいぶん古い。それでも窓から見える景色が気に入った。
「ここでお願いします」
「じゃあ荷物を運んでおいで。フィエルちゃんを抱えて階段を上るときは、気をつけるんだよ」
「はい!」
*
リシェの荷物は、そう多くなかった。
布袋に入った古い図鑑と覚え書き。着替えの服。水筒と木の器。旅の途中でもらった布や、細々としたもの。
それらをまとめると、両手で持てるほどだった。まず荷物を新しい部屋へ運び、それからフィエルを迎えに戻った。
「フィエル、お引っ越しだよ」
毛布の上で休んでいたフィエルが、顔を上げる。
「新しいお部屋に行こうね」
布袋に入れ、身体が揺れないよう抱えた。一段ずつ慎重に階段を上る。部屋に着くと寝台の上に毛布を広げ、フィエルをそっと下ろした。
「着いたよ」
周囲を見回すフィエルの鼻が、小さく動いている。知らない匂いがするのだろうか。
「ここが今日から私たちのお部屋だよ」
リシェは窓を指さした。
「見て。あそこまで見えるんだ」
フィエルが窓の方へ顔を向ける。午後の日差しが、小さな部屋を明るく照らしていた。
「気に入ってくれるといいな」
リシェの口元に笑みが浮かんだ。
*
荷物を片づけたあと、フィエルを籠に入れて再び食堂へ下りた。窓際の卓に腰を下ろし、覚え書きを開く。
今日からはあの屋根裏部屋で暮らす。ハンスたちが旅立ったあとも、自分はここに残るのだ。
リシェは少しだけ背筋を伸ばした。
「フィエル、明日から新しい暮らしが始まるね」
籠の中で、フィエルがゆっくり尻尾を動かす。
「お部屋は小さいけど、窓があるしマルタさんも優しいし」
少し身を乗り出して続けた。
「きっと楽しくなるよ」
琥珀色の瞳が瞬いた。そのとき、フィエルが籠の中で身体を動かした。立ち上がろうとして、怪我をした後ろ脚に体重をかけかける。
「あっ、まだ駄目だよ」
慌てて手を伸ばすと、不満そうに鼻を鳴らされた。
「もう少し我慢しようね」
優しく声をかけても、フィエルは籠の縁へ前脚をかけようとする。どうやらリシェの膝に移りたいらしい。
「こっちに来たいの?」
困ったように笑って尋ねると、小さな耳がぴんと立った。
「じゃあ抱っこするね」
リシェはフィエルの身体を両手で支え、怪我をした脚に触れないよう、そっと膝の上へ移した。フィエルは落ち着いた様子で身体を丸めた。
「もう。無理したらまた痛くなっちゃうよ」
額を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。
*
厨房から戻ってきたマルタが、二人の様子を見て足を止めた。
「おやおや、甘えん坊だねえ」
リシェは顔を上げて答えた。
「私の膝に来たかったみたいです」
「ずいぶん懐いたもんだね」
笑いながら近づくマルタの前でも、フィエルはリシェの膝の上ですっかりくつろいでいる。
「こんなにおとなしい魔獣も珍しいよ」
「そうなんですか?」
「ああ。昔、旅の商人が連れていた小さな魔獣を見たことがあるけどね。知らない人が近づいただけで、ずいぶん威嚇していたよ」
リシェはフィエルを見下ろした。
「フィエルも、最初は怖がっていました」
「そりゃあ、怪我をしていたんだから無理もないさ。でも今は安心してるみたいだね」
「はい。そうだったら嬉しいです」
嬉しそうに微笑んで、フィエルの頭をゆっくり撫でた。
「ねえフィエル」
琥珀色の瞳が、リシェを見上げる。
「もう怖い思いをしなくていいからね」
小さな声で続けた。
「傷が治ったら、一緒にいろんなところへ行こう」
フィエルはじっとリシェを見つめていた。
「森も街も、まだ見たことのない場所も」
少し笑って、言葉を継ぐ。
「きっと、楽しいことがいっぱいあるよ」
そのときだった。
マルタがふと目を細めた。
「……おや?」
リシェの灰青色の瞳。その奥で、何かが小さく瞬いたように見えたのだ。
淡い金色の、星のような光。
ほんの一瞬のことだった。もう一度目を凝らしたときには、いつもの穏やかな灰青色に戻っていた。
不思議そうに顔を上げたリシェを前に、マルタは窓を見た。午後の日差しが、食堂の床に長く伸びている。
「いや、なんでもないよ」
笑って続ける。
「窓の光が、あんたの目に映ったみたいでね」
「そうなんですか?」
「ああ。きらっと光ったように見えたんだ」
首を傾げてから、リシェは窓の外へ目を向けた。
「今日はいいお天気ですもんね」
「そうだねえ」
それ以上気にすることなく、フィエルの背中を撫で始めた。フィエルもまた、何事もなかったように目を閉じている。
二人を見つめながら、マルタは心の中で呟いた。
不思議な子だねえ。
そうして、食堂の片づけへ戻っていった。
*
夕方になると、宿屋ブランには少しずつ客が戻り始めた。フィエルを屋根裏部屋で休ませ、リシェは食堂の椅子を並べるのを少し手伝った。
厨房ではマルタが夕食の支度をしている。煮込まれた野菜と肉の匂いが、食堂に広がっていた。
「リシェ、そっちの卓もお願いできるかい?」
「はい!」
布巾を手に、窓際の卓へ向かった。昼間、フィエルと一緒に座っていた場所だった。
窓の外では、夕日が街の屋根を赤く染めている。卓を拭きながら、明日のことを考えた。
明日の朝、ハンスたちはオルテンを出発する。自分は、この宿に残る。
同じ街で暮らしているだけなのに、何かが変わってしまうような気がした。少しだけ胸が寂しくなり、手を止めた。
森を抜け街道を歩き、ハンスたちと出会った。初めて荷馬車に乗せてもらい、温かい食事を分けてもらった。何も知らなかった自分に、いろいろなことを教えてくれた。
明日になれば、もう一緒にはいられない。
「……寂しくなるな」
小さく呟いた声は、夕方の食堂に溶けていった。
そのとき、厨房からマルタの声がした。
「リシェ、ありがとう。もう十分だよ!」
リシェは顔を上げた。
「はい!」
布巾を畳み、厨房へ向かう。
まだ少し寂しい。
でも、明日からもここで暮らしていくのだ。
自分で選んだ、小さな旅の続きを。
*
夜。
屋根裏部屋へ戻ったリシェは、寝台の上でフィエルを抱き寄せた。
「明日は、ハンスさんたちが出発するんだって」
フィエルの耳が動く。
「ちゃんとお礼を言わないとね」
枕元に置いた布袋へ目を向けた。その中には、古い図鑑と覚え書きが入っている。森を出たときからずっと持ってきたもの。旅の途中で増えたものも少しずつある。
そして今は、隣にフィエルがいる。
小さく微笑んで、リシェは声をかけた。
「私たちも、少しずつ進んでいこうね」
フィエルが手に鼻先を寄せた。
窓の向こうには夜の街が広がっている。建物の間から見えるいくつかの星を、リシェはしばらく眺めていた。
まだ知らない世界は、きっと広い。どこまで行けるのかも、何が待っているのかもわからない。
それでも、明日が来るのを少し楽しみに思えた。
「おやすみ、フィエル」
小さな魔獣が安心したように目を閉じると、リシェもまた静かに瞼を下ろした。
窓の外では星が穏やかに瞬いていた。




