↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/81

第三十二話 瞳に宿る小さな光

 

 午後の宿屋ブランは、朝とは違う静けさに包まれていた。昼食を終えた客たちは、それぞれの仕事や用事へ出かけている。食堂に残っているのは、窓際で手紙を書いている旅人が一人だけだった。


 開け放たれた窓から、柔らかな風が吹き込んでくる。食堂の隅にある小さな卓で、リシェは覚え書きを広げていた。その隣には布を敷いた籠が置かれ、中ではもちろんフィエルが丸くなっている。


「ここなら外が見えるね」


 声をかけると、フィエルは三角形の耳を動かした。籠の縁から顔を出し、窓の向こうを眺めている。


 通りを行き交う人々の声。遠くから聞こえる荷車の音。時折、風に乗って漂ってくる焼き菓子の甘い匂い。


 フィエルにとっても、この街は知らないものばかりなのだろう。


「私も、まだ知らないところがいっぱいあるんだ」


 リシェは窓の外を見た。


「いつか一緒に歩けるといいね」


 フィエルが小さく鼻を鳴らすと、微笑んで再び覚え書きに目を落とした。


     *


 今日エルダから教わったことを読み返す。


『無理に歩かせない』

『包帯を清潔にする』

『腫れや熱に注意』

『五日後に再診』


 最後の一行を指でなぞった。フィエルの傷は少しずつよくなっている。それが何より嬉しかった。


 ただ、治療にはまだ時間がかかる。次の診察までに、また銅貨を用意しておかなければならない。


 覚え書きの次の頁を開いた。


『これから必要なもの』


 そう書いて、少し考える。まずはフィエルの治療費。それから、自分の宿代と食事。ハンスに借りた銅貨七枚も、いつか返さなくてはならない。


 リシェは指を折りながら数えた。一昨日の採集で手に入れた銅貨二枚は、今日の治療費に使った。今、手持ちのお金はない。宿で働いた分の銅貨二枚は、今後の宿代として預かってもらっている。


「やっぱり、お仕事を増やした方がいいのかな」


 思わず呟くと、籠の中から小さな声がした。フィエルがこちらを見上げている。


「大丈夫だよ。ちゃんと考えるから」


 笑って、その頭を撫でた。


     *


「おや、勉強かい?」


 顔を上げると、マルタが水差しを持って立っていた。


「はい。これから必要なものを書いていました」

「どれどれ」


 卓の上の覚え書きに、マルタが目を落とす。そこには少し不揃いな文字が並んでいた。


 治療費。宿代。食事。借りたお金。


 しばらく眺めてから、ふっと笑う。


「ずいぶん真面目だねえ」


 リシェは少し頬を赤くして答えた。


「忘れてしまいそうなので……」

「いいことさ。お金のことは、ちゃんと考えておいた方がいいからね」


 空いている椅子を引き、マルタが向かいに腰を下ろした。


「でもね、リシェ。必要なものはお金だけじゃないよ」

「ほかにもあるんですか?」

「そりゃあ、あるさ。食べることも眠ることも、休むことも大切だよ」


 その視線が、籠の中のフィエルへ向く。


「その子の世話だって、あんたが倒れちまったらできないだろう?」


 リシェもフィエルを見下ろした。


「そうですね」

「仕事を頑張るのはいいけど、無理をしすぎちゃ駄目だよ」

「はい」


 素直な返事に満足そうに笑い、マルタは水差しから杯に水を注いだ。


「それに、今日からの宿代のことも決めないとね。ハンスさんが払ってくれた三泊分は、昨日までだから」


 杯を両手で受け取り、リシェは答えた。


「はい。私も相談しようと思っていました」

「そうかい。じゃあ帳面を持ってこようかね」


     *


 しばらくして、マルタが宿の帳面を持って戻ってきた。


「さて、今日からの部屋のことだけどね」


 リシェは背筋を伸ばした。


「はい」

「前に話した屋根裏の小部屋、覚えているかい?」

「はい。今のお部屋より安く泊まれるところですよね」

「そうそう。広くはないし階段も少し急だけど、窓もあるし、寝台もちゃんと置いてあるよ」


 帳面を開き、マルタが続ける。


「食事を朝晩つけて、銅貨三枚。今の部屋より一枚安くしてあげられる」

「三枚……」

「もちろん、フィエルちゃんも一緒でいいよ。ただし、部屋を汚さないように気をつけておくれ」

「はい!」


 勢いよく頷くリシェに、マルタが笑った。


「それから、昨日みたいに宿の仕事を手伝ってくれるなら、その分は宿代から引いてあげよう」


 少し考えてから、リシェは確かめた。


「昨日のお仕事は、銅貨二枚分でしたよね」

「そうだよ」

「じゃあ、今日の宿代はあと一枚……」

「そういうことさ」


 膝の上で両手を握った。


「でも、今は銅貨を持っていなくて……」

「知ってるよ。フィエルちゃんの治療に使ったんだろう?」

「はい」

「だったら残りの一枚は明日以降の仕事で払えばいいさ」


 驚いて顔を上げる。


「いいんですか?」

「ああ。ただし、忘れないように帳面につけておこうね」


 マルタが宿の帳面に何かを書き込んだ。


「昨日の仕事で預かっている銅貨二枚分を、今夜の宿代に充てる。残りは一枚。これでどうだい?」


 少し考えたあと、リシェはしっかりと頷いた。


「はい。必ず払います」

「よし、決まりだね」


 マルタの顔に微笑みが浮かぶ。


「それから、宿の仕事は毎日同じだけあるとは限らないからね。採集の仕事と合わせて考えるといい」


 リシェは覚え書きに書き込んだ。


『屋根裏の部屋 朝晩の食事つきで銅貨三枚』

『昨日の仕事の分 銅貨二枚を宿代に使う』

『残り 銅貨一枚』

『宿の仕事 できた分だけ宿代から引く』


 書き終えて顔を上げる。


「私、そのお部屋に泊まりたいです」

「いいとも。今日のうちに荷物を移そうか」

「ありがとうございます!」


 深く頭を下げると、マルタが穏やかに笑った。


「そんなに何度も頭を下げなくていいよ。あんたがきちんと働いてくれるなら、こっちも助かるんだから」


     *


 話がまとまると、マルタが屋根裏部屋へ案内してくれた。廊下の奥にある階段を上ると、天井の低い小さな部屋があった。


 寝台が一つ。古い机と椅子。壁際には小さな棚が取りつけられている。窓は屋根の傾斜に沿うように作られていて、そこから街の屋根が見えた。


「どうだい?」


 リシェは窓へ近づいた。赤茶色の屋根がいくつも並び、その向こうに街の塔が見える。


「わあ……」


 思わず声が漏れた。


「すごいです。遠くまで見えます!」

「気に入ったかい?」

「はい!」


 嬉しそうに笑って、マルタが言った。


「夏は少し暑くなるけどね。今の時期なら、窓を開ければ風も通るよ」


 リシェは部屋を見回した。今までの部屋より狭い。寝台も机も、ずいぶん古い。それでも窓から見える景色が気に入った。


「ここでお願いします」

「じゃあ荷物を運んでおいで。フィエルちゃんを抱えて階段を上るときは、気をつけるんだよ」

「はい!」


     *


 リシェの荷物は、そう多くなかった。


 布袋に入った古い図鑑と覚え書き。着替えの服。水筒と木の器。旅の途中でもらった布や、細々としたもの。


 それらをまとめると、両手で持てるほどだった。まず荷物を新しい部屋へ運び、それからフィエルを迎えに戻った。


「フィエル、お引っ越しだよ」


 毛布の上で休んでいたフィエルが、顔を上げる。


「新しいお部屋に行こうね」


 布袋に入れ、身体が揺れないよう抱えた。一段ずつ慎重に階段を上る。部屋に着くと寝台の上に毛布を広げ、フィエルをそっと下ろした。


「着いたよ」


 周囲を見回すフィエルの鼻が、小さく動いている。知らない匂いがするのだろうか。


「ここが今日から私たちのお部屋だよ」


 リシェは窓を指さした。


「見て。あそこまで見えるんだ」


 フィエルが窓の方へ顔を向ける。午後の日差しが、小さな部屋を明るく照らしていた。


「気に入ってくれるといいな」


 リシェの口元に笑みが浮かんだ。


     *


 荷物を片づけたあと、フィエルを籠に入れて再び食堂へ下りた。窓際の卓に腰を下ろし、覚え書きを開く。


 今日からはあの屋根裏部屋で暮らす。ハンスたちが旅立ったあとも、自分はここに残るのだ。


 リシェは少しだけ背筋を伸ばした。


「フィエル、明日から新しい暮らしが始まるね」


 籠の中で、フィエルがゆっくり尻尾を動かす。


「お部屋は小さいけど、窓があるしマルタさんも優しいし」


 少し身を乗り出して続けた。


「きっと楽しくなるよ」


 琥珀色の瞳が瞬いた。そのとき、フィエルが籠の中で身体を動かした。立ち上がろうとして、怪我をした後ろ脚に体重をかけかける。


「あっ、まだ駄目だよ」


 慌てて手を伸ばすと、不満そうに鼻を鳴らされた。


「もう少し我慢しようね」


 優しく声をかけても、フィエルは籠の縁へ前脚をかけようとする。どうやらリシェの膝に移りたいらしい。


「こっちに来たいの?」


 困ったように笑って尋ねると、小さな耳がぴんと立った。


「じゃあ抱っこするね」


 リシェはフィエルの身体を両手で支え、怪我をした脚に触れないよう、そっと膝の上へ移した。フィエルは落ち着いた様子で身体を丸めた。


「もう。無理したらまた痛くなっちゃうよ」


 額を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。


     *


 厨房から戻ってきたマルタが、二人の様子を見て足を止めた。


「おやおや、甘えん坊だねえ」


 リシェは顔を上げて答えた。


「私の膝に来たかったみたいです」

「ずいぶん懐いたもんだね」


 笑いながら近づくマルタの前でも、フィエルはリシェの膝の上ですっかりくつろいでいる。


「こんなにおとなしい魔獣も珍しいよ」

「そうなんですか?」

「ああ。昔、旅の商人が連れていた小さな魔獣を見たことがあるけどね。知らない人が近づいただけで、ずいぶん威嚇していたよ」


 リシェはフィエルを見下ろした。


「フィエルも、最初は怖がっていました」

「そりゃあ、怪我をしていたんだから無理もないさ。でも今は安心してるみたいだね」

「はい。そうだったら嬉しいです」


 嬉しそうに微笑んで、フィエルの頭をゆっくり撫でた。


「ねえフィエル」


 琥珀色の瞳が、リシェを見上げる。


「もう怖い思いをしなくていいからね」


 小さな声で続けた。


「傷が治ったら、一緒にいろんなところへ行こう」


 フィエルはじっとリシェを見つめていた。


「森も街も、まだ見たことのない場所も」


 少し笑って、言葉を継ぐ。


「きっと、楽しいことがいっぱいあるよ」


 そのときだった。


 マルタがふと目を細めた。


「……おや?」


 リシェの灰青色の瞳。その奥で、何かが小さく瞬いたように見えたのだ。


 淡い金色の、星のような光。


 ほんの一瞬のことだった。もう一度目を凝らしたときには、いつもの穏やかな灰青色に戻っていた。


 不思議そうに顔を上げたリシェを前に、マルタは窓を見た。午後の日差しが、食堂の床に長く伸びている。


「いや、なんでもないよ」


 笑って続ける。


「窓の光が、あんたの目に映ったみたいでね」

「そうなんですか?」

「ああ。きらっと光ったように見えたんだ」


 首を傾げてから、リシェは窓の外へ目を向けた。


「今日はいいお天気ですもんね」

「そうだねえ」


 それ以上気にすることなく、フィエルの背中を撫で始めた。フィエルもまた、何事もなかったように目を閉じている。


 二人を見つめながら、マルタは心の中で呟いた。


 不思議な子だねえ。


 そうして、食堂の片づけへ戻っていった。


     *


 夕方になると、宿屋ブランには少しずつ客が戻り始めた。フィエルを屋根裏部屋で休ませ、リシェは食堂の椅子を並べるのを少し手伝った。


 厨房ではマルタが夕食の支度をしている。煮込まれた野菜と肉の匂いが、食堂に広がっていた。


「リシェ、そっちの卓もお願いできるかい?」

「はい!」


 布巾を手に、窓際の卓へ向かった。昼間、フィエルと一緒に座っていた場所だった。


 窓の外では、夕日が街の屋根を赤く染めている。卓を拭きながら、明日のことを考えた。


 明日の朝、ハンスたちはオルテンを出発する。自分は、この宿に残る。


 同じ街で暮らしているだけなのに、何かが変わってしまうような気がした。少しだけ胸が寂しくなり、手を止めた。


 森を抜け街道を歩き、ハンスたちと出会った。初めて荷馬車に乗せてもらい、温かい食事を分けてもらった。何も知らなかった自分に、いろいろなことを教えてくれた。


 明日になれば、もう一緒にはいられない。


「……寂しくなるな」


 小さく呟いた声は、夕方の食堂に溶けていった。


 そのとき、厨房からマルタの声がした。


「リシェ、ありがとう。もう十分だよ!」


 リシェは顔を上げた。


「はい!」


 布巾を畳み、厨房へ向かう。


 まだ少し寂しい。


 でも、明日からもここで暮らしていくのだ。


 自分で選んだ、小さな旅の続きを。


     *


 夜。


 屋根裏部屋へ戻ったリシェは、寝台の上でフィエルを抱き寄せた。


「明日は、ハンスさんたちが出発するんだって」


 フィエルの耳が動く。


「ちゃんとお礼を言わないとね」


 枕元に置いた布袋へ目を向けた。その中には、古い図鑑と覚え書きが入っている。森を出たときからずっと持ってきたもの。旅の途中で増えたものも少しずつある。


 そして今は、隣にフィエルがいる。


 小さく微笑んで、リシェは声をかけた。


「私たちも、少しずつ進んでいこうね」


 フィエルが手に鼻先を寄せた。


 窓の向こうには夜の街が広がっている。建物の間から見えるいくつかの星を、リシェはしばらく眺めていた。


 まだ知らない世界は、きっと広い。どこまで行けるのかも、何が待っているのかもわからない。


 それでも、明日が来るのを少し楽しみに思えた。


「おやすみ、フィエル」


 小さな魔獣が安心したように目を閉じると、リシェもまた静かに瞼を下ろした。


 窓の外では星が穏やかに瞬いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。