↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/91

第三十三話 旅立つ人、残る人

 

 朝、目を覚ましたリシェは、しばらく天井を見つめていた。


 いつもより少し近い天井。屋根の傾斜に沿って斜めになった梁が、薄明かりの中に浮かんでいる。昨日から暮らし始めた、宿屋ブランの屋根裏部屋だった。


 毛布から身体を起こした。


「おはよう、フィエル」


 隣で丸くなっていた銀白色の小さな魔獣が、ゆっくりと顔を上げる。琥珀色の瞳が、眠たそうに瞬いた。


「今日はハンスさんたちが出発する日だよ」


 フィエルが耳を動かす。その頭を撫でてから、リシェは窓の外へ目を向けた。赤茶色の屋根の向こうに、朝日が昇り始めている。


 オルテンに来て、もう五日目。


 ついこの間まで、森の中を一人で歩いていたような気がする。あの頃は、今日のような朝が来るなんて想像もしていなかった。


 小さく息を吐き、寝台から降りた。


     *


 身支度を整え、フィエルを布袋に入れて階段を下りると、食堂にはすでにハンスたちが集まっていた。卓の上にはパンと温かなスープが並んでいる。


「おはようリシェちゃん」

「おはようございます」


 微笑むハンスたちに頭を下げた。大きな手でパンをちぎっていたダリオが、片手を上げる。


「よう。よく眠れたか?」

「はい。新しいお部屋も、よく眠れました」

「そりゃよかった」


 リタが布袋を覗き込んだ。


「フィエルの具合はどう?」

「今朝も元気です。まだ歩かせないようにしています」

「うん。それがいいわね」


 安心したようなリタの返事を聞いて席につくと、マルタが焼きたてのパンを運んできた。


「ほら、今日はしっかり食べておきな。旅立つ人も、見送る人もね」


 ハンスが笑って礼を言った。


「ありがとうございます、マルタさん。お世話になりました」

「こちらこそ。またオルテンに来たら寄っておくれ」

「ええ、もちろん」


 いつもと変わらない朝食の席。それなのに、リシェには少しだけ違って感じられた。


 ハンスたちが食事を終えれば、荷物を積んで街を出ていく。そのことを考えると、パンを口へ運ぶ手がゆっくりになった。


     *


 朝食のあと、ハンスたちは宿の前で荷物をまとめ始めた。灰色のロバ、ロッテは荷車のそばでおとなしく立っている。ダリオが荷紐を締め、リタが積み荷の位置を確かめる様子を、リシェはフィエルを抱えたまま眺めていた。


 街道を一緒に進んだ荷車。あの荷台に乗せてもらった日のことを思い出す。


 森を抜けたばかりで足は痛く、お腹も空いていた。知らない大人たちに声をかけられて、怖くなかったと言えば嘘になる。


 それでも、ハンスたちは自分を助けてくれた。食べ物を分けてくれた。フィエルの傷を気にかけてくれた。オルテンまで連れてきてくれた。


 布袋を抱く手に、少しだけ力を込めた。


「リシェちゃん」


 振り返ると、ハンスが立っていた。


「少し、いいかな?」

「はい」


 荷車から少し離れたところへ歩いたハンスと向き合う。


「オルテンでの暮らしは、どうだい?」


 少し考えてから答えた。


「まだわからないことがたくさんあります」

「そうだろうね」

「でも、採集のお仕事もできましたし、マルタさんのお手伝いもできました」

「うん。よく頑張っているね」

「ありがとうございます」


 リシェの口元に小さな笑みが浮かぶと、ハンスが少しだけ表情を改めた。


「ただ、これからは私たちがそばにいない。困ったことがあったら、一人で抱え込まずに、マルタさんやクララさんに相談するんだよ」

「はい」

「それから、組合の証明書は大切にすること。なくしたら、すぐに組合へ届けるんだ」


 胸元の布袋に触れた。中には、採集者組合でもらった木の証明書が入っている。


「ちゃんと大事にします」

「うん」


 ハンスが穏やかに笑った。


「君はしっかりしているけど、まだ十歳だからね。何でも自分だけで何とかしようとしなくていいんだ」


 その言葉を、胸の中で繰り返した。


 何でも、自分だけで何とかしなくていい。


 孤児院にいた頃は、誰かに頼ることをあまり考えなかった。自分の仕事は自分で終わらせる。困っていてもなるべく迷惑をかけない。それが当たり前だった。


 でも旅に出てからは違った。ガルドに助けられ、ハンスたちに助けられ、エルダやマルタにも助けられた。


 リシェはゆっくり頷いた。


「はい。覚えておきます」


     *


「ああ、そうだ」


 ハンスが思い出したように言った。


「貸した銅貨のことだけどね」


 リシェは背筋を伸ばした。


「七枚ですよね」

「そう。よく覚えているね」

「覚え書きにも書いてあります」


 少し恥ずかしそうに笑って続ける。


「お仕事をしてちゃんと返します」

「その気持ちは嬉しいよ。でも急がなくていい」

「でも……」

「まずは自分とフィエルの暮らしを整えること。それが先だ」


 リシェが口を閉じると、ハンスが続けた。


「私は商人だからオルテンにも時々来る。次に会ったとき、余裕があれば返してくれればいいさ」

「次に会ったとき……」

「ああ」


 ハンスが笑った。


「また会えるよ」


 顔を上げると、その言葉が胸の奥にゆっくり広がっていった。


 別れたらもう会えない。そんなふうに考えていた。でもハンスは違った。次に会うことを、当たり前のように話している。


「はい!」


 嬉しそうに頷いて、リシェは答えた。


「そのときまでに、頑張ります」


     *


「おーい、ハンス!」


 ダリオの声がした。


「荷物は積み終わったぞ!」

「ありがとう。今行くよ」


 振り返って答えたハンスに続き、リシェも荷車の方へ向かった。ロッテが長い耳を揺らし、こちらを見る。


「ロッテも、元気でね」


 近づいてきた鼻先を見て、そっと額を撫でた。温かな毛並み。街道で何度も見た、優しい灰色の瞳。


「また会おうね」


 ロッテが小さく鼻を鳴らすと、見ていたダリオが笑った。


「ロッテも、嬢ちゃんのことを気に入ったみたいだな」

「私もロッテが好きです」

「そりゃよかった」


 嬉しそうなリシェの頭を、ダリオの大きな手が軽く撫でた。


「達者でな、嬢ちゃん」

「はい。ダリオさんも、お元気で」

「おう!」


 いつもの豪快な声を聞くと、少し安心した。


     *


 最後にリタが近づいてきた。


「リシェ」

「はい」


 目の前にしゃがみ、目線を合わせてくれる。


「フィエルの包帯、ちゃんと見てあげてね」

「はい。汚れたら取り替えて、腫れたり熱が出たりしたら、エルダさんのところに行きます」

「うん。よく覚えてるわね」


 リタが微笑んだ。


「それから、採集の仕事も無理しすぎないこと。組合が許可していない場所には行っちゃ駄目よ」

「はい」

「知らない人についていかないこと」

「はい」

「夜は一人で出歩かないこと」

「はい!」


 リシェが何度も頷くので、リタはとうとう笑い出した。


「もう。そんなに真剣な顔をしなくてもいいのよ」


 つられて笑ったリシェの髪を、リタがそっと手を伸ばして整えた。


「元気でね」


 その声は、いつもより少し優しかった。


 リシェは唇を結んだ。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


「……リタさん」

「なあに?」

「ありがとうございました」


 深く頭を下げた。


「フィエルのことも、私のことも、たくさん助けてくれて……」


 言葉が途中で止まった。何を言えばいいのか、うまくわからなかった。込み上げてくるものがあって、唇を引き結んだ。


 ありがとう。


 その一言だけでは、足りない気がした。


 リタは何も言わず、リシェが顔を上げるのを待っていた。


「私、皆さんに会えてよかったです」


 ようやく言えた言葉だった。


 一瞬目を丸くしたリタが、優しく微笑んだ。


「私もよ」


 大きな手が、リシェの肩にそっと触れた。


「あなたに会えて、よかった」


     *


 出発の準備が整った。ハンスが御者台に乗り、ダリオが荷車の後ろを確かめる。リタも荷物を肩にかけた。


 宿の入口から、マルタの声がかかる。


「道中、気をつけるんだよ!」

「ええ、お世話になりました!」


 ハンスが答えると、ロッテがゆっくり歩き始めた。車輪が石畳の上で、ことことと音を立てる。


 リシェはフィエルを抱えたまま、荷車を見送った。


「ハンスさん! ダリオさん! リタさん!」


 三人が振り返る。


「ありがとうございました!」


 大きく手を振ると、ハンスが笑顔で手を上げた。ダリオも片手を高く掲げ、リタは振り返りながら何度も手を振ってくれた。


 荷車は少しずつ遠ざかり、角を曲がって通りの向こうへ消えていった。


 しばらく、その場所に立っていた。


 もう、荷車の音は聞こえない。いつの間にか、通りにはいつもの朝の賑わいが戻っていた。


 商人たちの声。行き交う人々の足音。遠くから響く鐘の音。


 街は何も変わらないように見える。でも、リシェの周りからは、大切な人たちがいなくなっていた。


「……行っちゃったね」


 小さく呟くと、布袋の中でフィエルが鼻を鳴らした。その頭を撫でる。


「うん。寂しいね」


 少しだけ目の奥が熱くなり、空を見上げた。


 泣いてしまいそうだった。

 でも、悲しいだけではなかった。


 ハンスたちが、自分をここまで連れてきてくれた。だから今、自分はこの街に立っている。


 小さく息を吸った。


「また会えるよね」


 フィエルが琥珀色の瞳で見上げている。


「きっと会えるよね」


 そう言って、リシェは微笑んだ。


     *


「リシェ」


 背後から声がした。振り返ると、マルタが宿の入口に立っていた。


「寒くないかい?」

「大丈夫です」

「そうかい」


 マルタが隣へ歩いてきた。二人で、ハンスたちが去った通りを眺める。


「いい人たちだったねえ」

「はい。とても優しい人たちでした」

「そうだね」


 少し黙ってから、マルタがリシェを見た。


「さて、あんたはどうする?」


 顔を上げる。


「私ですか?」

「ああ。ハンスさんたちは旅立った。あんたはここに残るんだろう?」


 リシェはゆっくり頷いた。


「はい」

「じゃあ今日からは本当に、あんた自身の暮らしが始まるね」


 微笑むマルタの言葉を聞いて、宿屋ブランの看板を見上げた。


 白い花の印。


 初めてこの宿へ来たときは、何もかもが不安だった。知らない街。知らない宿。知らない人たち。


 今は少し違う。


 マルタの笑顔を知っている。宿の中の廊下も、食堂も、屋根裏部屋も知っている。組合へ行く道も、エルダの診療所へ行く道も覚えた。


 まだ知らないことはたくさんある。でも、何も知らないわけではなくなった。


「はい」


 しっかり頷いて、リシェは言った。


「私、ここで頑張ります」


 マルタが満足そうに笑った。


「よし。じゃあ、まずは朝の片づけを手伝っておくれ」

「はい!」


 元気よく返事をした。


     *


 宿の中へ戻ると、食堂には朝食の片づけが残っていた。フィエルを籠に寝かせ、布巾を手に取る。


 卓を拭き、椅子を整える。使い終わった器を厨房へ運ぶ。


 昨日までと同じ仕事だった。それでも今日は少し違う気がした。


 ハンスたちはもういない。自分で考え、自分で働き、自分で暮らしていく。


 窓の外を見ると、朝の光が石畳を明るく照らしていた。


 知らない世界へ出てきてから、いろいろな人に出会った。その人たちは、リシェに少しずつ何かを残してくれた。


 温かな食事。旅の道具。新しい知識。優しい言葉。


 そして、自分にもできることがあるのだという、小さな自信。


 布巾を握り直した。


「よし」


 小さく呟いて、次の卓へ向かう。籠の中でフィエルが耳を動かすと、振り返って微笑んだ。


「今日も、一緒に頑張ろうね」


 フィエルが小さく鼻を鳴らした。


 オルテンの朝は今日も賑やかだった。


 そして、リシェの新しい一日が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。