第三十三話 旅立つ人、残る人
朝、目を覚ましたリシェは、しばらく天井を見つめていた。
いつもより少し近い天井。屋根の傾斜に沿って斜めになった梁が、薄明かりの中に浮かんでいる。昨日から暮らし始めた、宿屋ブランの屋根裏部屋だった。
毛布から身体を起こした。
「おはよう、フィエル」
隣で丸くなっていた銀白色の小さな魔獣が、ゆっくりと顔を上げる。琥珀色の瞳が、眠たそうに瞬いた。
「今日はハンスさんたちが出発する日だよ」
フィエルが耳を動かす。その頭を撫でてから、リシェは窓の外へ目を向けた。赤茶色の屋根の向こうに、朝日が昇り始めている。
オルテンに来て、もう五日目。
ついこの間まで、森の中を一人で歩いていたような気がする。あの頃は、今日のような朝が来るなんて想像もしていなかった。
小さく息を吐き、寝台から降りた。
*
身支度を整え、フィエルを布袋に入れて階段を下りると、食堂にはすでにハンスたちが集まっていた。卓の上にはパンと温かなスープが並んでいる。
「おはようリシェちゃん」
「おはようございます」
微笑むハンスたちに頭を下げた。大きな手でパンをちぎっていたダリオが、片手を上げる。
「よう。よく眠れたか?」
「はい。新しいお部屋も、よく眠れました」
「そりゃよかった」
リタが布袋を覗き込んだ。
「フィエルの具合はどう?」
「今朝も元気です。まだ歩かせないようにしています」
「うん。それがいいわね」
安心したようなリタの返事を聞いて席につくと、マルタが焼きたてのパンを運んできた。
「ほら、今日はしっかり食べておきな。旅立つ人も、見送る人もね」
ハンスが笑って礼を言った。
「ありがとうございます、マルタさん。お世話になりました」
「こちらこそ。またオルテンに来たら寄っておくれ」
「ええ、もちろん」
いつもと変わらない朝食の席。それなのに、リシェには少しだけ違って感じられた。
ハンスたちが食事を終えれば、荷物を積んで街を出ていく。そのことを考えると、パンを口へ運ぶ手がゆっくりになった。
*
朝食のあと、ハンスたちは宿の前で荷物をまとめ始めた。灰色のロバ、ロッテは荷車のそばでおとなしく立っている。ダリオが荷紐を締め、リタが積み荷の位置を確かめる様子を、リシェはフィエルを抱えたまま眺めていた。
街道を一緒に進んだ荷車。あの荷台に乗せてもらった日のことを思い出す。
森を抜けたばかりで足は痛く、お腹も空いていた。知らない大人たちに声をかけられて、怖くなかったと言えば嘘になる。
それでも、ハンスたちは自分を助けてくれた。食べ物を分けてくれた。フィエルの傷を気にかけてくれた。オルテンまで連れてきてくれた。
布袋を抱く手に、少しだけ力を込めた。
「リシェちゃん」
振り返ると、ハンスが立っていた。
「少し、いいかな?」
「はい」
荷車から少し離れたところへ歩いたハンスと向き合う。
「オルテンでの暮らしは、どうだい?」
少し考えてから答えた。
「まだわからないことがたくさんあります」
「そうだろうね」
「でも、採集のお仕事もできましたし、マルタさんのお手伝いもできました」
「うん。よく頑張っているね」
「ありがとうございます」
リシェの口元に小さな笑みが浮かぶと、ハンスが少しだけ表情を改めた。
「ただ、これからは私たちがそばにいない。困ったことがあったら、一人で抱え込まずに、マルタさんやクララさんに相談するんだよ」
「はい」
「それから、組合の証明書は大切にすること。なくしたら、すぐに組合へ届けるんだ」
胸元の布袋に触れた。中には、採集者組合でもらった木の証明書が入っている。
「ちゃんと大事にします」
「うん」
ハンスが穏やかに笑った。
「君はしっかりしているけど、まだ十歳だからね。何でも自分だけで何とかしようとしなくていいんだ」
その言葉を、胸の中で繰り返した。
何でも、自分だけで何とかしなくていい。
孤児院にいた頃は、誰かに頼ることをあまり考えなかった。自分の仕事は自分で終わらせる。困っていてもなるべく迷惑をかけない。それが当たり前だった。
でも旅に出てからは違った。ガルドに助けられ、ハンスたちに助けられ、エルダやマルタにも助けられた。
リシェはゆっくり頷いた。
「はい。覚えておきます」
*
「ああ、そうだ」
ハンスが思い出したように言った。
「貸した銅貨のことだけどね」
リシェは背筋を伸ばした。
「七枚ですよね」
「そう。よく覚えているね」
「覚え書きにも書いてあります」
少し恥ずかしそうに笑って続ける。
「お仕事をしてちゃんと返します」
「その気持ちは嬉しいよ。でも急がなくていい」
「でも……」
「まずは自分とフィエルの暮らしを整えること。それが先だ」
リシェが口を閉じると、ハンスが続けた。
「私は商人だからオルテンにも時々来る。次に会ったとき、余裕があれば返してくれればいいさ」
「次に会ったとき……」
「ああ」
ハンスが笑った。
「また会えるよ」
顔を上げると、その言葉が胸の奥にゆっくり広がっていった。
別れたらもう会えない。そんなふうに考えていた。でもハンスは違った。次に会うことを、当たり前のように話している。
「はい!」
嬉しそうに頷いて、リシェは答えた。
「そのときまでに、頑張ります」
*
「おーい、ハンス!」
ダリオの声がした。
「荷物は積み終わったぞ!」
「ありがとう。今行くよ」
振り返って答えたハンスに続き、リシェも荷車の方へ向かった。ロッテが長い耳を揺らし、こちらを見る。
「ロッテも、元気でね」
近づいてきた鼻先を見て、そっと額を撫でた。温かな毛並み。街道で何度も見た、優しい灰色の瞳。
「また会おうね」
ロッテが小さく鼻を鳴らすと、見ていたダリオが笑った。
「ロッテも、嬢ちゃんのことを気に入ったみたいだな」
「私もロッテが好きです」
「そりゃよかった」
嬉しそうなリシェの頭を、ダリオの大きな手が軽く撫でた。
「達者でな、嬢ちゃん」
「はい。ダリオさんも、お元気で」
「おう!」
いつもの豪快な声を聞くと、少し安心した。
*
最後にリタが近づいてきた。
「リシェ」
「はい」
目の前にしゃがみ、目線を合わせてくれる。
「フィエルの包帯、ちゃんと見てあげてね」
「はい。汚れたら取り替えて、腫れたり熱が出たりしたら、エルダさんのところに行きます」
「うん。よく覚えてるわね」
リタが微笑んだ。
「それから、採集の仕事も無理しすぎないこと。組合が許可していない場所には行っちゃ駄目よ」
「はい」
「知らない人についていかないこと」
「はい」
「夜は一人で出歩かないこと」
「はい!」
リシェが何度も頷くので、リタはとうとう笑い出した。
「もう。そんなに真剣な顔をしなくてもいいのよ」
つられて笑ったリシェの髪を、リタがそっと手を伸ばして整えた。
「元気でね」
その声は、いつもより少し優しかった。
リシェは唇を結んだ。胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……リタさん」
「なあに?」
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。
「フィエルのことも、私のことも、たくさん助けてくれて……」
言葉が途中で止まった。何を言えばいいのか、うまくわからなかった。込み上げてくるものがあって、唇を引き結んだ。
ありがとう。
その一言だけでは、足りない気がした。
リタは何も言わず、リシェが顔を上げるのを待っていた。
「私、皆さんに会えてよかったです」
ようやく言えた言葉だった。
一瞬目を丸くしたリタが、優しく微笑んだ。
「私もよ」
大きな手が、リシェの肩にそっと触れた。
「あなたに会えて、よかった」
*
出発の準備が整った。ハンスが御者台に乗り、ダリオが荷車の後ろを確かめる。リタも荷物を肩にかけた。
宿の入口から、マルタの声がかかる。
「道中、気をつけるんだよ!」
「ええ、お世話になりました!」
ハンスが答えると、ロッテがゆっくり歩き始めた。車輪が石畳の上で、ことことと音を立てる。
リシェはフィエルを抱えたまま、荷車を見送った。
「ハンスさん! ダリオさん! リタさん!」
三人が振り返る。
「ありがとうございました!」
大きく手を振ると、ハンスが笑顔で手を上げた。ダリオも片手を高く掲げ、リタは振り返りながら何度も手を振ってくれた。
荷車は少しずつ遠ざかり、角を曲がって通りの向こうへ消えていった。
しばらく、その場所に立っていた。
もう、荷車の音は聞こえない。いつの間にか、通りにはいつもの朝の賑わいが戻っていた。
商人たちの声。行き交う人々の足音。遠くから響く鐘の音。
街は何も変わらないように見える。でも、リシェの周りからは、大切な人たちがいなくなっていた。
「……行っちゃったね」
小さく呟くと、布袋の中でフィエルが鼻を鳴らした。その頭を撫でる。
「うん。寂しいね」
少しだけ目の奥が熱くなり、空を見上げた。
泣いてしまいそうだった。
でも、悲しいだけではなかった。
ハンスたちが、自分をここまで連れてきてくれた。だから今、自分はこの街に立っている。
小さく息を吸った。
「また会えるよね」
フィエルが琥珀色の瞳で見上げている。
「きっと会えるよね」
そう言って、リシェは微笑んだ。
*
「リシェ」
背後から声がした。振り返ると、マルタが宿の入口に立っていた。
「寒くないかい?」
「大丈夫です」
「そうかい」
マルタが隣へ歩いてきた。二人で、ハンスたちが去った通りを眺める。
「いい人たちだったねえ」
「はい。とても優しい人たちでした」
「そうだね」
少し黙ってから、マルタがリシェを見た。
「さて、あんたはどうする?」
顔を上げる。
「私ですか?」
「ああ。ハンスさんたちは旅立った。あんたはここに残るんだろう?」
リシェはゆっくり頷いた。
「はい」
「じゃあ今日からは本当に、あんた自身の暮らしが始まるね」
微笑むマルタの言葉を聞いて、宿屋ブランの看板を見上げた。
白い花の印。
初めてこの宿へ来たときは、何もかもが不安だった。知らない街。知らない宿。知らない人たち。
今は少し違う。
マルタの笑顔を知っている。宿の中の廊下も、食堂も、屋根裏部屋も知っている。組合へ行く道も、エルダの診療所へ行く道も覚えた。
まだ知らないことはたくさんある。でも、何も知らないわけではなくなった。
「はい」
しっかり頷いて、リシェは言った。
「私、ここで頑張ります」
マルタが満足そうに笑った。
「よし。じゃあ、まずは朝の片づけを手伝っておくれ」
「はい!」
元気よく返事をした。
*
宿の中へ戻ると、食堂には朝食の片づけが残っていた。フィエルを籠に寝かせ、布巾を手に取る。
卓を拭き、椅子を整える。使い終わった器を厨房へ運ぶ。
昨日までと同じ仕事だった。それでも今日は少し違う気がした。
ハンスたちはもういない。自分で考え、自分で働き、自分で暮らしていく。
窓の外を見ると、朝の光が石畳を明るく照らしていた。
知らない世界へ出てきてから、いろいろな人に出会った。その人たちは、リシェに少しずつ何かを残してくれた。
温かな食事。旅の道具。新しい知識。優しい言葉。
そして、自分にもできることがあるのだという、小さな自信。
布巾を握り直した。
「よし」
小さく呟いて、次の卓へ向かう。籠の中でフィエルが耳を動かすと、振り返って微笑んだ。
「今日も、一緒に頑張ろうね」
フィエルが小さく鼻を鳴らした。
オルテンの朝は今日も賑やかだった。
そして、リシェの新しい一日が始まった。




