第三十四話 本の香りがする店
朝の片づけが終わる頃には、宿屋ブランの食堂にも静けさが戻っていた。最後の卓を拭き終えたリシェは、使っていた布巾を厨房へ運んだ。
「マルタさん、終わりました」
「ありがとう。ずいぶん助かったよ」
洗い終えた器を棚へ戻しながら、マルタが笑った。
「今日はこのあと採集に行くのかい?」
「はい。組合で依頼を見てこようと思っています」
「そうかい。フィエルちゃんはどうする?」
食堂の隅に置いた籠を振り返ると、フィエルが柔らかな布の上で丸くなり、こちらを見つめていた。
「連れていきます。まだ一人にするのは心配なので」
「それなら無理に遠くまで行かないことだね」
「はい!」
マルタが頷いてから帳面を開いた。
「それと今朝の手伝いだけど、銅貨一枚分にしておくよ」
「一枚ですか?」
「ああ。昨日の宿代の残りがちょうど一枚だったね」
帳面に印がつけられる。
「これで昨夜の分は全部済んだよ」
「ありがとうございます!」
「お礼を言うのはこっちさ。ちゃんと働いてくれたんだからね」
嬉しくなったリシェは、覚え書きを取り出した。
『昨日の宿代 支払い終わり』
『今朝の仕事 銅貨一枚分』
書き終えてから、もう一度確かめる。手持ちのお金はまだない。今日の宿代もこれから用意しなければならない。
それでも昨日より少しだけ前に進めた気がした。
*
宿を出ると、オルテンの通りはすっかり賑わっていた。店先には色とりどりの布が並び、焼き菓子を売る屋台から甘い香りが漂ってくる。
フィエルを入れた布袋を抱え、人々の間をゆっくり歩いた。採集者組合へ向かう道はもう覚えている。初めて来たときは建物の大きさにも人の多さにも驚いたが、今日は少し落ち着いて周りを見ることができた。
組合の扉を開けると、受付にいたクララが顔を上げた。
「あら、リシェちゃん。おはよう」
「おはようございます」
「今日は依頼を探しに来たの?」
「はい。昨日はフィエルの診察があったので、今日はお仕事をしたいんです」
クララが布袋を覗き込む。
「フィエルちゃんの具合はどう?」
「少しずつよくなっているそうです」
「それはよかったわ」
微笑んで、クララは続けた。
「じゃあ今日は街の近くでできる仕事を探しましょうか」
*
依頼板には何枚もの紙が貼られていた。薬草の採集。木の実の収集。乾燥した枝の納品。
一枚ずつ文字を追っていくと、知らない植物の名前も多かった。その中に見覚えのある名前を見つけ、リシェは足を止めた。
「あ、青葉草」
隣からクララが覗き込む。
「また青葉草を採る?」
少し迷った。青葉草なら一度採集したことがある。葉の形も生えている場所も覚えている。でもほかの植物のことも知りたかった。
「ほかのお仕事も見てみたいです」
「いいわね。じゃあ、これはどうかしら」
クララが指さしたのは、小さな紙だった。
『日向草の採集』
リシェは声に出して読んだ。
「ひなたぐさ……」
「日当たりのいい場所に生える薬草よ。葉の縁が少し丸くて、茎には細かい毛があるの」
受付の棚から乾燥させた見本を取り出してもらうと、身を乗り出した。
「葉っぱが小さいんですね」
「そうね。似た草もあるから、見分けるときは葉のつき方も確認して」
見本をじっと観察する。向かい合うようについた二枚の葉。細い茎。指先ほどの小さな花の跡。
「図鑑で見たことがある気がします」
「あら、植物の図鑑を持っているの?」
「はい。古い本なんですけど」
クララが嬉しそうに笑った。
「本が好きなのね」
「はい!」
思わず大きく頷くと、依頼書を外しながらクララが言った。
「それなら、街の本屋さんにも行ってみるといいわ」
「本屋さんがあるんですか?」
「もちろん。中央広場から少し北へ行ったところに、小さなお店があるの」
リシェの瞳が輝いた。
「どんな本があるんでしょう」
「いろいろよ。旅の本も植物の本もあると思うわ」
知らない本が並ぶ店。その光景をしばらく思い描くと、胸が弾んだ。
「行ってみたいです」
クララが笑った。
「まずは今日の仕事を終えてからね」
「あ、はい!」
リシェも少し恥ずかしそうに笑った。
*
日向草は街の北側にある緩やかな丘で採れるという。危険な魔獣が出る場所ではなく、初心者でも立ち入れる採集区域だった。
組合でもらった簡単な地図を確かめながら歩く。街の建物が少なくなるにつれて、道の両側には草地が広がっていった。空は青く、風は穏やかだった。
丘の手前で足を止めた。
「フィエル、少しだけ待っててね」
布袋の中からフィエルが顔を上げる。リシェは日当たりのいい斜面へ目を向けた。背の低い草が一面に生えている。その中から目当ての植物を探すのは、思っていたより難しそうだった。
しゃがみ込み、一株ずつ葉を確かめていった。細長い葉。ぎざぎざした葉。丸い葉。似ているようでも、少しずつ違う。
「あ、これかな」
小さな草の前で手を止めた。葉は向かい合うようについていて、茎には細かな毛がある。クララに見せてもらった見本とよく似ていた。
覚え書きを取り出して簡単な絵を描き、それからもう一度葉の形を確かめた。
「うん。たぶん、これだ」
根を残すように気をつけながら、必要な分だけ茎を摘んだ。採った草は布で包み、ほかの植物と混ざらないようにする。
一株見つけると、近くにも同じ草が生えていることに気づいた。リシェは夢中になって探した。
*
しばらくして顔を上げると、太陽は少し高くなっていた。額の汗を拭ってから、布袋の中を覗く。
「そろそろ戻ろうか」
静かに休んでいたフィエルが、声に応じて耳を動かした。
「お待たせ」
袋を抱え直した。採集した日向草は、依頼に必要な量を満たしているはずだった。
帰り道では何度か立ち止まり、フィエルの様子を確かめた。怪我をした脚に負担がかからないよう、袋の中の布も整える。
街へ戻る頃には、お腹が小さく鳴った。
「あ……」
思わずお腹を押さえた。朝食を食べてから、ずいぶん歩いた。
「お腹空いちゃったね」
フィエルが鼻先を動かすと、リシェは笑って声をかけた。
「お仕事が終わったら宿に戻ろうね」
*
組合へ戻ると、クララが採集した草を確かめてくれた。
「うん。日向草で間違いないわ」
ほっと息を吐いた。
「よかったです」
「葉も傷んでいないし、量も十分ね」
草を束ね直し、クララが帳面に記録する。
「今回の報酬は銅貨三枚よ」
「三枚!」
驚いて顔を上げた。
「青葉草より一枚多いんですね」
「そうね。見分けるのが少し難しいから、その分だけ報酬も高いの」
目の前に並べられた銅貨を、一枚ずつ数えた。
一枚。二枚。三枚。
今日の宿代と同じ金額だった。
「ありがとうございます!」
大切に銅貨を受け取ると、クララが微笑んだ。
「初めての植物でも、ちゃんと見分けられたわね」
「見本を見せてもらえたので」
「それでも、実際に見つけるのは自分の力よ」
少し照れくさそうに笑ってから、ふと思い出して尋ねた。
「あの、クララさん」
「なあに?」
「さっき教えてもらった本屋さんは、まだ開いていますか?」
「ええ。夕方までは開いていると思うわ」
クララが窓の外を見た。
「今なら寄っていけるんじゃないかしら」
リシェは胸の前で両手を握った。
「行ってみます!」
*
中央広場から北へ伸びる通りは、商店の並ぶ賑やかな場所だった。布を売る店。陶器を並べた店。香辛料の匂いが漂う店。
一軒ずつ看板を確かめながら歩いていくと、やがて通りの端に小さな店を見つけた。
古びた木の扉。窓辺には数冊の本が飾られ、看板には開いた本の絵が描かれている。
「ここかな……」
足を止めた。窓の向こうには背の高い本棚が見える。色も大きさも違う本がぎっしり並ぶ光景に、思わず息を呑んだ。
こんなにたくさんの本を、一度に見たことがなかった。
孤児院にも本はあった。でも、そのほとんどは古い教本や傷んだ物語集だった。大切にしている『大陸の植物と魔獣』も、長い間誰にも読まれていなかった本だ。
目の前の店には、まだ知らない本がいくつもある。
しばらく窓の前に立ってから、そっと扉に手をかけた。
小さな鈴が鳴った。
*
店の中には紙と革と乾いた木の匂いが漂っていた。壁際には天井近くまで本棚が並び、中央の卓にも何冊もの本が積まれている。窓から差し込む光の中で、細かな埃がゆっくり舞っていた。
入口に立ったまま辺りを見回すと、思わず声が漏れた。
「わあ……」
物語の本。地図の本。料理の本。植物の絵が描かれた本。背表紙の文字を追うだけでも楽しかった。
「いらっしゃい」
奥から聞こえた声に振り返ると、帳面を広げた机の向こうに一人の男性が座っていた。年の頃は五十歳ほどだろうか。少し白いものが混じった髪に、細い縁の眼鏡。落ち着いた色の上着を着ている。
リシェを見て、少し驚いたように眉を上げた。
「おや。小さなお客さんだね」
「こんにちは」
慌てて頭を下げた。
「こんにちは。何か探している本があるのかな?」
少し考えてから答える。
「植物の本を見てみたいです」
「植物か」
男性が眼鏡の位置を直した。
「薬草の本? それとも植物全般について書かれた本かな?」
植物の本にも、いろいろな種類があるらしい。
「どちらも見てみたいです」
男性が楽しそうに笑った。
「なるほど。本が好きなんだね」
「はい! 知らない植物が、たくさんあるので」
「そうだね。この大陸には、まだ名前も知られていない植物があると言われているよ」
リシェの瞳が輝いた。
「名前のない植物もあるんですか?」
「ああ。もちろん」
男性が机から立ち上がった。
「私はオスカー。この店の主人だよ」
「リシェです」
「よろしく、リシェ」
店の奥へ歩き出したオスカーが、声をかける。
「さあ、こっちへおいで。植物の本なら、こちらの棚にあるよ」
フィエルの入った布袋を抱え直し、そのあとを追った。
*
案内された棚には、大小さまざまな本が並んでいた。一冊ずつ背表紙を眺める。
『身近な薬草』
『森と野原の植物』
『王国南部の草木』
『旅人のための植物案内』
知らない題名ばかりだった。
「これ、全部植物の本なんですか?」
「そうだよ。まだ奥にもあるけどね」
驚いて棚を見上げた。
「すごいです……」
オスカーが微笑んだ。
「手に取ってみてもいいよ。ただし、丁寧に扱っておくれ」
「はい!」
一番下の棚から、薄い本を取り出した。表紙には小さな白い花が描かれている。開くと、細かな文字と植物の絵が並んでいた。
リシェは夢中で読み始めた。葉の形。花の色。生える場所。季節による違い。どのページにも、知らないことが書かれている。
紙をめくる手を止めた。そこには、今日採集した日向草によく似た植物が描かれていた。
「あ……」
オスカーが振り返る。
「どうしたんだい?」
「今日この草に似た薬草を採ったんです」
絵を指さした。
「でも葉っぱのつき方が少し違います」
本を覗き込んだオスカーが言った。
「ほう。よく気づいたね」
もう一度絵を確かめる。
「こっちは葉っぱが交互についています。でも、日向草は向かい合っていました」
「そのとおり」
感心したように頷いて、オスカーが尋ねた。
「君は採集の仕事をしているのかな?」
「はい。まだ始めたばかりです」
「そうか。それなら本で覚えたことを、実際に確かめる機会も多いだろうね」
「はい。知らない草を見つけると、調べたくなるんです」
嬉しそうなリシェに、柔らかな笑みが向けられた。
「それはいいことだ」
*
しばらく本を眺めていた。
どれも読んでみたい。できることなら、一冊ずつ最初から最後まで読んでみたかった。
でも、今はお金を使うわけにはいかない。今日もらった銅貨三枚は、今夜の宿代に必要だった。
名残惜しそうに本を閉じた。
「ありがとうございました」
オスカーが顔を上げる。
「もういいのかい?」
「はい。今日は見るだけにします」
「そうかい」
本を元の場所へ戻した。その手つきは少しだけゆっくりだった。
オスカーはその様子を見ていたが、何も言わなかった。代わりに棚から一冊の薄い本を取り出した。
「リシェ」
「はい?」
「この店には、買わなくても読んでいい本が少しだけあるんだ」
「読んでもいいんですか?」
「ああ。店の中でならね。もちろん丁寧に扱ってもらう必要はあるけど」
オスカーが店の奥を指さした。窓際に小さな椅子が一つ置かれている。
「あそこで読んでくれて構わないよ」
しばらく椅子を見つめてから、オスカーを見上げた。
「本当にいいんですか?」
「もちろん。ただし、店が忙しいときは少し手伝ってもらうかもしれないね」
冗談めかした笑いに、リシェの顔がぱっと明るくなった。
「はい! お手伝いします!」
その勢いに、オスカーが声を上げて笑った。
「ははは。頼もしいね」
リシェも嬉しくなって笑った。
*
店を出る頃には、通りに午後の光が傾き始めていた。扉の前で振り返り、礼を言った。
「オスカーさん、ありがとうございました」
「こちらこそ。またおいで」
「はい!」
扉の鈴が小さく鳴った。外へ出ると、街の賑やかな声が戻ってきた。
布袋の中を覗く。
「フィエル、すごいお店だったね」
フィエルが眠たそうに目を開いた。
「本がいっぱいあったんだよ」
嬉しそうに笑って続ける。
「また行きたいな」
小さく鼻を鳴らすフィエルから、通りの向こうへ目を向けた。
今日も知らないことを一つ覚えた。日向草の見分け方。新しい採集の仕事。
そして、たくさんの本が並ぶ小さな店。
オルテンには、まだ知らない場所がたくさんある。
胸の中に広がる楽しさを感じながら、宿屋ブランへ向かって歩き出した。布袋の中では、フィエルが安心したように目を閉じていた。
街のどこかで鐘が鳴る。
リシェの小さな世界は、今日も少しだけ広がっていた。




