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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第三十五話 小さな暮らしの形


 宿屋ブランに戻る頃には、通りの石畳が夕日に染まり始めていた。白い花の看板を見上げ、リシェは小さく息を吐いた。


「ただいま戻りました」


 扉を開けると、厨房の方からマルタの声がした。


「おかえり、リシェ」


 夕食の支度をする音が響く食堂を通り、フィエルの入った布袋を抱えて厨房の入口へ向かった。


「今日はお仕事、できたかい?」

「はい! 日向草を採ってきました」

「日向草かい。初めて聞く名前だねえ」

「葉っぱが二枚ずつ向かい合っていて、茎に細かい毛があるんです」


 嬉しそうに説明するリシェに、マルタが鍋をかき混ぜながら笑った。


「なるほど。もう立派な採集者みたいだね」

「まだ知らないことばかりです」

「最初は誰だってそうさ」


 鍋の蓋を閉めてから、マルタが尋ねた。


「それで、報酬はもらえたのかい?」

「はい。銅貨三枚でした」


 布袋の小さな内ポケットから硬貨を取り出した。手のひらに並んだ三枚の銅貨。日向草を探して丘を歩き、クララに確かめてもらって受け取ったお金だった。


「今日の宿代を払いたいです」


 マルタが手を拭き、目の前にしゃがんだ。


「そうかい。じゃあ確かに受け取るよ」


 銅貨を一枚ずつ渡すと、マルタが帳面を開き、今日の日付の横に印をつけた。


「これで今夜の分も支払い済みだね」

「はい!」


 ほっとして笑みがこぼれた。手持ちのお金はまたなくなってしまった。でも、今日は自分で稼いだお金で眠る場所を用意できた。


 そのことが少し誇らしかった。


     *


「ところで、今日は採集のあと何をしていたんだい?」

「本屋さんに行ってきました!」

「本屋?」

「はい。クララさんに教えてもらったんです。中央広場の北にあるお店で、オスカーさんという人がいました」


 マルタが目を細めた。


「ああ、オスカーの店かい」

「知っているんですか?」

「もちろんさ。昔からあそこで本を売っている人だよ」


 嬉しくなって、リシェの声が弾む。


「すごくたくさん本がありました。植物の本も、地図の本も、物語の本も!」


 マルタが楽しそうに笑った。


「よっぽど気に入ったんだねえ」

「はい! 知らない植物のことがいっぱい書いてあって、ずっと読んでいたかったです」

「そうかい」

「それで、オスカーさんが店の中で読んでもいい本があるって教えてくれました」


 少し驚いた顔で、マルタが言った。


「へえ。あの人がそんなことを」

「はい。また来ていいって」


 嬉しそうに笑うリシェをしばらく見つめてから、穏やかに頷いた。


「それはよかったね」


     *


 夕食まで少し時間があったので、フィエルを連れて屋根裏部屋へ戻った。階段を一段ずつ上り、扉を開ける。


 小さな部屋には夕方の光が差し込んでいた。窓の向こうに並ぶ赤茶色の屋根が、柔らかな橙色に染まっている。


「帰ってきたよ、フィエル」


 寝台に毛布を広げ、フィエルをそっと下ろした。周囲を見回してから、いつもの場所で丸くなる姿を眺める。


 昨日から使い始めた部屋なのに、もう少しだけ馴染んだ場所に思えた。


 布袋から覚え書きを取り出し、今日の頁を開いた。


『宿の仕事 銅貨一枚分』

『昨日の宿代 支払い終わり』

『日向草の採集 銅貨三枚』

『今日の宿代 銅貨三枚』

『手持ちのお金 銅貨零枚』


 数字を一つずつ確かめる。ハンスに借りた七枚は、まだ残っている。フィエルの次の診察にも、お金が必要になるだろう。明日の宿代も用意しなくてはならない。


 鉛筆を持ったまま、少し考えた。


「毎日、お仕事をしないといけないね」


 フィエルの耳が動く。


「でも、ずっと採集に行っていたら、本を読む時間がなくなっちゃうかな」


 困ったような笑みが浮かんだ。仕事もしたい。でも本も読みたい。フィエルと一緒に街を歩いてみたい。


 やりたいことは、少しずつ増えている。


「どうしたらいいんだろう」


 寝台の上で身体を丸め、眠たそうに目を細めるフィエルを見て、リシェは微笑んだ。


「そうだね。まずは休まないとね」


     *


 夕食の時間になり、食堂へ下りた。今夜の料理は、野菜と豆を煮込んだ温かなスープだった。焼きたてのパンも添えられている。


 席について両手を合わせた。


「いただきます」


 スープを一口飲むと、柔らかく煮込まれた豆と野菜の甘みが広がった。


「おいしい……」


 思わず呟くと、マルタが笑った。


「今日はよく歩いたんだろう? しっかり食べな」

「はい!」


 食堂にはほかにも数人の客がいた。仕事帰りらしい男性たちが今日の出来事を話し、窓際では年配の夫婦が静かに食事をしている。誰もリシェを特別に気にする様子はなかった。


 最初は少し緊張していたこの食堂も、今は落ち着ける場所になりつつある。


 パンをちぎり、スープにつけた。温かな食事。眠る場所。今日一日を過ごしたという小さな満足感。


 それだけで、胸の奥が満たされるようだった。


     *


 食事を終え、器を厨房へ運んだ。


「ごちそうさまでした」

「はいよ。お粗末さま」


 器を受け取りながら、マルタが尋ねた。


「リシェ、明日はどうするつもりだい?」

「採集のお仕事を探そうと思っています」

「そうかい。毎日頑張るねえ」


 少し迷ってから、リシェは口を開いた。


「あの、マルタさん」

「なんだい?」

「お仕事をして、お金を貯めたいんです。でも、本も読みたくて……」


 マルタの手が止まった。


「本?」

「はい。今日の本屋さんに、まだ読みたい本がたくさんあったんです」


 少し俯いて続けた。


「でも、宿代も必要ですし、フィエルの治療費もあります」


 しばらく黙っていたマルタが、ふっと笑った。


「なるほどねえ」


 リシェは顔を上げた。


「やっぱり、お仕事を優先した方がいいですよね」

「そうだね。暮らしていくにはお金が必要だよ。でも、だからって好きなことを全部我慢する必要はないさ」

「そうなんですか?」

「もちろん。毎日働くだけじゃ、疲れちまうだろう?」


 厨房の棚から布を取り、マルタが手を拭いた。


「例えば午前中に仕事をして、午後は本を読みに行く日があってもいいんじゃないかい?」


 少し考える。


「午前中に、お仕事……」

「そうさ。毎日同じように過ごさなくてもいいんだよ」


 その言葉に驚いた。


 孤児院では毎日の仕事が決められていた。朝起きて、掃除をして、食事の支度を手伝う。空いた時間があればほかの仕事を頼まれる。自分で一日の予定を決めることは、ほとんどなかった。


「自分で決めてもいいんですね」


 マルタが不思議そうに首を傾げた。


「そりゃあ、そうさ。仕事の約束さえ守れば、空いた時間をどう使うかはあんたの自由だよ」


 その言葉をゆっくり受け止めた。


 自分で決める。


 簡単なことのようで、まだ少し慣れない。胸の奥がふわりと軽くなった。


「ありがとうございます」


 マルタが笑った。


「また何か困ったら聞きにおいで」


     *


 その夜、リシェは屋根裏部屋の机に向かっていた。窓の外にはオルテンの夜景が広がっている。遠くの建物から漏れる灯りが、暗い街並みに小さく浮かんでいた。


 覚え書きの新しい頁を開いた。


『明日やりたいこと』


 そう書いて、少し考える。


『採集者組合で仕事を探す』

『フィエルの様子を確かめる』

『時間があったら本屋さんへ行く』


 書き終えると嬉しくなった。誰かに決められた予定ではない。


 自分で考えた明日の予定だった。


「フィエル、見て」


 寝台で休んでいたフィエルが顔を上げる。


「明日はこうすることにしたよ」


 覚え書きを見せた。フィエルは文字を読むわけでもなく、ただリシェを見つめている。その様子がおかしくて、小さく笑った。


「本屋さんにも行けたらいいね」


 フィエルが鼻を鳴らした。覚え書きを閉じて寝台へ向かい、その隣に腰を下ろして柔らかな毛を撫でる。


 森を出たとき、リシェはただ遠くへ行きたいと思っていた。知らない世界を見てみたかった。


 今もその気持ちは変わらない。でも、旅を続けるためには食べることも眠ることも必要だ。


 お金を稼ぐこと。

 誰かに助けてもらうこと。

 自分の時間を決めること。


 そんな一つ一つも、知らなかった世界の一部なのかもしれない。


「少しずつ覚えていこうね」


 フィエルに囁くと、小さな魔獣は安心したように目を閉じた。


     *


 翌朝。


 屋根裏部屋の窓から、明るい光が差し込んでいた。寝台から起き上がり、リシェは大きく伸びをした。


「おはよう、フィエル」


 フィエルが耳を動かした。窓を開けると、朝の風が頬を撫でる。遠くから荷車の音が聞こえ、街が少しずつ動き始めていた。


 机の上に置いた覚え書きへ目を向けた。


 昨日、自分で決めた予定。


 その文字を眺めると、自然と笑みが浮かんだ。


「今日は、何が見つかるかな」


 フィエルが小さく鼻を鳴らすと、リシェは微笑んで窓の向こうへ目を向けた。


 新しい街での暮らしは、まだ始まったばかりだった。

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