↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/80

第三十六話 パンの香りと新しい友達


 朝の宿屋ブランには、焼きたてのパンの香りが漂っていた。リシェが階段を下りると、食堂の奥から食器の触れ合う音が聞こえてきた。


「おはよう、リシェ」

「おはようございます、マルタさん」


 厨房から顔を出したマルタが、いつものように明るく笑った。


「ちょうどよかった。朝ごはんの前に、少し手伝ってもらえるかい?」

「はい!」


 鞄を壁際に置き、袖をまくった。昨日、マルタと話してから、宿の仕事と採集の仕事をうまく組み合わせられないか考えていた。


 宿代を稼ぐためには、毎日少しずつでも働く必要がある。でも、働いてばかりでは本を読む時間がなくなってしまう。それは少し困ることだった。


「まずはこの布巾で食堂の机を拭いておくれ。終わったら椅子も並べてくれると助かるよ」

「わかりました」


 水を張った桶に布巾を浸して固く絞り、窓際の机から順番に拭いていく。朝日が差し込む食堂には、まだお客の姿は少ない。


 椅子を一脚ずつ整えながら、窓の外を眺めた。通りでは荷車を引く人や、籠を抱えた女の人たちが行き交っている。遠くからは店を開ける音も聞こえてきた。


 オルテンの朝は、いつも少し賑やかだ。


 カルンの孤児院にいた頃は、朝になると決まった時間に起こされ、決まった仕事をしていた。今も働いていることに変わりはない。それでも、自分で今日の予定を考えられることが、リシェには不思議だった。


「よいしょ……」


 最後の椅子を机の下に戻した、そのときだった。


 からん、と入口の鈴が鳴った。


「おはようございまーす!」


 元気な声が食堂いっぱいに響く。振り向くと、入口に女の子が立っていた。


 年はリシェと同じくらいだろうか。栗色の髪を後ろでひとつに結び、頬をほんのり赤くしている。両腕に抱えた大きな籠には白い布がかけられ、その隙間から温かなパンの香りが漂っていた。


「マルタおばさーん! パン持ってきたよ!」

「ああ、エマ。今日もありがとうね」


 厨房からマルタが顔を出す。


「今日はずいぶん早かったじゃないか」

「お父さんが早起きしたの! 新しいパンを焼くんだって。だから今日はあたしも早起き!」

「そうかい。籠はいつものところに置いておくれ」

「はーい!」


 エマと呼ばれた女の子は、慣れた様子で厨房へ向かいかけたが、途中で足を止めた。


「あれ?」


 その目が、食堂の隅に立つリシェを捉える。


「見ない顔!」


 思わず布巾を握りしめた。


「あ、えっと……」

「新しいお客さん?」


 大きな瞳を輝かせながら、エマが近づいてきた。


「わたし、リシェっていいます」

「リシェ! かわいい名前だね!」


 返事をする間もなく、にっこり笑って続ける。


「あたしはエマ! 十歳だよ!」

「わたしも十歳です」

「えっ、同い年?」


 エマの声が一段と明るくなった。


「やった! この辺は同い年の子があんまりいないんだよね!」


 同い年。


 その言葉が、なんだか少しくすぐったかった。孤児院にも同じくらいの年の子はいたが、こうして自分から話しかけてくれる子はあまりいなかった。


「リシェは旅行に来たの?」

「えっと……旅の途中で、しばらくここに泊まっています」

「旅!」


 感心したような声が上がる。


「すごい! どこから来たの?」

「カルンという町から……」

「カルン? 聞いたことある! でも行ったことないなあ」


 エマが籠を抱え直した。


「ねえ、旅って楽しい?」


 突然の質問に、少し考えた。


 森で道に迷いかけたこと。夜の暗さが怖かったこと。お腹が空いて眠れなかったこと。


 そして、フィエルに出会ったこと。


「大変なこともあります」

「そっかあ」

「でも、知らない植物を見つけたり、初めて見るものがあったりして……楽しいこともたくさんあります」


 そう答えると、エマが嬉しそうに笑った。


「いいなあ! あたしもいつか遠くに行ってみたい!」

「エマ、パンを置いてからおしゃべりしなさい」


 厨房からマルタの声が飛んできた。


「あっ、そうだった!」


 慌てて厨房へ駆けていく後ろ姿を見送り、リシェは小さく息をついた。


 嵐のような女の子だった。でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


     *


 食堂の準備が終わる頃、エマが再び厨房から現れた。今度は手ぶらで、さっきよりも身軽そうだった。


「リシェ、もう仕事終わり?」

「はい。今から朝ごはんを食べるところです」

「じゃあ一緒に座ってもいい?」

「えっ?」


 驚いていると、マルタが笑った。


「エマも少し休んでいきな。今朝のパンをひとつ食べていくといいよ」

「ほんと? やった!」


 迷わず向かいに座ったエマの前にも、マルタが温かいスープとパンを運んできた。リシェの皿には、こんがり焼けた丸いパンがひとつ。手に取ると、まだほんのり温かかった。


「これ、エマのおうちで作っているんですか?」

「うん! お父さんとお母さんが焼いてるの。あたしもたまに手伝うよ」

「すごいですね」

「でも、まだ形を作るのが下手なんだよね。丸くしたつもりなのに、焼くと変な形になるの」


 両手でいびつな丸を作ってみせる。


「この前なんて、お父さんに『これは何の生き物だ?』って聞かれちゃった!」


 リシェは思わず笑ってしまった。


「ふふっ」

「あ、笑った!」

「えっ?」

「リシェ、さっきからずっと緊張してたでしょ?」


 パンをちぎりながら、エマが言った。


「そんなにかしこまらなくてもいいよ。同い年なんだし!」

「……はい」

「ほら、また!」


 頬を膨らませて続ける。


「『はい』じゃなくて『うん』でいいの!」


 そんなふうに言われたことは、あまりなかった。困ったように瞬いてから、リシェは答えた。


「……うん」

「そうそう!」


 満足そうに頷くエマを見て、もう一度小さく笑った。


 パンをひと口かじる。表面は少し香ばしく、中は驚くほど柔らかい。


「おいしい……」

「でしょ!」


 自分が褒められたように、エマが胸を張った。


「うちのパン、おいしいんだよ!」


 それから二人は、パンの種類や好きな食べ物の話をした。エマは甘いものが大好きで、特に蜂蜜をたっぷり塗った焼き菓子が好きなのだという。リシェも、森で食べた木の実や、ガルドにもらった温かい食事のことを少しだけ話した。


「森でごはん食べたの?」

「うん」

「すごいなあ。あたし、森って街の近くしか行ったことないよ」

「ちょっと怖かったけど……きれいなところもあったよ」


 エマが興味津々で耳を傾けている。自分の話をこんなに楽しそうに聞いてもらえることが、少し不思議だった。


     *


 朝食を終えた頃、エマがふとリシェの鞄に目を留めた。


「あれ、その鞄……」

「?」

「何か動かなかった?」


 はっとして見ると、壁際に置いた鞄の口から銀白色の耳がひょこりと覗いていた。


「フィエル」


 名前を呼ぶと、琥珀色の瞳がこちらを向いた。フィエルはまだ後ろ脚を休ませているため、鞄の中に柔らかな布を敷いて過ごしている。リシェが近づくと、小さな鼻先が鞄の縁に乗った。


「えっ!」


 エマが目を丸くした。


「なに、この子!」

「フィエルっていうの」

「かわいい!」


 勢いよく立ち上がりかけたエマが、途中で動きを止めた。


「……あ、でも魔獣?」

「うん。森で怪我をしていたところを見つけたの」

「そっか。だから鞄に入ってるんだね」


 少し離れたところから、フィエルを見つめる。


「触っても大丈夫?」


 リシェはフィエルの顔を覗き込んだ。


「フィエル、どうかな?」


 エマをじっと見ていたフィエルが、やがて小さく鼻を鳴らした。


「嫌がってはいないみたい」

「ほんと? じゃあ、ちょっとだけ!」


 そっと伸ばしたエマの指先が、銀白色の毛に触れる。


「わあ……ふわふわ!」


 その顔がぱっと輝いた。


「こんなに柔らかいんだ!」


 フィエルは一度だけ耳を動かしたものの、逃げようとはしなかった。


「いいなあ、リシェ。魔獣と一緒に旅してるなんて!」

「エマは魔獣を飼ったことがあるの?」

「ないよ。うちはパン屋だし、魔獣と契約できる人もいないもん」

「契約……?」


 首を傾げるリシェに、エマが不思議そうな顔をした。


「うん。魔獣って契約してないと、街の結界を通れないでしょ?」

「結界?」

「街を守ってるやつだよ。ほら、街の外には魔獣もいるから」


 当たり前のことのように話が続く。


「だから、フィエルはリシェの従魔なんだと思ったんだけど」


 鞄の中のフィエルを見下ろした。


 従魔。


 聞いたことのある言葉ではあった。古い図鑑にも、魔獣を従える人々について書かれていた気がする。ただ、詳しい契約の方法までは覚えていない。


「わたし、契約のことはよく知らなくて……」

「えっ、そうなの?」

「うん。森で出会って、名前をつけたら……一緒にいてくれるようになったの」

「へえ……」


 少し考え込んでから、エマがあっさりと笑った。


「じゃあ、きっと特別な契約なんだね!」

「特別な……?」

「だって、ちゃんと街に入れたんだもん。結界は通れたんでしょ?」

「うん……」

「だったら大丈夫だよ!」


 自信たっぷりな返事を聞いて、リシェはもう一度フィエルを見た。そんな話など気にしていないように、鞄の縁に顎を乗せている。


 契約。


 名前をつけたことと、何か関係があるのだろうか。リシェにはよくわからなかった。


 あとで本屋に行ったとき、少し調べてみよう。


 そう思い、心の中の覚え書きにひとつ書き加えた。


     *


「そうだ、リシェ!」


 エマが突然、手を打った。


「今日の午後って暇?」

「午後?」

「うん! 街を案内してあげようかと思って!」


 驚いて顔を上げた。


「街を……?」

「せっかくオルテンに来たんでしょ? 市場とか広場とか、おいしいお菓子のお店とか!」


 指を折りながら数える。


「あと、古い庭園もあるんだよ。今はあんまり人が行かないけど、花が咲くときれいなの!」

「庭園……」


 リシェの目が少し輝いた。


「植物がたくさんあるの?」

「あるよ! 名前は全然わかんないけど」


 笑って、エマが尋ねた。


「リシェ、植物が好きなの?」

「うん。好き」


 今度は自然に答えられた。


「じゃあ決まり!」


 嬉しそうに身を乗り出して、エマが続ける。


「午後、またここに来るね!」

「あ……でも、わたし、仕事が……」


 言いかけて口を閉じた。宿の仕事は朝のうちに終わる。午後は採集に出ようと思っていたが、今日はまだ何も約束していない。


 それでも、仕事をせずに遊びに行っていいのだろうか。


 迷っていると、厨房からマルタの声がした。


「リシェ、午後は少し休んでおいで」

「でも、マルタさん……」

「毎日働いてばかりじゃ疲れちまうよ。せっかく同い年の友達ができたんだから」


 友達。


 その言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。エマがにこにことこちらを見ている。


「ね、行こうよ!」


 しばらく迷ってから、リシェは小さく頷いた。


「……うん。行きたい」

「やったあ!」


 両手を上げて喜んだエマが、立ち上がって入口へ駆けていく。


「じゃあ、お昼過ぎに迎えに来るね!」

「あっ、フィエルも一緒でいいからね!」

「うん!」

「またあとでー!」


 からん、と鈴が鳴った。


 エマが出ていったあとも、食堂には明るい声の余韻が残っているようだった。しばらく入口を見つめていると、マルタが笑いながら声をかけた。


「元気な子だろう?」

「はい」

「昔からあんな調子でね。街のことなら、あの子に聞くといいよ」


 鞄のそばにしゃがみ、フィエルの頭を優しく撫でた。


「フィエル」


 琥珀色の瞳が見上げてくる。


「わたし、友達ができたみたい」


 口にしてみると、なんだか嬉しくなった。


 午後には、エマと一緒に街を歩く。仕事でも買い物でも、誰かに頼まれた用事でもない。


 ただ一緒に出かけるために。


 そんな約束をしたのはいつ以来だろう。


 窓の外に目を向けると、オルテンの空は今日も明るく晴れていた。知らない街には、まだ知らない場所がたくさんある。


 そして今日、その場所を一緒に歩いてくれる人ができた。


 小さな笑みが浮かんだ。午後が来るのが、少し待ち遠しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。