第三十六話 パンの香りと新しい友達
朝の宿屋ブランには、焼きたてのパンの香りが漂っていた。リシェが階段を下りると、食堂の奥から食器の触れ合う音が聞こえてきた。
「おはよう、リシェ」
「おはようございます、マルタさん」
厨房から顔を出したマルタが、いつものように明るく笑った。
「ちょうどよかった。朝ごはんの前に、少し手伝ってもらえるかい?」
「はい!」
鞄を壁際に置き、袖をまくった。昨日、マルタと話してから、宿の仕事と採集の仕事をうまく組み合わせられないか考えていた。
宿代を稼ぐためには、毎日少しずつでも働く必要がある。でも、働いてばかりでは本を読む時間がなくなってしまう。それは少し困ることだった。
「まずはこの布巾で食堂の机を拭いておくれ。終わったら椅子も並べてくれると助かるよ」
「わかりました」
水を張った桶に布巾を浸して固く絞り、窓際の机から順番に拭いていく。朝日が差し込む食堂には、まだお客の姿は少ない。
椅子を一脚ずつ整えながら、窓の外を眺めた。通りでは荷車を引く人や、籠を抱えた女の人たちが行き交っている。遠くからは店を開ける音も聞こえてきた。
オルテンの朝は、いつも少し賑やかだ。
カルンの孤児院にいた頃は、朝になると決まった時間に起こされ、決まった仕事をしていた。今も働いていることに変わりはない。それでも、自分で今日の予定を考えられることが、リシェには不思議だった。
「よいしょ……」
最後の椅子を机の下に戻した、そのときだった。
からん、と入口の鈴が鳴った。
「おはようございまーす!」
元気な声が食堂いっぱいに響く。振り向くと、入口に女の子が立っていた。
年はリシェと同じくらいだろうか。栗色の髪を後ろでひとつに結び、頬をほんのり赤くしている。両腕に抱えた大きな籠には白い布がかけられ、その隙間から温かなパンの香りが漂っていた。
「マルタおばさーん! パン持ってきたよ!」
「ああ、エマ。今日もありがとうね」
厨房からマルタが顔を出す。
「今日はずいぶん早かったじゃないか」
「お父さんが早起きしたの! 新しいパンを焼くんだって。だから今日はあたしも早起き!」
「そうかい。籠はいつものところに置いておくれ」
「はーい!」
エマと呼ばれた女の子は、慣れた様子で厨房へ向かいかけたが、途中で足を止めた。
「あれ?」
その目が、食堂の隅に立つリシェを捉える。
「見ない顔!」
思わず布巾を握りしめた。
「あ、えっと……」
「新しいお客さん?」
大きな瞳を輝かせながら、エマが近づいてきた。
「わたし、リシェっていいます」
「リシェ! かわいい名前だね!」
返事をする間もなく、にっこり笑って続ける。
「あたしはエマ! 十歳だよ!」
「わたしも十歳です」
「えっ、同い年?」
エマの声が一段と明るくなった。
「やった! この辺は同い年の子があんまりいないんだよね!」
同い年。
その言葉が、なんだか少しくすぐったかった。孤児院にも同じくらいの年の子はいたが、こうして自分から話しかけてくれる子はあまりいなかった。
「リシェは旅行に来たの?」
「えっと……旅の途中で、しばらくここに泊まっています」
「旅!」
感心したような声が上がる。
「すごい! どこから来たの?」
「カルンという町から……」
「カルン? 聞いたことある! でも行ったことないなあ」
エマが籠を抱え直した。
「ねえ、旅って楽しい?」
突然の質問に、少し考えた。
森で道に迷いかけたこと。夜の暗さが怖かったこと。お腹が空いて眠れなかったこと。
そして、フィエルに出会ったこと。
「大変なこともあります」
「そっかあ」
「でも、知らない植物を見つけたり、初めて見るものがあったりして……楽しいこともたくさんあります」
そう答えると、エマが嬉しそうに笑った。
「いいなあ! あたしもいつか遠くに行ってみたい!」
「エマ、パンを置いてからおしゃべりしなさい」
厨房からマルタの声が飛んできた。
「あっ、そうだった!」
慌てて厨房へ駆けていく後ろ姿を見送り、リシェは小さく息をついた。
嵐のような女の子だった。でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
*
食堂の準備が終わる頃、エマが再び厨房から現れた。今度は手ぶらで、さっきよりも身軽そうだった。
「リシェ、もう仕事終わり?」
「はい。今から朝ごはんを食べるところです」
「じゃあ一緒に座ってもいい?」
「えっ?」
驚いていると、マルタが笑った。
「エマも少し休んでいきな。今朝のパンをひとつ食べていくといいよ」
「ほんと? やった!」
迷わず向かいに座ったエマの前にも、マルタが温かいスープとパンを運んできた。リシェの皿には、こんがり焼けた丸いパンがひとつ。手に取ると、まだほんのり温かかった。
「これ、エマのおうちで作っているんですか?」
「うん! お父さんとお母さんが焼いてるの。あたしもたまに手伝うよ」
「すごいですね」
「でも、まだ形を作るのが下手なんだよね。丸くしたつもりなのに、焼くと変な形になるの」
両手でいびつな丸を作ってみせる。
「この前なんて、お父さんに『これは何の生き物だ?』って聞かれちゃった!」
リシェは思わず笑ってしまった。
「ふふっ」
「あ、笑った!」
「えっ?」
「リシェ、さっきからずっと緊張してたでしょ?」
パンをちぎりながら、エマが言った。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。同い年なんだし!」
「……はい」
「ほら、また!」
頬を膨らませて続ける。
「『はい』じゃなくて『うん』でいいの!」
そんなふうに言われたことは、あまりなかった。困ったように瞬いてから、リシェは答えた。
「……うん」
「そうそう!」
満足そうに頷くエマを見て、もう一度小さく笑った。
パンをひと口かじる。表面は少し香ばしく、中は驚くほど柔らかい。
「おいしい……」
「でしょ!」
自分が褒められたように、エマが胸を張った。
「うちのパン、おいしいんだよ!」
それから二人は、パンの種類や好きな食べ物の話をした。エマは甘いものが大好きで、特に蜂蜜をたっぷり塗った焼き菓子が好きなのだという。リシェも、森で食べた木の実や、ガルドにもらった温かい食事のことを少しだけ話した。
「森でごはん食べたの?」
「うん」
「すごいなあ。あたし、森って街の近くしか行ったことないよ」
「ちょっと怖かったけど……きれいなところもあったよ」
エマが興味津々で耳を傾けている。自分の話をこんなに楽しそうに聞いてもらえることが、少し不思議だった。
*
朝食を終えた頃、エマがふとリシェの鞄に目を留めた。
「あれ、その鞄……」
「?」
「何か動かなかった?」
はっとして見ると、壁際に置いた鞄の口から銀白色の耳がひょこりと覗いていた。
「フィエル」
名前を呼ぶと、琥珀色の瞳がこちらを向いた。フィエルはまだ後ろ脚を休ませているため、鞄の中に柔らかな布を敷いて過ごしている。リシェが近づくと、小さな鼻先が鞄の縁に乗った。
「えっ!」
エマが目を丸くした。
「なに、この子!」
「フィエルっていうの」
「かわいい!」
勢いよく立ち上がりかけたエマが、途中で動きを止めた。
「……あ、でも魔獣?」
「うん。森で怪我をしていたところを見つけたの」
「そっか。だから鞄に入ってるんだね」
少し離れたところから、フィエルを見つめる。
「触っても大丈夫?」
リシェはフィエルの顔を覗き込んだ。
「フィエル、どうかな?」
エマをじっと見ていたフィエルが、やがて小さく鼻を鳴らした。
「嫌がってはいないみたい」
「ほんと? じゃあ、ちょっとだけ!」
そっと伸ばしたエマの指先が、銀白色の毛に触れる。
「わあ……ふわふわ!」
その顔がぱっと輝いた。
「こんなに柔らかいんだ!」
フィエルは一度だけ耳を動かしたものの、逃げようとはしなかった。
「いいなあ、リシェ。魔獣と一緒に旅してるなんて!」
「エマは魔獣を飼ったことがあるの?」
「ないよ。うちはパン屋だし、魔獣と契約できる人もいないもん」
「契約……?」
首を傾げるリシェに、エマが不思議そうな顔をした。
「うん。魔獣って契約してないと、街の結界を通れないでしょ?」
「結界?」
「街を守ってるやつだよ。ほら、街の外には魔獣もいるから」
当たり前のことのように話が続く。
「だから、フィエルはリシェの従魔なんだと思ったんだけど」
鞄の中のフィエルを見下ろした。
従魔。
聞いたことのある言葉ではあった。古い図鑑にも、魔獣を従える人々について書かれていた気がする。ただ、詳しい契約の方法までは覚えていない。
「わたし、契約のことはよく知らなくて……」
「えっ、そうなの?」
「うん。森で出会って、名前をつけたら……一緒にいてくれるようになったの」
「へえ……」
少し考え込んでから、エマがあっさりと笑った。
「じゃあ、きっと特別な契約なんだね!」
「特別な……?」
「だって、ちゃんと街に入れたんだもん。結界は通れたんでしょ?」
「うん……」
「だったら大丈夫だよ!」
自信たっぷりな返事を聞いて、リシェはもう一度フィエルを見た。そんな話など気にしていないように、鞄の縁に顎を乗せている。
契約。
名前をつけたことと、何か関係があるのだろうか。リシェにはよくわからなかった。
あとで本屋に行ったとき、少し調べてみよう。
そう思い、心の中の覚え書きにひとつ書き加えた。
*
「そうだ、リシェ!」
エマが突然、手を打った。
「今日の午後って暇?」
「午後?」
「うん! 街を案内してあげようかと思って!」
驚いて顔を上げた。
「街を……?」
「せっかくオルテンに来たんでしょ? 市場とか広場とか、おいしいお菓子のお店とか!」
指を折りながら数える。
「あと、古い庭園もあるんだよ。今はあんまり人が行かないけど、花が咲くときれいなの!」
「庭園……」
リシェの目が少し輝いた。
「植物がたくさんあるの?」
「あるよ! 名前は全然わかんないけど」
笑って、エマが尋ねた。
「リシェ、植物が好きなの?」
「うん。好き」
今度は自然に答えられた。
「じゃあ決まり!」
嬉しそうに身を乗り出して、エマが続ける。
「午後、またここに来るね!」
「あ……でも、わたし、仕事が……」
言いかけて口を閉じた。宿の仕事は朝のうちに終わる。午後は採集に出ようと思っていたが、今日はまだ何も約束していない。
それでも、仕事をせずに遊びに行っていいのだろうか。
迷っていると、厨房からマルタの声がした。
「リシェ、午後は少し休んでおいで」
「でも、マルタさん……」
「毎日働いてばかりじゃ疲れちまうよ。せっかく同い年の友達ができたんだから」
友達。
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。エマがにこにことこちらを見ている。
「ね、行こうよ!」
しばらく迷ってから、リシェは小さく頷いた。
「……うん。行きたい」
「やったあ!」
両手を上げて喜んだエマが、立ち上がって入口へ駆けていく。
「じゃあ、お昼過ぎに迎えに来るね!」
「あっ、フィエルも一緒でいいからね!」
「うん!」
「またあとでー!」
からん、と鈴が鳴った。
エマが出ていったあとも、食堂には明るい声の余韻が残っているようだった。しばらく入口を見つめていると、マルタが笑いながら声をかけた。
「元気な子だろう?」
「はい」
「昔からあんな調子でね。街のことなら、あの子に聞くといいよ」
鞄のそばにしゃがみ、フィエルの頭を優しく撫でた。
「フィエル」
琥珀色の瞳が見上げてくる。
「わたし、友達ができたみたい」
口にしてみると、なんだか嬉しくなった。
午後には、エマと一緒に街を歩く。仕事でも買い物でも、誰かに頼まれた用事でもない。
ただ一緒に出かけるために。
そんな約束をしたのはいつ以来だろう。
窓の外に目を向けると、オルテンの空は今日も明るく晴れていた。知らない街には、まだ知らない場所がたくさんある。
そして今日、その場所を一緒に歩いてくれる人ができた。
小さな笑みが浮かんだ。午後が来るのが、少し待ち遠しかった。




