第三十七話 二人で歩く街
昼を少し過ぎた頃、宿屋ブランの入口で鈴が鳴った。
「リシェー! 迎えに来たよ!」
聞き覚えのある明るい声に、リシェは顔を上げた。食堂の机を拭き終え、使っていた布巾を片づけたところだった。
「エマ!」
「準備できてる?」
「うん。ちょっと待ってね」
壁際に置いていた鞄を持ち上げた。中には柔らかな布を敷き、フィエルが楽な姿勢で休めるようにしてある。怪我をした後ろ脚に負担がかからないよう、底には畳んだ布も重ねていた。
「フィエル、行こうね」
声をかけると、銀白色の耳がぴくりと動き、琥珀色の瞳がリシェを見上げた。
「かわいい!」
鞄を覗き込んだエマが、嬉しそうに笑った。
「ねえ、マルタおばさん! リシェを借りていくね!」
「はいはい。あんまり遠くまで連れ回すんじゃないよ」
厨房からマルタの声が返ってきた。
「わかってるって!」
「それから、フィエルの脚にも気をつけておくれ」
「はーい!」
元気よく返事をして、エマがリシェの方へ振り向く。
「じゃあ、行こ!」
「うん!」
鞄を肩にかけ直し、エマと並んで宿を出た。
*
昼下がりのオルテンは、朝とはまた違った賑わいを見せていた。石畳の通りには荷車が行き交い、店先には色とりどりの商品が並んでいる。
焼きたてのパンの香り。香辛料の少し刺激的な匂い。遠くから聞こえる商人たちの呼び声。
思わず辺りを見回すリシェに、エマが先を指さした。
「まずは中央広場に行こう!」
「広場?」
「うん! オルテンで一番賑やかなところ。お店もいっぱいあるんだよ」
歩きながら、次々と街のことを教えてくれる。赤い屋根の建物は仕立て屋。その向かいにあるのは靴屋。通りの角には、季節の果物を売る小さな店がある。
「あそこのおばさんね、たまに傷のついた果物を安くしてくれるの!」
「そうなんだ」
「でもいつもあるわけじゃないから、見つけたら早い者勝ち!」
得意げに笑うエマの話を聞きながら、目に入ったものを一つずつ覚えようとした。
知らない店。知らない食べ物。知らない人々の暮らし。
今までは、必要なものを買ったり仕事を探したりするために街を歩いていた。こうして誰かと一緒に、ただ見て回るのは初めてだった。
「リシェ、こっち!」
手招きするエマの先には、大きな噴水のある広場が広がっていた。中央にある石造りの噴水が水を汲み上げ、その周囲にはいくつもの露店が並んでいる。
色鮮やかな布。木彫りの小物。花を束ねた飾り。見たことのない形の焼き菓子まであった。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
「すごいでしょ!」
「うん。こんなにたくさん……」
「今日はまだ普通の日だからね。花灯りの市の日はもっとすごいんだよ!」
「花灯りの市?」
「うん! もう少ししたら開かれるお祭りなの。夜になると、街中に花の形の灯りが飾られるんだよ」
エマが両手を広げた。
「広場も通りも、きらきらになるの!」
「きれいそう」
「すっごくきれいだよ! それに、お祭りのときだけ売ってるお菓子もあるんだ」
そこまで言って、少し真剣な顔になる。
「去年食べた蜂蜜の焼き菓子、ほんとにおいしかったんだから!」
リシェは思わず笑った。
「エマはお菓子が好きなんだね」
「大好き!」
迷いのない返事だった。
「リシェは? 何が好き?」
「えっと……」
少し考えた。甘いものを食べる機会は、これまであまりなかった。孤児院では食事を残さず食べることが大切で、好き嫌いを考える余裕もなかった。
「……甘い木の実とか、好きかな」
「木の実?」
「うん。森で見つけたの。小さくて、赤くて……」
「へえ! どんな味?」
「ちょっと酸っぱいけど、甘いの」
「食べてみたい!」
エマの目が輝いた。
「今度見つけたら教えてね!」
「うん」
自然に頷いた。
いつか一緒に食べられたらいいな。
そう思ったことが、少し嬉しかった。
*
広場を一周したあと、エマに細い通りへ案内された。
「次は、うちのお店!」
「エマのおうち?」
「そう! さっき話したパン屋だよ。お母さんもいると思う!」
通りを曲がると、香ばしい匂いが風に乗って届いた。その先に、木の看板を掲げた小さな店が見えてくる。看板には丸いパンと麦の穂が描かれていた。
「ここ!」
エマが勢いよく扉を開けた。
「ただいまー!」
店内には焼きたてのパンが並んでいた。丸いパンや細長いパン。表面に切れ目の入ったものや、木の実が練り込まれたものもある。
奥から柔らかな声が聞こえてきた。
「おかえり、エマ。ずいぶん早かったのね」
姿を現したのは、栗色の髪を後ろでまとめた女の人だった。エマとよく似た目元をしている。
「あら、お友達?」
「うん! リシェっていうの。宿屋ブランに泊まってるんだよ!」
嬉しそうに紹介してから、エマがリシェに言った。
「リシェ、こっちはお母さん!」
「はじめまして。リシェです」
慌てて頭を下げた。
「まあ丁寧な子ね。私はアンナよ。よろしくね、リシェちゃん」
優しく微笑んで、アンナが尋ねる。
「エマと同じくらいの年かしら?」
「はい。十歳です」
「あら、同い年なのね」
少し驚いたような視線が、リシェの小さな体に向けられた。だが、すぐに穏やかな笑顔に戻った。
「エマが新しいお友達を連れてくるなんて、嬉しいわ」
「リシェ、旅をしてるんだよ!」
誇らしげなエマの言葉に、アンナが聞き返す。
「旅?」
「うん。カルンから来たんだって!」
アンナがリシェを見た。
「そうなの。ご家族と一緒に?」
小さく首を振った。
「一人で来ました」
「一人?」
アンナの表情に驚きが浮かぶ。
「お父さんやお母さんは?」
「わたし、家族がいないんです」
視線を落とした。孤児院のことを詳しく話すつもりはなかった。でも、嘘をつくこともできなかった。
「今は、フィエルと一緒に旅をしています」
肩にかけた鞄を少し持ち上げると、銀白色の耳が覗いた。
「あら……かわいい子ね」
驚きながらも、フィエルを見てアンナが微笑んだ。
「怪我をしているので、今は歩かせないようにしているんです」
「そうだったのね」
少し考えるように黙ってから、アンナが確かめる。
「宿屋ブランに泊まっているのよね?」
「はい。マルタさんにお世話になっています」
「そう。マルタさんのところなら安心ね」
ほっとしたように息をつき、それからリシェの目を見て言った。
「でも、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってね。エマのお友達なんだから」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げた。アンナはそれ以上、家族のことを尋ねなかった。そのことが、リシェにはありがたかった。
*
「そうだ、お母さん!」
エマが突然声を上げた。
「リシェに、あのパン見せてあげて!」
「あのパン?」
「ほら、朝お父さんが作ってたやつ!」
「ああ、木の実のパンね」
笑いながら棚の奥から取り出された小さなパンには、細かな木の実が散りばめられていた。
「今日は試しに焼いたものなの。まだ売り物にはしていないんだけど」
「おいしそう……」
「でしょ!」
リシェの呟きに、エマが得意げに笑った。アンナがパンを小さく切り分ける。
「よかったら、味見してくれる?」
「えっ、でも……」
「試作品だから、感想を聞かせてもらえると助かるの」
少し迷ってから、差し出された一切れを受け取った。
「ありがとうございます」
口に運ぶと、香ばしい木の実の風味が広がった。噛むほどに、ほんのり甘い。
「おいしいです」
「本当?」
「はい。木の実の香りがして……少し甘くて」
アンナが嬉しそうに笑った。
「よかった。エマは何でもおいしいって言うから、あまり参考にならなくて」
「えー! ちゃんとおいしいものをおいしいって言ってるのに!」
頬を膨らませるエマの様子がおかしくて、リシェはまた笑ってしまった。店の中に、三人の笑い声が重なった。
そんな二人を眺めていたアンナが、ふとリシェの服に目を留めた。何度も繕われた袖口。擦り切れた裾。小さな体には少し大きいのに、布地そのものはずいぶん古びている。
だが、何も言わなかった。ただ、何かを思い出したように、少しだけ考え込んでいた。
*
パン屋を出たあと、エマが再びリシェを街へ連れ出した。
「次はね、ちょっと静かなところに行こう!」
「静かなところ?」
「うん。広場とは反対側にあるんだけど、あたしのお気に入りなの」
二人で人通りの少ない道を歩いた。石造りの家々の間には、小さな花壇が作られている。窓辺には鉢植えが並び、細い蔓植物が壁を這っていた。
その一つひとつに目を留めた。
「あ、この花……」
「知ってるの?」
「うん。日当たりのいい場所に咲く花で、葉っぱを乾かすといい香りがするの」
「へえ!」
感心したように、エマが言った。
「リシェって植物に詳しいんだね!」
「本で読んだだけだけど」
「それでもすごいよ!」
あっさりと言われ、少し照れくさくなった。
やがて通りの先に、蔓が絡まり、ところどころに苔の生えた古い石壁が見えてきた。その向こうには、背の高い木々が見える。
「ここ?」
「うん。この奥に、昔の庭園があるんだって」
石壁の向こうを指さして、エマが続けた。
「今はあんまり使われてないけど、昔は薬草を育ててたらしいよ」
「薬草……?」
思わず壁に近づいた。隙間から緑の葉が覗いている。見慣れたものもあれば、知らない形のものもあった。
「中に入れるの?」
「普段は門が閉まってるんだけど、管理してるおじいさんがいるんだ。お願いしたら見せてもらえるかも!」
石壁の向こうを見つめた。
古い薬草庭園。そこには、どんな植物があるのだろう。
「見てみたい」
小さく呟くと、エマが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度一緒に行こう!」
「うん!」
知らない場所を見つけることが、こんなに楽しいなんて。そして、その楽しみを誰かと分け合えることが、こんなに嬉しいなんて。
胸の奥が温かくなるのを感じた。
*
夕方、宿屋ブランに戻ると、マルタが食堂で夕食の準備をしていた。
「おかえり、リシェ。楽しかったかい?」
「はい!」
思わず大きな声で答え、自分でも少し驚いてしまった。そんなリシェを見て、マルタが嬉しそうに笑う。
「それはよかったね」
鞄をそっと下ろした。フィエルは途中から眠っていたようで、柔らかな布の上で丸くなっている。
「フィエルも、お疲れさま」
小さな耳がぴくりと動いた。優しく撫でてから、マルタに尋ねる。
「あの……今日は、湯浴み場を使ってもいいですか?」
「もちろんさ。ちょうどお湯を用意したところだよ」
「ありがとうございます」
夕食まで少し時間があったので、部屋に戻って着替えを用意した。
オルテンに来てからは、毎晩水で顔や手足を洗い、濡らした布で体を拭いていた。宿に着いた最初の夜には、マルタが温かい湯を使わせてくれた。でも、髪までゆっくり洗うのは久しぶりだった。
湯浴み場には木の桶と小さな腰掛けがあり、壁際には清潔な布が畳まれている。
温かい湯を少しずつ使い、丁寧に体を洗った。それから腰まで伸びた亜麻色の髪を濡らし、時間をかけて洗っていく。絡まった毛先をほどくのは大変だったが、洗い終えると頭が軽くなったような気がした。
「気持ちいい」
思わず呟いた。
温かいお湯を使えること。
清潔な布で体を拭けること。
安心して身支度ができること。
どれも、森を歩いていた頃には簡単にできなかったことだった。
*
湯浴みを終え、濡れた髪を布で包みながら廊下へ出た。部屋に戻って、もう少し水気を拭き取ろうと思っていた。
「おや、リシェ」
通りかかったマルタが足を止めた。
「まだ髪が濡れているじゃないか。どうしたんだい?」
「えっと……部屋でもう少し拭こうと思って」
少し不思議そうに首を傾げる。
「風の魔法は使わないのかい?」
リシェは手に持った布をぎゅっと握った。
「わたし、魔法が使えないんです」
「ああ、そうだったのかい。それなら乾かしてあげようか。そんなに長い髪じゃ、布だけでは大変だろう」
「でも、お仕事が……」
「これくらい、すぐに終わるさ」
マルタが近くの椅子を引き寄せた。
「ほら、座ってごらん」
少しためらってから、椅子に腰を下ろした。
「熱かったら言うんだよ」
「はい」
マルタが手をかざすと、柔らかな温風が生まれた。濡れた亜麻色の髪が、ふわりと揺れる。
「あったかい」
「ふふ。気持ちいいだろう?」
小さく頷いた。温かな風が髪の間を通り抜けていく。
孤児院にいた頃は、洗った髪を布で何度も拭き、乾くまで待つのが当たり前だった。誰かがこうして髪を乾かしてくれることなど、ほとんどなかった。
「魔法が使えないなら、これからは遠慮なく言っておくれ」
「……いいんですか?」
「もちろんさ。あたしにとっては大した手間じゃないからね」
膝の上で布を握り直した。
「ありがとうございます、マルタさん」
「どういたしまして」
やがて髪が乾くと、マルタが毛先をそっと指で梳いた。
「それにしても、ずいぶん絡まっているねえ。今度、櫛で整えてあげようか」
「はい」
リシェの顔に、少し照れくさそうな笑みが浮かんだ。
*
その夜。
小さな机に向かい、覚え書きを開いた。今日見た花。中央広場の噴水。花灯りの市。古い薬草庭園。
書きたいことがたくさんあった。
一つずつ、忘れないように書き留めていく。そして最後に、少し迷ってから短い一文を書き加えた。
『エマと友達になった。』
文字を見つめると、自然に頬が緩んだ。ベッドの上では、フィエルが静かに眠っている。
「ねえ、フィエル」
小さな声で話しかけた。
「今日は、楽しかったね」
フィエルの耳がぴくりと動く。
「明日も、いい日になるといいな」
窓の外には、オルテンの穏やかな夜が広がっていた。覚え書きを閉じ、灯りを消した。
明日もまた、この街で新しい何かに出会えるかもしれない。
そう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。




