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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第三十八話 古い庭園と本の向こう


 エマと街を歩いた翌日、宿屋ブランに思いがけないお客さんがやって来た。


「こんにちは、リシェちゃん」


 入口に立っていたのは、エマの母親のアンナだった。隣にはエマもいて、何やら嬉しそうに笑っている。


「こんにちは。アンナさん、エマ」


 頭を下げると、アンナが腕に抱えていた包みを見せた。


「昨日、エマと話していて思い出したものがあるの。ちょっと見てもらってもいいかしら?」

「わたしにですか?」

「ええ」


 包みの中から現れたのは、丁寧に畳まれた服だった。生成り色のブラウスに、落ち着いた青色のワンピース。それから、靴下が二足。


「これ、エマが小さい頃に着ていたものなの。もう着られなくなったけど、まだ十分使えるから取っておいたのよ。よかったら、リシェちゃんに使ってもらえないかと思って」

「えっ……」


 思いがけない言葉に、服とアンナの顔を交互に見つめた。


「でも、こんなにきれいな服……」

「しまっておくだけじゃ、もったいないでしょう?」


 優しく笑って、アンナが続ける。


「誰かが着てくれた方が、服だって嬉しいと思うの」

「それね、あたしのお気に入りだったんだよ!」


 横からエマが顔を覗かせた。


「リシェが着てくれたら嬉しいな!」


 もう一度、服に目を落とした。袖口には小さな花の刺繍が施され、何度も洗われた柔らかな布からは、ほのかに石鹸の香りがした。


 自分のために、わざわざ持ってきてくれた。


 そのことが何より嬉しかった。


「ありがとうございます。大切に着ます」


 両手で受け取ると、アンナが嬉しそうに微笑んだ。


「よかった。よかったら、着てみてくれる?」

「はい!」


     *


 部屋に戻り、新しい服に袖を通した。生成り色のブラウスは少しゆとりがあったが、青いワンピースを重ねると、ちょうどよく収まった。丈も、くるぶしより少し上で動きやすい。


 裾をそっとつまむと、柔らかな布が指の間で揺れた。部屋には鏡がなかったので、自分の姿を確かめることはできなかった。


「変じゃないかな」


 ベッドの上のフィエルに尋ねると、顔を上げて琥珀色の瞳で見つめ、小さく尻尾を揺らしてくれた。


「ふふ。ありがとう」


 笑って部屋を出た。階段を下りると、エマが真っ先に振り向いた。


「わあ!」


 大きな声が食堂に響く。


「すっごく似合ってる!」

「ほ、本当?」

「本当! ねえ、お母さん! ぴったりだよ!」

「そうね。少し丈を直した方がいいかと思ったけど、そのままでよさそう」


 アンナも嬉しそうだった。腕を組んで目を細めていたマルタが言った。


「髪も整えたら、もっと素敵になりそうだねえ」


 その言葉に、昨夜のことを思い出した。湯浴みのあと、マルタが生活魔法で髪を乾かしてくれたこと。今度、櫛で整えてあげると言ってくれたこと。


「あの……マルタさん」

「ん?」

「昨日のお話、お願いしてもいいですか?」

「もちろんさ。ちょうど今なら手が空いているよ」


 棚から木の櫛を取り出したマルタが、窓際に椅子を置いて座らせてくれた。


「痛かったら言うんだよ」

「はい」


 髪をいくつかに分け、毛先から丁寧に櫛を通してくれる。絡まったところは無理に引っ張らず、指先で少しずつほどいてくれた。


「ずいぶん長く伸ばしているんだねえ」

「……切る機会がなくて」

「そうかい。でも、きれいな色をしているよ」


 膝の上で手を重ねた。自分の髪を褒められることには、まだ慣れていなかった。


 やがて髪を後ろにまとめ、細い紐で緩く結んでもらった。


「ほら、できた」


 振り向くと、エマが目を輝かせた。


「かわいい!」

「ありがとう」


 頬が赤くなる。アンナも嬉しそうに頷いた。


「とても似合っているわ」


 結んだ髪にそっと触れた。首の後ろが少し軽い。それだけで、いつもと違う自分になったような気がした。


     *


 それからの数日、リシェの暮らしには小さな変化が増えていった。


 朝は宿の手伝いをし、時間が合えば採集者ギルドへ向かう。ベルトに教わった安全な場所で薬草を集め、持ち帰ったものをクララに確認してもらう。初めのうちは葉の傷みや採り方を注意されることもあったが、少しずつ持ち込める量が増えてきた。


 宿の手伝いで受け取る宿代の割引と、採集の報酬。大きな稼ぎではない。それでも、自分の働いた分で宿に泊まれることが嬉しかった。


 夕方にはフィエルの脚の様子を確かめ、汚れた布を替える。エルダに教わったとおり、まだ無理に歩かせることはしなかった。


 時折、鞄の外へ出たそうに鼻先を伸ばすフィエルも、リシェが声をかけるとおとなしく座り直した。


「もう少しだからね」


 そう言って撫でると、琥珀色の瞳がじっとこちらを見つめた。


 そして、オルテンに着いて九日目の朝。


 フィエルを連れて、南通りのエルダの診療所を訪れた。


     *


「うん。ずいぶんよくなっているね」


 後ろ脚を確かめながら、エルダが穏やかに言った。傷の周囲の赤みはほとんど消え、表面もきれいに塞がり始めている。


「よかった……!」


 ほっと息をついた。


「もう歩いても大丈夫ですか?」

「短い距離なら少しずつ試してもいい頃だね。ただし、まだ走らせてはいけないよ」


 丁寧な説明が続いた。


「傷の表面が治っても、中の組織が十分に回復するにはもう少し時間がかかる。急に動かすと、また傷めてしまうことがあるからね」

「はい。気をつけます」

「あと数日は様子を見ながら少しずつ。腫れたり、痛がったりするようなら、すぐに連れておいで」


 真剣に頷いた。診察台の上でおとなしくしていたフィエルが、エルダの手が離れるとすぐにこちらへ顔を向ける。


「フィエル、よかったね」


 頭を撫でると、小さな尻尾が揺れた。


「もう少ししたら、一緒に歩けるね」


 その言葉に耳がぴんと立ち、二人を見ていたエルダが微笑んだ。


「本当に仲がいいんだね」

「はい!」


 嬉しそうに答えた。


 診療所を出る頃には、朝の雲が少しずつ晴れ始めていた。鞄の中を覗き込み、そっと声をかける。


「もう少しだけ我慢してね」


 フィエルが小さく鼻を鳴らした。


     *


 昼過ぎ、エマが宿屋ブランへ迎えに来た。


「リシェ! 今日はおじいさんがいるって!」

「本当?」

「うん! さっき見かけたの。庭園の門を開けてた!」


 思わず立ち上がった。あの日、石壁の隙間から見えた葉が、ずっと気になっていた。図鑑に描かれたものとよく似ていたが、育っている場所が少し違うように思えたのだ。


「行ってみたい!」

「じゃあ、決まり!」


 エマが嬉しそうに笑った。


 フィエルの入った鞄を持ち、二人で古い石壁のある通りへ向かった。門の向こうには、思っていたよりも広い庭があった。


 低い石垣で区切られた花壇。ところどころに残る木の札。伸び放題になった草の間には、細い通路が続いている。


「おや、エマちゃんか」


 奥から聞こえた声に振り向くと、灰色の髪をした老人が、小さな鍬を手に歩いてきた。


「こんにちは! 今日は友達を連れてきたの!」

「ほう」


 視線を向けられ、リシェは慌てて頭を下げた。


「こんにちは。リシェです」

「これは丁寧に。わしはローデン。この庭の世話をしておる」


 穏やかに笑って、ローデンが尋ねた。


「庭を見たいんだって?」

「はい。あの……薬草があるって聞いて」

「昔はもっとたくさん育てておったがね。今は残ったものを細々と世話しているだけじゃ」


 庭を振り返って続ける。


「花壇の中へ勝手に入らず、草を摘まないと約束できるなら、見ていくといい」

「ありがとうございます!」


 深く頭を下げ、エマと並んで石の通路を進んだ。


 庭の中は通りより少し涼しかった。木々の葉が風に揺れ、柔らかな光が足元に落ちている。古い札に残るかすれた文字を、一つひとつ覗き込みながら歩いた。


「あ、これ……」

「知ってるの?」

「うん。たぶん、月影草」


 細い葉を指さした。


「葉の裏が白っぽくて、日陰でも育つんだって」


 ローデンが足を止めた。


「よく知っておるね」

「図鑑で読んだんです」

「ほう。では、あちらの草は分かるかな?」


 指さされた先には、似た形の葉が茂っていた。近づき、通路から身をかがめる。


 葉の形はよく似ている。でも、縁の細かな切れ込みが違った。


「……こっちは、月影草じゃないと思います」

「なぜそう思う?」

「葉の縁が少し丸いから。それに……」


 周囲を見回した。


「こっちは日が当たる場所に生えています」


 ローデンが目を細めた。


「正解じゃ。よく似ておるが、別の草だよ」

「そうなんですね……!」


 嬉しくなった。本で読んだことと、目の前にあるもの。同じところもあれば、違うところもある。


 実際に見なければ、気づけないことがたくさんあった。


「リシェ、すごい! そんな細かいところ、あたし全然分かんなかった!」


 感心した様子のエマに、少し照れながら答えた。


「わたしも、近くで見ないと分からなかったよ」


 二人を見て、ローデンが楽しそうに笑った。


「本が好きなのかい?」

「はい。植物や魔獣のことが書いてある本を持っていて……」

「それなら面白い場所を知っておるよ」

「面白い場所?」

「まあ、この街にある本屋じゃがね。古い本をよく集めておる」

「あっ」


 顔を上げた。


「オスカーさんのお店ですか?」

「おお、もう知っておったか」

「はい!」

「あの人なら、昔の薬草についても何か知っているかもしれんね」


 庭の草花をもう一度見回した。ここに残っている植物のことを、もっと知りたくなった。


     *


 庭園を出たあと、エマはパン屋の手伝いがあると言って帰っていった。リシェは一人、フィエルの入った鞄を抱えて本屋へ向かった。


 扉を開けると小さな鈴が鳴り、紙と木の匂いがふわりと鼻をくすぐった。


「こんにちは」


 声をかけると、奥の机からオスカーが顔を上げた。


「おや。リシェじゃないか」

「こんにちは、オスカーさん」

「今日は何を探しに来たんだい?」

「薬草のことを、少し調べたくて……」

「ほう」


 眼鏡を押し上げたオスカーに、今日見た庭園のことを話した。古い石壁。残されていた薬草。よく似ているのに、葉の形や育つ場所が違う植物。


 途中で口を挟まず、静かに聞いてくれた。


「なるほど。ローデンさんの庭に行ってきたんだね」

「はい」

「あそこには、昔この地方で育てられていた植物がいくつか残っているはずだよ」


 棚の一角へ歩きながら、オスカーが言った。


「少し待っておいで」


 しばらくして戻ってきた手には、薄い本があった。表紙には、葉と小さな花の絵が描かれている。


「これは、オルテン周辺の植物をまとめた古い本だよ。今では使われていない呼び名も載っている」


 リシェの目が輝いた。


「見てもいいですか?」

「もちろん。ここで読む分には構わないよ」

「ありがとうございます!」


 机の端に座り、本を開いた。


 見慣れない植物の名前。手描きの挿絵。育つ場所や、採集するときの注意点。一枚ずつページをめくるたびに、知らないことが増えていく。


 その中に、今日見た葉によく似た植物が載っていた。


「あ……!」


 思わず声を上げた。


「これ、今日の……」


 隣からオスカーが覗き込む。


「見つかったかい?」

「はい。でも、わたしの図鑑には別の名前で載っていて……」

「そういうことは珍しくないよ」


 穏やかな声で説明してくれた。


「土地が違えば、同じ植物でも呼び名が変わることがある。逆に、よく似た別の植物を同じ名前で呼んでいることもあるんだ」


 本を見つめていると、古い図鑑の最初の方に書かれていた言葉が、ふと頭に浮かんだ。


『記録と実物は、必ずしも一致しない。』


 あの言葉は、こういうことなのかもしれない。


「だから、実際に見て確かめるのは大事なんですね」

「そのとおり」


 嬉しそうに頷いて、オスカーが続けた。


「本はたくさんのことを教えてくれる。でも、本に書かれていることが世界のすべてではないからね」


 静かに頷き、それから鞄の中で丸くなっているフィエルに目を向けた。


 銀白色の毛並み。琥珀色の瞳。古い図鑑に描かれていた銀尾狐と、よく似た姿。


 でも、どこか違う気もする。


「あの……オスカーさん」

「なんだい?」

「魔獣のことも、本によって書いてあることが違うんでしょうか?」

「もちろんあるよ。魔獣は植物以上に、まだ分かっていないことが多いからね」


 フィエルを見つめた。


「そうなんですね」

「君は、その子のことをもっと知りたいのかな?」


 少し迷ってから頷いた。


「はい。フィエルがどんな魔獣なのか、ちゃんと知りたいんです」


 しばらく考えていたオスカーが言った。


「それなら、いつか大きな図書館へ行ってみるといいかもしれないね」

「図書館……?」

「そう。たくさんの本を集めている場所だよ。この街にも本はあるけど、もっと専門的な記録を調べるなら、別の街の方がいい」


 顔を上げた。


「そんな街があるんですか?」

「ああ。例えば、アルセインという街だね」

「アルセイン……」


 初めて聞く名前だった。


「学者や研究者が集まる街で、古い書物も多い。魔獣について調べたいなら、きっと面白いものが見つかるだろう」


 その名前を、心の中で繰り返した。


 アルセイン。


 まだ行ったことのない街。そこには、フィエルのことが書かれた本もあるのだろうか。


「……遠いんですか?」

「オルテンからは、それなりに距離があるね。旅慣れない子が一人で向かうには、準備も必要だよ」


 そう言ってから、オスカーが優しく笑った。


「今すぐ行く必要はないさ。まずは、この街で知りたいことをたくさん見つけるといい」

「はい」


 頷いたが、胸の奥には小さな灯りがともったような気がした。


     *


 宿へ戻る道で、今日のことを何度も思い返していた。


 庭園で見た植物。ローデンに教えてもらったこと。オスカーが見せてくれた古い本。


 そして、アルセインという街。


 鞄の中から顔を出したフィエルに、小さな声で呼びかけた。


「フィエル。いつか、一緒に行ってみたいね」


 琥珀色の瞳がこちらを向く。


「もっとたくさん、本があるんだって」


 小さく尻尾を動かすフィエルを見て、微笑んだ。


 カルンを出たときは、どこへ行きたいかなんて考えられなかった。ただ、あの場所から逃げたかった。フィエルを助けたあとも、まずは安全な街へ着くことだけを考えていた。


 だが今は、少し違う。


 まだ見たことのない植物がある。

 まだ読んだことのない本がある。

 まだ知らない街が、ずっと遠くまで続いている。


 鞄の紐を握り直した。


 フィエルの脚が治ったら。

 もう少し採集の仕事に慣れたら。

 そして、旅を続けられるだけのお金が貯まったら。


 いつか、オルテンの外へも行ってみたい。


 そんなことを考えながら、白い花の看板が揺れる宿へと歩いていった。


 その足取りは、少しだけ軽くなっていた。

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