第三十九話 小さな発見、大きな一歩
「待ってください! その草、混ざっているかもしれません!」
採集者ギルドの受付に、リシェの声が響いた。声をかけられた若い男が、驚いて振り向く。
「……俺のか?」
「は、はい。その、少しだけ見せてもらってもいいですか?」
言ってしまってから、胸がどきどきしてきた。受付台の上には、男が持ち込んだ日向草が山のように積まれている。その中に、葉の色が少し違うものが混ざっていた気がしたのだ。
男が眉をひそめた。
「何かおかしいのか?」
「たぶん……別の草が混ざっています」
「別の草?」
「灰葉草かもしれません」
「そんな名前、聞いたことないな。日向草だと思って採ってきたんだが」
言葉に詰まった。自分が間違っているのかもしれない。目の前の男は自分よりずっと年上で、採集にも慣れているように見えた。
それでも、葉の形が気になった。
「あの……葉の縁を見てもらえますか?」
一枚を指さした。
「日向草は、ここが少し尖っているんです。でも、こっちは丸くて……」
男が身をかがめる。
「……確かに、ちょっと違うな」
そのとき、奥からベルトがやって来た。
「どうした?」
クララの説明を聞くと、葉を手に取り、裏返して確かめた。
「……灰葉草だな」
リシェは思わず息を止めた。
「やっぱり……」
「ああ。よく気づいたな」
男に向き直り、ベルトが続ける。
「これを混ぜて納品すると、仕分け直しになる。場合によっては全部差し戻しだ」
「うわ、危なかった……」
頭をかいてから、男が礼を言った。
「嬢ちゃん、助かったよ。ありがとうな」
「い、いえ……!」
慌てて首を振ったが、胸の奥がじんわりと温かくなった。
図鑑で読んだこと。
実際に草地で見比べたこと。
その両方が、誰かの役に立った。
頭に軽く手を置き、ベルトが言った。
「知っているだけじゃなく、ちゃんと見ている証拠だな」
リシェは照れくさそうに俯いた。
*
オルテンに来てから、十日あまりが過ぎていた。宿屋ブランでの暮らしにも、少しずつ慣れてきていた。
朝は宿の手伝いをし、日によっては採集者ギルドへ向かう。東門の先にある草地にも何度か足を運び、青葉草や日向草を集めた。
報酬は日によって違ったが、宿代の割引と合わせれば何とか暮らしていけた。余裕がある日は、銅貨を一枚ずつ小袋に残すようにもなった。
フィエルの脚も、少しずつよくなっていた。エルダに教わったとおり、宿の部屋で短い距離を歩かせることから始めている。まだ走らせることはできないが、歩くたびに嬉しそうに揺れる尻尾を見ると、ほっとした。
仕事の合間にはエマと会った。パン屋の手伝いをするエマを訪ねたり、広場の露店を覗いたり。時には、ローデンの庭園へ足を運ぶこともあった。
知らないことが少しずつ増えていく。そのたびに、覚え書きには新しい文字が並んだ。
*
ギルドでの出来事があった日の午後、リシェはオスカーの本屋を訪ねた。扉を開けると、小さな鈴が鳴った。
「こんにちは」
「おや、リシェ。今日はどうしたんだい?」
奥の机からオスカーが顔を上げる。
「少し、聞いてみたいことがあって……」
「もちろん。何でも聞いてごらん」
鞄から古い図鑑を取り出した。擦り切れた表紙。何度も開いたせいで柔らかくなった背表紙。端が少し折れたページ。
「これ、わたしがずっと読んでいる本なんです」
興味深そうに身を乗り出し、オスカーが尋ねた。
「見せてもらってもいいかな?」
「はい」
両手で差し出すと、表紙の文字を読み、ゆっくりとページをめくってくれた。
「『大陸の植物と魔獣』……なるほど。なかなか古い本だね」
「はい。孤児院にあったものなんです」
オスカーの指が、一枚のページで止まった。そこには植物の細かな挿絵と、短い説明が並んでいた。
「これは……」
少しだけ目を細める。
「どうかしましたか?」
「いや。今の本とは、ずいぶん書き方が違うと思ってね」
ページを戻し、最初の方に書かれた一文を見つめた。
『記録と実物は、必ずしも一致しない。』
「いい言葉だ」
静かな声だった。
「この本を書いた人は、きっと実際にいろいろな場所を歩いたんだろうね」
「そうなんでしょうか?」
「そう思うよ。植物の描き方が細かいし、地域による違いにも触れている」
図鑑を閉じ、返してくれた。
「大切にするといい」
「はい」
胸に抱えるようにして受け取ると、少し考えてからオスカーが尋ねた。
「そういえば、アルセインのことは覚えているかい?」
「はい! 本がたくさんある街ですよね」
「そう。そのアルセインへ向かう商隊が、近いうちにオルテンを出るらしいんだ」
「商隊……?」
ハンスの荷馬車を思い出した。森を抜けたあと、街道を一緒に進んだ人たち。
もし、また荷馬車に乗せてもらえたら。
そんな考えが浮かんだ。
「アルセインまで、乗せてもらえるんでしょうか?」
「商隊によるね。旅人を同乗させるところもあるし、荷物だけを運ぶところもある。ただ、乗せてもらえるとしても、費用は必要だろうね」
「……どれくらいですか?」
「距離や条件によって違うから、私には正確なことは言えないな。商隊の人に直接聞くのが一番だよ」
頷くリシェに、オスカーが続けた。
「それに、アルセインへ行くなら、道中の食べ物や、着いてからの宿代も考えておいた方がいい」
「はい……」
鞄の中の小袋を思い浮かべた。少しずつ貯めている銅貨。ハンスに返さなければならないお金。フィエルの世話に必要なもの。
まだ、十分とは言えなかった。
「急ぐ必要はないよ」
オスカーの声は優しかった。
「旅は準備をしてから出る方がいい。特に、君には大切な連れがいるからね」
フィエルを見下ろすと、銀白色の耳が鞄の縁から覗いていた。
「はい」
それから、少し迷って尋ねた。
「あの……商隊の人には、どこへ行けば会えますか?」
オスカーが微笑んだ。
「西の商業広場に、出発予定を知らせる掲示板があるんだ。そこを見てみるといい」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げた。
*
翌日、リシェは西の商業広場へ向かった。中央広場とは違い、そこには大きな荷車や木箱が並んでいた。
荷馬車の車輪を直す人。荷物を数える商人。旅装束の人々。行き交う声の中には、聞いたことのない地名も混ざっている。
少し緊張しながら掲示板を探すと、広場の端に大きな木の板が立っていた。そこには、いくつもの紙が貼られている。
『南方行き商隊』
『北街道・定期輸送』
『アルセイン方面』
「あっ……!」
思わず声を上げた。
アルセイン。
オスカーから聞いた名前が、そこに書かれていた。背伸びをして、紙を読む。
『アルセイン方面 次回出発予定』
出発日は今から十日ほど先。途中の街をいくつか経由し、アルセインへ向かうらしい。その下には、小さな文字でこう書かれていた。
『旅客同乗については要相談』
何度も読み返した。
旅客同乗。
つまり、荷馬車に乗せてもらえる可能性があるということだ。胸がどきどきした。
十日後。
思っていたよりも、ずっと近い。
でも、まだ何も決まっていない。お金も足りるか分からないし、フィエルの脚も完全には治っていない。
それでも。
掲示板の前で、しばらく動けなかった。アルセインという街が、初めて本当に行ける場所として感じられた。
*
その夜、机に覚え書きを広げた。新しいページに、今日見たことを書き留める。
『アルセイン方面の商隊』
『出発まで、あと十日くらい』
『旅客同乗は相談できる』
そして、その下に少し大きな文字で書いた。
『必要なお金を調べる』
筆記具を置いた。まだ行くと決めたわけではない。でも、どうすれば行けるのかは知りたい。もし今の商隊に間に合わなくても、次の機会があるかもしれない。
フィエルを見つめた。
「ねえフィエル」
顔を上げたフィエルに、今度ははっきりと口にした。
「わたし、アルセインへ行ってみたい。フィエルのことも、もっと知りたいし……まだ見たことのないものを、見てみたいの」
しばらくリシェを見つめていたフィエルが、そっと鼻先を手に寄せた。微笑んで、言葉を添える。
「でもちゃんと準備してからね」
窓の外では、オルテンの街灯が静かに揺れていた。覚え書きを閉じ、机の端に置いた。
十日後。
その日までに、どこまで準備ができるだろう。まだ分からない。
だが明日やるべきことは、一つ決まった。
商隊の人に話を聞きに行こう。




