第四十話 旅の値段
商業広場の掲示板には、朝から何人もの人が集まっていた。
荷物の運搬を頼む商人。働き手を探す職人。次の街へ向かう馬車の予定を確かめる旅人。
その人たちの隙間から、リシェは一枚の紙を見上げていた。
『アルセイン行き商隊 十日後出発予定』
昨日、オスカーから教えてもらった商隊だった。
アルセイン。本がたくさんあって、学問を学ぶ人たちが集まる街。図鑑でしか知らなかった植物や魔獣について、もっと詳しく調べられるかもしれない場所。
胸を弾ませながら、掲示板の下に書かれた文字を読み進めた。
『乗客については要相談』
「乗せてもらえるかもしれないんだ」
鞄の中から小さく顔を出したフィエルの頭を、そっと撫でた。
「フィエル、一緒に行けるかな」
琥珀色の瞳が見上げてくる。リシェはもう一度、掲示板を見た。
行きたい。
だが行きたいと思うだけでは、旅はできない。
掲示板の端に書かれていた受付場所を覚え書きに写し、商業広場の奥へ向かった。
*
商隊の受付所は、広場に面した小さな建物だった。入口の前には木箱が積まれ、数人の男たちが荷物の数を確かめている。
恐る恐る中を覗くと、帳面を広げていた男が顔を上げた。
「どうした、お嬢ちゃん?」
「あの……アルセインへ行く商隊のことで、お聞きしたいんです」
「乗客の申し込みかい?」
「はい」
少し驚いた様子だったが、すぐに椅子を勧めてくれた。
「座りな。アルセインまで行きたいんだね?」
「はい。フィエルも一緒です」
鞄を少し開くと、銀白色の小さな顔が覗いた。
「ほう、魔獣か」
「はい。でも、おとなしい子です」
「分かった。動物を連れていく場合は隊長にも確認が必要だな」
男が帳面をめくった。
「まず、アルセインまではだいたい八日かかる。天気や道の状態によっては、もう少しかかることもあるよ」
「八日……」
覚え書きを開いた。
「乗るためには、いくら必要ですか?」
「運賃は銅貨十八枚だ」
筆記具が止まった。
「……十八枚」
「ああ。荷車に乗る分の料金だよ。食事や途中の宿代は別になる」
慌てて続きを書いた。
「食事はいくらくらいですか?」
「商隊で用意する食事なら、大人は一日銅貨一枚。十二歳未満は半額だ」
「わたし、十歳です」
「それなら八日分で銅貨四枚だね」
指を折って数えた。
十八枚と、四枚。
二十二枚。
それだけでも、今のリシェには大きな金額だった。
「途中の宿代は、どのくらいかかりますか?」
「泊まる場所によって違うね。宿のないところでは野営するし、街道沿いの宿を使うこともある。相部屋なら安くなることもあるけど、全部が無料というわけにはいかない」
男の視線が鞄へ向いた。
「それに、その子の餌も必要だろう?」
「はい」
「そうだな……途中の宿代や餌代、それに何かあったときの予備も考えると、運賃を含めて銅貨三十枚は用意しておいた方がいい」
「三十枚……」
覚え書きに大きく書いた。
『アルセインまで 銅貨三十枚以上』
数字を見つめる。
銅貨三十枚。
オルテンへ来たばかりのころなら、想像もできなかった金額だ。そっと財布を押さえた。
「ありがとうございます」
「いやいや。まだ申し込みが決まったわけじゃないからね」
男が笑った。
「隊長のセリナさんに確認しないといけない。今日は外に出ているから、明日また来るといいよ」
「分かりました」
立ち上がり、深く頭を下げた。
*
宿屋ブランへ戻ると、マルタが食堂で花飾りを作っていた。白い花を模した紙飾りが、机の上にいくつも並んでいる。
「おかえり、リシェ。商隊のことは分かったかい?」
「はい。でも……」
少し迷ってから、覚え書きを開いた。
「アルセインまで、銅貨三十枚くらい必要なんです」
マルタの手が止まった。
「三十枚かい」
「はい。運賃が十八枚で、食事が四枚。それから途中の宿代と、フィエルの食べ物と……」
一つずつ説明する間、マルタは黙って聞いていた。やがて頷く。
「なるほどねえ。八日もかかるなら、それくらいは考えておかないといけないね」
財布を取り出し、中身を机の上に並べた。
一枚。二枚。三枚。
四枚。五枚。六枚。
「六枚」
小さく並んだ銅貨を、マルタが見つめた。
「今は六枚あるんだね」
「はい」
少し考えてから、覚え書きにもう一つ書き足した。
『ハンスさんに返すお金 銅貨七枚』
マルタが目を細めた。
「ちゃんと覚えていたんだね」
「はい。ハンスさんに借りたお金なので、返せるようにしておきたいんです」
ハンスは、フィエルを助けるためのお金を貸してくれた。宿代まで払ってくれた。そして、旅立つときには、頭を優しく撫でてくれた。
その人に、いつかきちんとお礼を言いたかった。
「三十枚と七枚で……三十七枚」
覚え書きに書いた。
『目標 銅貨三十七枚』
だが、そこまで書いて、また筆記具を止めた。
「あ」
「どうしたんだい?」
「出発まで、まだ宿代も必要です」
「そうだね」
「フィエルの診察も、もう一度受けたいですし……」
「だから、三十七枚あれば全部安心、というわけじゃないね」
「はい」
小さく息を吐いた。考えることが、思っていたよりたくさんある。
銅貨を指さし、マルタが言った。
「でも、まずは必要なお金が分かった。それだけでも大きな一歩だよ」
「そうでしょうか」
「ああ。知らなければ、準備のしようもないからね」
覚え書きを見つめた。確かに、昨日まではアルセインまでいくら必要なのかも分からなかった。今は、何を用意すればいいのか、少しだけ見えている。
「頑張ってみます」
マルタが微笑んだ。
「うん。応援しているよ」
*
翌朝。
もう一度、商隊の受付所を訪ねた。昨日の男に声をかけると、奥から一人の女性が出てきた。
短く結んだ茶色の髪に、日に焼けた肌。腰には小さな革袋をいくつも下げ、歩き方には迷いがなかった。
「この子がアルセインへ行きたいって?」
「はい。昨日、相談に来た子です」
男の返事を聞いて、女性がリシェの前にしゃがんだ。
「私はセリナ。この商隊をまとめている者だよ」
「リシェです」
「よろしく、リシェ」
にっこり笑って尋ねる。
「アルセインまで行きたいんだって?」
「はい」
「一人で?」
「フィエルと一緒です」
鞄を少し開くと、フィエルが顔を出した。セリナが興味深そうに覗き込む。
「銀尾狐かい。珍しいね」
「はい」
「おとなしく荷車に乗っていられる?」
「はい。今は脚を怪我しているので、ほとんど鞄の中で休んでいます」
セリナの表情が少し真剣になった。
「怪我をしているのかい?」
「はい。でも、エルダ先生に診てもらっていて、少しずつよくなっています」
「そうか。それなら、出発前にもう一度診てもらっておくれ」
「はい」
「長い旅だからね。途中で具合が悪くなったら、その子もつらいだろう?」
「……はい」
立ち上がったセリナが、続けて尋ねた。
「それから、身分を確認できるものはある?」
鞄から採集者ギルドの身分証を取り出した。
「これです」
「採集者ギルドか」
身分証を確かめ、セリナが言った。
「登録したばかりみたいだね」
「はい。でも、ちゃんと仕事をしています」
「疑っているわけじゃないよ」
優しい声だった。
「ただ子どもを遠くまで乗せる以上、こちらも確認が必要なんだ」
少し緊張しながら頷いた。
「この身分証を作ったとき、ハンスさんが保証人になってくれました」
「ハンス?」
セリナが眉を上げた。
「商人のハンスかい?」
「はい。ロッテというロバと一緒に旅をしている……」
「ああ、あのハンスね!」
笑って、セリナが続ける。
「知っているよ。何度か商売で顔を合わせたことがある」
「本当ですか?」
「ああ。まじめな商人だ。あの人が保証人になっているなら、少し安心だね」
身分証を返してくれた。
「ギルドにも確認しておこう」
「ありがとうございます」
「ただし、まだ乗せると決まったわけじゃないよ」
セリナが指を三本立てた。
「必要なのは三つ。運賃を用意すること。フィエルが旅に耐えられること。そして、身分の確認が取れること」
真剣に耳を傾けた。
「全部整ったら、出発の二日前までにもう一度来ておくれ。席を確保できるか、そのときに決めよう」
「はい!」
「無理に急がなくてもいいからね。旅は、出発してからの方が長いんだから」
セリナが笑うと、リシェも小さく笑った。
*
商業広場からの帰り道は、いつもよりゆっくり歩いていた。
覚え書きには、必要なものがいくつも増えていた。運賃。食べ物。宿代。フィエルのための準備。ギルドでの確認。
全部を揃えるには、まだ時間がかかる。でも不思議と諦めたいとは思わなかった。
通りの角を曲がったとき、フィエルが鞄の中で顔を上げた。
「どうしたの?」
足を止めると、道端の小さな植え込みを見つめていた。そこには白い花がいくつか咲いている。花びらの先が、ほんの少し青みがかっていた。
「きれいだね」
そう呟くと、フィエルの耳がぴくりと動いた。その視線は、花の少し上に向けられている。
「何かいるの?」
同じ場所を見つめたが、何も見えない。ただ風もないのに、一輪の花が小さく揺れていた。
そのときだった。
ふわりと、胸の奥が温かくなった。
嬉しい。楽しい。
そんな気持ちが、突然湧き上がってきた。
「あれ?」
瞬きをした。自分が何か嬉しいことを思い出したわけではない。それなのに、まるで誰かがすぐそばで笑っているような、不思議な感覚があった。
フィエルが小さく鼻を鳴らした。その瞬間、リシェの灰青色の瞳の奥に、小さな金色の星が浮かんだ。
ほんの一瞬。
星は瞬くように輝き、すぐに消えてしまった。
その変化に気づかないまま、白い花を見つめていた。やがて胸の奥の温かさも、ゆっくりと薄れていく。
「不思議」
首を傾げた。
「フィエル、何だったんだろうね?」
答える代わりに、フィエルが指先へ鼻を寄せた。白い花が、もう一度だけ小さく揺れる。
しばらくそこに立っていたが、やがて鞄を抱え直した。
「そろそろ帰ろうか」
フィエルが耳を伏せ、鞄の中に丸くなる。
二人が立ち去ったあと、植え込みには静けさが戻った。白い花の上を淡い光がひと粒だけ漂い、夕暮れの空気に溶けるように消えていった。
*
宿屋ブランに戻ると、マルタが食堂で花飾りを作っていた。隣に座り、紙の花びらを一枚ずつ重ねていく。
「セリナさんには会えたかい?」
「はい。お金とフィエルの脚と、身分証の確認が必要だそうです」
「そうかい」
「全部揃えられたら、商隊に乗せてもらえるかもしれません」
マルタが嬉しそうに頷いた。
「それなら、準備を進めないとね」
「はい!」
紙の花を一つ完成させた。白い花びらの真ん中に、小さな黄色い紙を丸めて貼りつける。それを見て、マルタが笑った。
「上手になったねえ」
「本当ですか?」
「ああ。最初に作ったときより、ずっと形がきれいだよ」
嬉しくなって、もう一つ花を作り始めた。
窓の外では、街の人たちが花灯りの市の準備を進めている。もうすぐ、この街はたくさんの花の灯りで彩られるのだという。
まだ、その景色を見たことがなかった。そして、その祭りが終われば、アルセインへ向かう日も近づいてくる。
完成した花飾りをそっと机に並べた。
知らない街へ向かうために、今できることを一つずつ。
その小さな積み重ねが、少しずつ旅への道を作っていた。




