第四十一話 草原に眠る宝物
「この依頼、受けてもいいですか?」
差し出された紙を見て、クララが少し驚いた顔をした。
「東の丘の採集依頼ね。いつもの草地より遠いけど、大丈夫?」
「はい。フィエルも、少しずつ歩けるようになってきたので」
答えてから鞄の中を覗くと、丸くなっていたフィエルが、名前に反応して片耳をぴくりと動かした。
クララが依頼書を読み直す。
「採集場所は東門から一時間ほど。目的は白露草と青葉草。どちらも普通の薬草だけど、丘の向こうは道が分かれやすいから、標識より先には行かないこと」
「分かりました」
「それと、今日は夕方から雨の予報が出ているの。昼過ぎには戻ってきてね」
頷いて受付を離れると、奥からベルトが声をかけてきた。
「おう、リシェ。今日は東の丘か」
「はい」
「この前は助かったよ。あの採集者も、次から葉をよく確かめるって言ってたぞ」
少し照れくさくなった。
「よかったです」
「それと、丘の辺りは雨が降ると足元が滑りやすい。気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
依頼書を鞄にしまい、ギルドを出た。空には薄い雲が広がっていたが、まだ雨の気配はない。
今日は少し遠くまで行く。それは採集のためでもあり、アルセインへの旅費を貯めるためでもあった。
覚え書きに書いた、銅貨三十七枚。
今のリシェには、途方もなく大きな金額に思えた。だが、何もしなければ一枚も増えない。
「行こうか、フィエル」
鞄の中から、小さな鼻先が覗いた。
*
東門を抜けると、街道の両側に草原が広がっていた。オルテンの近くでは畑や牧草地が目立ったが、少し進むと、背の低い木々が点々と生える丘陵地帯に変わっていく。
風が吹くたび、草の穂が一斉に揺れた。道端に立つ標識を確かめながら歩く間、フィエルは鞄から顔を出して周囲を眺めていた。
途中、柔らかい草の上で少しだけ歩かせてみた。銀白色の小さな体が、慎重に前へ進む。
「痛くない?」
振り向いて尻尾を揺らすフィエルに、リシェは微笑んだ。
「よかった。でも、まだ無理しちゃだめだよ」
少し歩いたところで抱き上げ、再び鞄に入れた。エルダに言われたことは、ちゃんと守らなければならない。
やがて目当ての丘が見えてきた。斜面には白露草の小さな花が点々と咲いている。
「あった……!」
嬉しくなって駆け寄りかけたが、すぐに足を止めた。
慌ててはいけない。
根元を傷つけず、必要な分だけ採る。以前、ベルトに教わったことを思い出しながら、丁寧に葉を選んでいく。
白露草は、朝露を集めやすい柔らかな葉を持つ植物だ。乾燥させると、傷口を洗う薬液などに使われる。図鑑にも載っていたが、実物は挿絵より少し小さかった。
葉の裏を確かめ、傷んでいないものを選んだ。青葉草も必要な量を集め終えるころには、陽が高くなっていた。
「これで依頼の分は大丈夫かな」
籠を覗き込むと、葉を潰さないように並べた薬草が、きれいに収まっていた。
帰り道を考えれば、そろそろ引き返した方がいい。そう思って立ち上がったとき、フィエルが突然耳を立てた。
「フィエル?」
鞄の中から身を乗り出し、丘の斜面を見つめている。同じ方へ目を向けると、少し離れた場所に背の低い岩がいくつか並んでいた。その隙間に、細い葉をつけた草が生えている。
見たところ特別変わった植物には思えなかった。だが、目を細めると、小さな淡紫色の花が目に留まった。
「あれ?」
花びらは五枚。その中心に、銀色の細い筋が見えた。
どこかで見たことがある。
鞄から古い図鑑を取り出し、何度も読んだページを慎重にめくった。薬草の章。山地の植物。湿った岩場に生える草。
そして、一枚の挿絵で指が止まった。
『銀脈草』
息を呑んだ。
銀脈草。傷んだ組織の回復を助ける薬の材料として知られる、珍しい薬草。生育する場所が限られ、見つかることも少ないと書かれている。
挿絵には、淡紫色の花と、葉脈に沿った銀色の線が描かれていた。
岩陰の草を見つめる。
似ている。
だが、すぐに決めつけてはいけない。
図鑑の最初のページに書かれた言葉が、頭に浮かんだ。
『記録と実物は、必ずしも一致しない。』
膝をつき、そっと葉を持ち上げた。表面には薄い銀色の筋が走っている。裏側は淡い緑色。茎の根元には、細かな白い毛。
図鑑の説明と、一つずつ照らし合わせた。
「……銀脈草だと思う」
小さな声が漏れた。ただ、よく似た植物もある。もし違っていたら、採集したものが無駄になるかもしれない。
周囲を見回すと、銀脈草らしい株は岩陰に三つだけ生えていた。そのうち一つはまだ小さい。
しばらく考え、十分に育った一株から、葉を数枚だけ採ることにした。
根は残しておく。次の年にも、ここで育つかもしれないから。
採った葉を布で包み、籠の一番上に置いた。フィエルがじっとその様子を見ている。
「本当に銀脈草だったら、すごいね」
微笑んだそのとき、遠くで低い雷鳴が響いた。顔を上げると、西の空に灰色の雲が広がり始めていた。
「帰らなきゃ」
図鑑を鞄にしまい、立ち上がった。
帰り道は来たときよりも風が強かった。それでも、標識を一つずつ確かめながら歩き、雨が降り出す前に東門へ戻ることができた。
*
「銀脈草……?」
差し出した布包みに、クララが目を瞬かせた。
「はい。図鑑に載っていたものに似ていて……でも、間違っているかもしれません」
慎重に開かれた布の中には、淡紫色の小さな花と、銀色の筋が入った葉があった。クララの表情が変わる。
「ちょっと待っていてね」
奥へ向かい、しばらくしてベルトを連れて戻ってきた。
「リシェが見つけたのか?」
「はい。東の丘の岩陰にありました」
ベルトが葉を一枚取って光に透かし、次に茎の根元を確かめた。
「……銀脈草だな」
リシェは目を見開いた。
「本当ですか?」
「ああ。間違いない」
感心したように頷いて、ベルトが続ける。
「よく見つけたな。これ、知らないやつならただの野草だと思って通り過ぎるぞ」
胸が高鳴った。やっぱり図鑑に載っていた草だったのだ。
「根はどうした?」
「残してきました。小さい株もあったので……」
「それでいい。採り尽くしたら、次がなくなるからな」
クララに向き直り、ベルトが言った。
「薬師組合に確認を取ってくれ。状態もいいし、買い取り対象になるはずだ」
「分かりました」
葉を傷めないように包み直すクララと、ベルトを交互に見た。
「あの……買い取ってもらえるんですか?」
「もちろん。珍しい薬草だからな」
ベルトが笑った。
「ただ値段は組合の査定が必要だ。少し待てるか?」
「はい!」
*
査定が終わるまでの間、ギルドの隅にある椅子に座っていた。窓の外では雨が降り始め、石畳を濡らす雨粒が小さな音を立てている。フィエルは鞄の中で丸くなり、眠っていた。
膝の上の覚え書きを見つめた。
アルセインまでの旅費。
銅貨三十枚。
ハンスに返す分も含めると、三十七枚。
今の所持金は六枚。銀脈草がいくらになるのか、まだ分からない。それでも、少しだけ期待してしまう。
しばらくして、小さな革袋を手にしたクララが戻ってきた。
「リシェ、お待たせ。薬師組合の確認が取れたわ。間違いなく銀脈草で、状態もとてもいいそうよ」
「よかった……!」
「買い取り額は、銅貨二十五枚」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「……にじゅう、ご?」
「ええ。銅貨二十五枚よ」
微笑んで、クララが続けた。
「それから、今日の通常の採集依頼が銅貨四枚。合わせて二十九枚ね」
口を開けたまま、クララを見つめた。
二十九枚。
一日で、そんなにたくさんのお金を受け取ったことはなかった。
「……本当に、いいんですか?」
「もちろん。あなたが見つけて、きちんと採集したものだもの」
差し出された革袋を両手で受け取ると、ずしりと重みが伝わった。その重さに、胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます……!」
深く頭を下げると、クララが優しく笑った。
「こちらこそ。珍しい薬草を持ち込んでくれてありがとう」
奥からベルトも顔を出した。
「ただし、銀脈草がいつも見つかると思うなよ。今回は運もよかったんだ」
「はい!」
「それに、よく似た草もある。次も必ず確認すること」
「分かりました」
革袋を胸に抱えた。図鑑で読んだ知識が、初めてこんなに大きな形になった。
だが嬉しかったのは、お金だけではない。
知らなければ、きっと通り過ぎていた。気づけたのは、今まで何度も図鑑を読んでいたからだ。
*
雨が弱まるのを待って宿屋ブランへ戻ると、食堂でマルタが夕食の支度をしていた。
「おかえり。雨に降られなかったかい?」
「少しだけです。でも大丈夫でした」
「それならよかった」
鞄を下ろし、机に革袋を置いた。
「マルタさん、あの……今日、珍しい薬草を見つけたんです」
「珍しい薬草?」
「はい。銀脈草っていう名前で……」
ギルドでの出来事を話すと、マルタが目を丸くした。報酬の額を知ると、思わず声を上げる。
「銅貨二十五枚も?」
「はい。それと、いつもの採集の報酬が四枚です」
「まあ……!」
驚いたあと、嬉しそうに笑った。
「それはすごいねえ。よく見つけたね」
照れくさそうに頷いてから、覚え書きを広げた。今日の報酬を合わせると、手元のお金は銅貨三十五枚になった。
指で数字を確かめる。
三十五枚。
旅費の目安は三十枚。
ハンスへの返済分も含めた目標は三十七枚。
「……あと、二枚」
小さく呟くと、隣からマルタが覗き込んだ。
「あと二枚かい?」
「はい。全部合わせて、あと二枚です」
「それなら、宿の手伝いでも少しずつ貯められそうだね」
「はい!」
顔を上げた。昨日まで遠くに感じていたアルセイン。だが今は、少しだけ手が届きそうだった。
もちろん、まだ商隊に乗れると決まったわけではない。フィエルの脚も、最後にエルダに診てもらわなければならない。旅の準備もまだたくさん残っている。
それでも。
「マルタさん」
「なんだい?」
「わたし、明日もう一度、商隊の人に会いに行ってみます」
少し驚いたあと、マルタが優しく微笑んだ。
「そうかい。じゃあ、明日の朝は早めに仕事を終わらせようか」
「ありがとうございます!」
覚え書きを閉じた。窓の外では雨が静かに降り続いていた。
リシェの胸の中には、明日への小さな期待が灯っていた。




