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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第四十二話 花灯りの夜に


「エマ、あのね……」


 パン屋の店先で、リシェは何度目か分からない深呼吸をした。朝の仕事を終えたばかりのエマが、手についた小麦粉を払いながら振り向く。


「なあに?」

「あの……わたし、アルセインへ行こうと思ってるの」

「アルセイン?」


 エマが首を傾げた。


「この前話してた、本がいっぱいある街?」

「うん」

「へえ、いいなあ! いつか行ってみたいって言ってたもんね」


 楽しそうに笑って尋ねる。


「いつ行くの?」


 鞄の紐を握りしめた。


「……もうすぐ」

「もうすぐって?」

「五日くらい、あと……」


 エマの笑顔が止まった。


「……え?」


 リシェは俯いた。


「アルセインへ行く商隊があって、乗せてもらえるかもしれないの」

「五日って……五日後?」

「……うん」


 返事はなかった。


 パン屋の奥から、焼きたてのパンを取り出す音が聞こえてくる。通りでは、花灯りの市に向けて飾りを吊るす人たちが忙しそうに行き交っていた。


 だが、エマは動かなかった。


「……帰ってくるの?」


 ようやく聞こえた声は、いつもより小さかった。


 答えられなかった。アルセインへ行ったあと、どこへ向かうのか。いつオルテンに戻れるのか。自分にも、まだ分からない。


「……分からない」


 そう答えると、エマが唇をぎゅっと結んだ。


「なんで?」

「え……?」

「なんで、そんな急に決めちゃうの?」


 声が少し大きくなる。


「だって、まだ一緒に行ってないところ、いっぱいあるじゃん!」

「……うん」

「今度、川の向こうの花畑に行こうって言ったよね?」

「うん……」

「お母さんが新しいお菓子を作ったら、一緒に食べようって……」


 そこまで言って口を閉じたエマの目に、涙が浮かんでいた。リシェの胸が、ぎゅっと痛くなる。


「……ごめんね」

「……なんで謝るの」


 俯いたまま、エマが言った。


「謝ってほしいんじゃないもん」


 何も言えなかった。エマが袖で目元を擦る。


「……わたし、リシェともっと遊びたかった」


 ぽつりと落ちた言葉に、顔を上げた。


「せっかく友達になったのに……」


 エマの声が震えた。


「まだ、全然遊んでないよ」


 リシェも泣きそうになった。孤児院では誰かと仲良くなっても、いつか離ればなれになることがあった。だから別れることには、慣れているつもりだった。


 でも、今は違った。


 自分で行きたい場所を見つけた。

 自分で旅立とうと決めた。


 そのせいでエマを悲しませている。


「……わたしも、エマともっと遊びたい」


 小さな声で言った。


「じゃあ、行かないでよ」


 顔を上げたエマの言葉に、息を詰めた。


 行かないで。


 そう言ってもらえることが、少しだけ嬉しかった。


 でも。


「……ごめん」


 首を横に振った。


「わたし、行きたいの」


 エマの顔がくしゃりと歪んだ。


「……もう、知らない!」


 踵を返し、店の奥へ走っていく。


「エマ……!」


 呼び止めた声は、届かなかった。


 一人、店先に立ち尽くした。鞄の中で小さく身じろぎしたフィエルの頭を、そっと撫でる。


「……どうしよう」


 指先に鼻を寄せられても、しばらくその場を動けなかった。やがて小さく頭を下げ、店を離れた。


     *


 宿屋ブランに戻り、食堂の隅で花飾りを結んでいた。だが、いつものように手が進まない。結び目を間違えてはほどき、また結び直す。


「……何かあったのかい?」


 マルタに尋ねられ、俯いた。


「エマに、アルセインへ行くって話したんです」

「そうかい」

「……怒らせちゃいました」


 マルタが隣に腰を下ろした。


「何て言われたんだい?」

「行かないでって……」


 膝の上で手を握った。


「でも、わたし行きたいって言っちゃって」

「そうか」


 静かに頷いて、マルタが言った。


「エマちゃんは、寂しかったんだろうね」

「……はい」

「リシェも、寂しいだろう?」

「……はい」


 小さく頷くと、マルタはそれ以上、何も言わなかった。ただ、ほどけた花飾りの紐をそっと整えてくれた。


 しばらくして、ぽつりと呟いた。


「友達って、難しいですね」


 マルタが少しだけ笑った。


「そうだねえ。でも、難しいと思うくらい、大切な友達ができたんだね」


 顔を上げると、優しく微笑んでいた。


 もう一度、膝の上の花飾りを見つめた。エマと一緒に見ようと約束した、花灯りの市。


 今夜、二人で歩けるのだろうか。


     *


 昼過ぎ、リシェは商業広場へ向かった。


 商隊の出発まで、あと五日。


 セリナにもう一度相談する前に、採集者ギルドで身分証の確認を頼んでおいた。ベルトは、リシェがオルテンで登録し、採集の仕事を続けてきたことなら証明できると言ってくれた。


 それを伝えると、セリナが頷いた。


「分かった。ギルドにはこちらから確認しておくよ」

「ありがとうございます」

「それで、運賃の方は?」

「銅貨十八枚、用意できました」


 小袋から銅貨を取り出し、一枚ずつ机に並べた。数を確かめたセリナが、受付の男に帳面を持ってこさせる。


「確かに十八枚。残りの道中費用は大丈夫かい?」

「はい。まだ少し余裕を作りたいので、出発まで仕事を続けます」

「そうかい。無理はしないことだよ」


 帳面に何かを書き込み、セリナが小さな木札を取り出した。片面には商隊の印が焼きつけられ、もう片面には数字が刻まれている。


「これは乗車の控えだ。大事に持っておいで」


 両手で受け取った。


「……乗せてもらえるんですか?」

「ギルドの確認が取れて、フィエルの脚も獣医が問題ないと言えばね。席は一つ空けておくよ」


 笑って、セリナが続けた。


「出発の前日には、必ずもう一度顔を見せること」

「はい!」


 木札をぎゅっと握った。


 アルセインへ向かう荷車に、自分の席が用意される。まだ最終確認は残っている。それでも、旅立ちが本当に近づいているのだと感じた。


     *


 夕暮れが近づくころ、オルテンの街はいつもと違う表情を見せ始めた。


 通りには色とりどりの花飾りが吊るされ、店先には小さな灯籠が並んでいる。紙や薄い布で作られた花の中に、魔石の柔らかな光が灯っていた。


 桃色。黄色。淡い青。


 風に揺れるたび、石畳の上にも花の影が揺れる。


 宿屋ブランの前に立ち、通りを見つめた。約束の時間が近づいていた。でも、エマが来るかどうかは分からない。


「やっぱり怒ってるよね」


 鞄の中でフィエルが小さく鼻を鳴らした。


 そのとき。


「……リシェ」


 聞き慣れた声に振り向くと、エマが立っていた。いつもの服とは違い、小さな花模様のついた上着を着ている。だが、その顔は少し不機嫌そうだった。


「エマ……」

「……まだ怒ってるからね」


 腕を組んで言う。


「うん……」

「勝手に遠くへ行くって決めちゃうし」

「……うん」

「わたし、すっごくびっくりしたんだから」


 リシェは俯いた。


「ごめんね」


 しばらく黙っていたエマが、ぽつりと言った。


「……でも」


 顔を上げた。


「お祭り、一緒に行くって約束したもん」


 少しだけ頬を膨らませて続ける。


「約束は守らなきゃだめでしょ」


 目がじわりと熱くなった。


「……うん」


 そっぽを向いたまま、エマが手を差し出した。


「ほら、行くよ」


 その手を握った。


 いつもより少しだけ強く。


     *


 花灯りの市には、見たことのないものがたくさん並んでいた。


 花の蜜を使った小さなお菓子。色鮮やかな紐飾り。押し花を閉じ込めた透明な小瓶。香りのよい乾燥花を詰めた袋。


 最初は少しぎこちなかった二人も、屋台を一つ、また一つと覗いていくうちに、自然と言葉が増えていった。


「リシェ、これ見て!」


 エマが指さしたのは、花びらの形をした焼き菓子だった。


「これ、花灯りの市でしか売ってないんだよ!」

「そうなの?」

「うん。すっごく甘いの!」


 小さな包みを二つ取り出す。


「はい、一つあげる!」

「えっ、いいの?」

「もちろん!」


 少し迷ったが、差し出されたお菓子を受け取った。


「ありがとう、エマ」


 一口かじると、ほのかな蜂蜜の香りが広がった。


「おいしい!」

「でしょ!」


 得意そうに笑うエマにつられて、リシェも笑った。朝から胸につかえていたものが、少しだけ軽くなった気がした。


 通りの向こうでは、楽器を演奏する人たちがいた。軽やかな笛の音に合わせて、子どもたちが踊っている。その近くでは、花の灯籠を作る小さな屋台が賑わっていた。


「あっ、リシェ! あれやろう!」


 指さされた先には、薄い紙でできた花と、小さな魔石が並んでいた。好きな色の花を選び、魔石を入れて灯籠にするらしい。


「でも、お金が……」


 小さく呟くと、エマが首を振った。


「今日は子どもは一つ無料なんだよ!」

「本当?」

「うん! お祭りだから!」


 目を輝かせ、エマと屋台へ向かった。それぞれ花を選び、エマは明るい桃色、リシェは淡い青色にした。


「リシェらしい色だね」

「そうかな?」

「うん。目の色に似てる!」


 少し照れくさくなった。屋台の女性が魔石を入れると、花の中心に柔らかな光が灯った。


 両手で灯籠を持ち上げた。


「きれい」


 青い花びらを通して、光がふんわりと広がっている。そのとき、鞄の中のフィエルが顔を上げた。琥珀色の瞳が、灯籠の少し上を追っている。


「フィエル?」


 首を傾げた。何かがいるのだろうか。だが、リシェには何も見えない。ただ灯籠の周りの空気が、ほんの少し揺らいだ気がした。


 ふわり。


 胸の奥に、温かなものが広がる。


 嬉しい。楽しい。

 誰かが笑っているような、くすぐったい気持ち。


 思わず微笑んだ。


「なんだか、嬉しくなっちゃった」

「え?」


 エマが顔を覗き込んだ、その瞬間だった。


 リシェの灰青色の瞳の奥に、小さな金色の星が浮かんだ。灯籠の光とは違う、澄んだ輝き。ほんの一瞬だけ、きらりと瞬いて消える。


「……あれ?」


 エマが目を丸くした。


「どうしたの?」

「リシェ、今……」

「今?」


 顔を近づけられ、右から、左からと覗き込まれる。戸惑いながら瞬きをした。


「エマ?」

「……目が、きらきらした!」

「え?」

「金色の星みたいなのが見えたの!」


 驚いて、自分の目元に触れた。


「星……?」

「うん! ほんとに、一瞬だけ!」


 エマがもう一度覗き込んだが、そこにはいつもの灰青色の瞳があるだけだった。


「あれえ……?」


 首を傾げるエマに、困ったように笑った。


「灯籠の光が映ったのかな?」

「そうなのかなあ」


 しばらく考えていたエマが、やがて笑顔になった。


「でも、すっごく綺麗だったよ!」

「ありがとう?」


 どう答えていいか分からず、少しだけ笑った。


 フィエルは二人を見上げたあと、何事もなかったように鞄の中へ戻っていった。灯籠の上では、誰にも見えないほど淡い光の粒が、ゆっくりと夜空へ昇っていった。


     *


 祭りが終わりに近づくころ、二人は中央広場の噴水の縁に腰かけていた。周囲には花の灯りがいくつも浮かび、石畳を柔らかく照らしている。


「ねえ、リシェ」

「なあに?」

「アルセインって、どんな街なの?」


 少し考えてから答えた。


「本がたくさんあって、いろんなことを勉強している人がいるんだって」

「へえ……!」

「魔獣のことを調べている人もいるみたい」


 フィエルの頭をそっと撫でた。


「だから、行ってみたいの」

「そっか」


 頷いてからしばらくして、エマが小さな声で言った。


「……やっぱり、行っちゃうんだね」

「……うん」

「わたし、まだ嫌だよ」


 リシェはエマを見た。


「リシェがいなくなるの、嫌」


 膝を抱えて続ける。


「明日も明後日も、一緒に遊べると思ってた」


 胸が痛くなった。


「わたしも、エマともっと遊びたい」

「じゃあ、なんで行くの?」


 責めるような声ではなかった。ただ、本当に分からないというような問いかけに、少し考えた。


「……知らないことが、いっぱいあるから」

「知らないこと?」

「うん。図鑑に載ってる植物も、魔獣も、行ったことのない街も……」


 夜空を見上げた。


「本で読んだだけじゃなくて、自分の目で見てみたいの」


 エマは黙って聞いていた。


「それにフィエルのことも、もっと知りたい」


 鞄の中のフィエルを撫でた。


「だから……行きたいんだ」


 しばらく何も言わなかったエマが、やがてぽつりと呟いた。


「……ずるいなあ」

「え?」

「そんなふうに言われたら、行かないでって言えなくなるじゃん」


 袖で目元を擦る姿に、リシェも目の奥が熱くなった。


「……ごめんね」

「だから、謝らないでってば」


 少しだけ笑ってから、エマがリシェの手を握った。


「じゃあ、約束して」

「うん」

「アルセインで面白いものを見つけたら、いつか教えてね」

「うん!」

「あとオルテンのこと、忘れないで」


 大きく頷いた。


「絶対に忘れない」


 エマがようやく、いつもの笑顔を見せた。


「じゃあ、わたしもリシェのこと忘れない!」


 二人で顔を見合わせた。


 やがて広場の向こうで大きな鐘が鳴った。夜空を見上げると、通りに並んだ花の灯籠が、一斉に明るさを増していく。


 桃色、黄色、青、白。


 まるで地上に花畑が広がったようだった。


「わあ……!」


 息を呑んだ。隣では、エマも同じように空を見上げている。その横顔を見つめ、そっと微笑んだ。


 オルテンで出会った初めての同い年の友達。


 この街を離れても、今日の夜のことは忘れないだろう。


     *


 宿屋ブランへ戻ると、マルタが食堂で待っていた。


「おかえり。楽しかったかい?」

「はい!」


 嬉しそうに答え、手に持っていた青い花の灯籠を見せた。


「これ作らせてもらったんです」

「まあ、素敵だねえ」


 目を細めてから、マルタが尋ねた。


「エマちゃんとは仲直りできたかい?」


 少し考えた。


「はい。でも、まだ寂しいって言ってました」

「そうかい」

「わたしも寂しいです」


 マルタが優しく微笑んだ。


「それでいいんだよ」


 小さく頷いた。


 屋根裏部屋へ戻り、机の上に灯籠を置いた。青い光が、部屋を柔らかく照らす。


 フィエルを布の上に下ろしてから、覚え書きを開いた。


『花灯りの市』

『エマとお菓子を食べた』

『青い花の灯籠を作った』

『エマと、また会う約束をした』


 そこまで書いて、筆記具を止めた。少し考えてから、もう一行を書き加える。


『エマが、わたしの目に星が見えたと言った』


 金色の星。


 エマは、確かにそう言っていた。


 窓辺に置かれた小さな鏡を手に取り、覗き込んだ。そこには、いつもどおりの灰青色の瞳が映っている。


「星なんて、ないよね」


 小さく呟くと、鏡の中の自分が同じように首を傾げた。


 きっと灯籠の光が映ったのだろう。そう思うことにした。


 ただ、覚え書きの最後の一行は消さずに残しておいた。


 机の上では、青い花の灯籠が静かに光っていた。

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