第四十三話 旅立ちの準備
花灯りの市が終わった翌朝、リシェはいつもより早く目を覚ました。
屋根裏部屋の小さな窓から、柔らかな朝日が差し込んでいる。机の上には、昨夜作った青い花の灯籠が置かれていた。魔石の光は消えていたが、薄い花びらは朝の光を受けて、ほんのり青く透けている。
「おはよう、フィエル」
布の上で丸くなっていたフィエルが、琥珀色の目を開けた。手を伸ばすと、銀白色の小さな頭が指先にすり寄ってくる。
「今日はエルダ先生のところに行こうね」
後ろ脚はずいぶんよくなり、短い距離なら自分で歩けるようになっていた。ただ、長く歩かせることはまだ避けていたし、走ろうとすると慌てて抱き上げることもあった。
もうすぐ、八日ほどかけてアルセインへ向かう。荷車に乗るとはいえ、今のフィエルに無理をさせないで済むか、きちんと確かめておきたかった。
青いワンピースに着替え、鞄の中に柔らかな布を敷いた。その上にフィエルを乗せ、覚え書きと財布を確かめる。
財布には、銀脈草を売って得たお金の残りと、その後の仕事で少しずつ貯めた銅貨が入っていた。昨日、商隊に運賃として十八枚を支払ったので、手元のお金はまたずいぶん少なくなった。ハンスから借りた七枚も、まだ返せていない。
財布の紐を結び直した。
「大事に使わなくちゃ」
*
エルダの診療所は朝から静かだった。窓辺には乾燥させた薬草が吊るされ、棚には小さな薬瓶が並んでいる。
「おや、リシェ。今日はどうしたんだい?」
診察台の上を片づけながら、エルダが尋ねた。
「フィエルの脚を診ていただきたくて」
「もちろん。そろそろ前に診てから日も経ったね」
鞄からフィエルをそっと抱き上げた。
「それから、あの……」
「うん?」
「五日後に、アルセインへ行く商隊が出るんです。フィエルも一緒に連れていきたいんですけど、大丈夫でしょうか」
エルダが少し驚いた顔をした。
「アルセインかい。ずいぶん遠くまで行くんだね」
「はい」
「それなら、いつもより念入りに診ておこう」
慎重に脚に触れ、傷の周りを確かめてくれた。最初に診てもらったころは、少し触れられただけでも身を固くしていたフィエルも、今日はおとなしくしている。
「腫れはほとんど引いているね。傷口もきれいに閉じている」
指先でゆっくり曲げ伸ばしされると、フィエルは少し耳を伏せたものの、痛がって脚を引く様子はなかった。
「うん。順調だよ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、治ったからといって、すぐに長い距離を歩けるわけじゃない。筋肉もまだ十分には戻っていないからね」
真剣に頷いて答えた。
「荷車に乗っていく予定です」
「それなら、ずっと歩くよりは負担が少ないだろう。ただ、揺れで脚をぶつけないように、寝床をしっかり作ってあげること」
「はい」
「それから、休憩のときに少しずつ歩かせて、様子を見る。無理に運動させないこと。腫れたり痛がったりしたら、すぐに休ませるんだよ」
覚え書きを開き、言われたことを一つずつ書き留めた。その様子を見て微笑んだエルダが、診察を終えると一枚の紙を取り出した。
「商隊の人にも分かるように、今の状態を書いておこう。長時間の徒歩移動は避けること、荷車での移動は可能と考えられること、それから注意点もね」
「ありがとうございます!」
深く頭を下げた。エルダが紙にさらさらと文字を書き、最後に小さな印を押す。
「旅の途中で脚の様子が変わったら、無理をしないこと。アルセインにも獣医はいるはずだから、必要なら診てもらいなさい」
「はい」
診察料を支払い、紙を大切に覚え書きの間へ挟んだ。帰り際、エルダに呼び止められた。
「リシェ」
「はい?」
「この子を助けて、ここまでよく世話をしたね」
少し驚いてから答えた。
「フィエルも、頑張ってくれたので」
腕の中で小さく鼻を鳴らすフィエルに、エルダが笑った。
「そうだね。二人ともよく頑張った」
*
診療所を出て、その足で商業広場へ向かった。商隊の受付には、昨日と同じ男が座っていた。
「ああ、昨日のお嬢ちゃん」
「こんにちは。フィエルの診察を受けてきました」
差し出した紙に、男が目を通す。
「なるほど。荷車での移動なら問題ない見込み、ただし歩かせすぎないこと、か」
「はい」
「セリナさんにも見せておくよ」
帳面を開き、リシェの名前の横に小さな印を書き加えた。
「それと、ギルドへの確認も済んだよ。ちゃんと登録されているそうだね」
「本当ですか?」
「ああ。身分証の件はこれで大丈夫だ」
胸を撫で下ろすリシェの前で、男が帳面を指で叩いた。
「これで、あとは出発前の最終確認だけだね。道中の食事代や宿代のためのお金も忘れないように」
「はい!」
「フィエルの寝床も、荷車の中で動かないように工夫しておくといいよ」
頷いた。
旅立ちまで、あと四日。
少しずつ、必要なものが揃っていく。
*
午後は、オスカーに借りていた、オルテン周辺の植物について書かれた古い本を返しに本屋へ向かった。
扉を開けると、乾いた紙と木の棚の匂いがした。
「こんにちは!」
「おや、リシェじゃないか」
奥の机で本を整理していたオスカーが顔を上げる。
「借りていた本、ありがとうございました」
布で包んだ本を差し出した。
「とても面白かったです。知らない植物がいっぱい載っていました」
「そうかい。それはよかった」
本を受け取り、表紙をそっと撫でてから、オスカーが尋ねた。
「それで、アルセイン行きの商隊はどうなった?」
「乗せてもらえることになりそうです。運賃も払って、フィエルの診察も終わりました」
「ほう!」
オスカーの顔が明るくなった。
「それはよかった。アルセインなら、君の好きそうな本が山ほどあるよ」
「本当ですか?」
「ああ。もっとも、全部読もうとしたら何年かかるか分からないけどね」
思わず笑うと、オスカーも笑った。それから何かを思い出したように棚の奥へ向かう。
「そうだ。ちょっと待っていなさい」
首を傾げて見ていると、古い木箱を開け、しばらく中を探していた。やがて、二冊の本を手に戻ってきた。
一冊は、少し薄い小型の本。もう一冊は、深い緑色の表紙をした、何も書かれていない新しい帳面だった。
「これを持っていきなさい」
「え?」
目を丸くした。
「こっちは、旅先で出会うことの多い魔獣についてまとめた本だ。古いものだけど、まだ役に立つはずだよ」
開いてみせてもらうと、自分の図鑑には載っていない魔獣の絵がいくつも描かれていた。
「わあ……!」
思わず声が漏れた。
「それから、こっちは新しい覚え書き用の帳面」
緑色の表紙をした帳面も差し出された。
「君の今の覚え書きも、ずいぶん書き込んでいるだろう?」
「はい。でも……」
慌てて首を振った。
「こんなにいただけません。お金も……」
「お金はいらないよ」
「でも……!」
「いいんだ」
オスカーが穏やかに笑った。
「本は誰かに読まれてこそ意味がある。棚の奥で眠っているより君と一緒に旅をした方が、この本も喜ぶだろう」
小型の本を見つめた。表紙の角は少し擦り切れていたが、大切に扱われてきたことが分かる本だった。
「それにね。君がアルセインで何を見つけるのか、私は少し楽しみなんだ」
「わたしが?」
「ああ。図鑑を読んでいるだけでは満足せず、自分の目で確かめようとする子は、そう多くないからね」
本と帳面を両手で受け取ると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……ありがとうございます」
声が少し震えた。
「大切にします」
「うん。たくさん使って、ぼろぼろにしておくれ」
笑うオスカーに、リシェも涙をこらえながら笑った。
*
宿屋ブランに戻ると、マルタが食堂で大きな布を広げていた。
「おかえり、リシェ」
「ただいま帰りました!」
「フィエルの診察はどうだった?」
「順調だそうです。荷車で移動するなら大丈夫そうだって」
「それはよかった」
安心したように頷くマルタに、今日あったことを一つずつ話した。
商隊の身分確認が済んだこと。エルダから注意書きをもらったこと。オスカーが本と帳面をくれたこと。
嬉しそうに聞いていたマルタが、やがて広げていた布を指さした。
「それなら、こっちも仕上げてしまおうか」
「何ですか?」
「フィエルの寝床だよ」
布の上には、小さな綿入りの敷物が置かれていた。厚すぎず、柔らかすぎず、端には紐が縫いつけられている。
「荷車の中で揺れても、鞄の底が痛くならないようにね。紐で留めれば、ずれにくくなるだろう?」
リシェは目を見開いた。
「これ……フィエルのために?」
「そうだよ。余っていた布で作っただけだから、気にしないでおくれ」
そっと触れると、柔らかくて温かかった。
「ありがとうございます」
「ほら、試してみよう」
二人で鞄の底に敷物を入れ、フィエルをそっと乗せてみた。最初こそ匂いを嗅いでいたが、やがてくるりと丸くなる。
「気に入ったみたいですね」
「ふふ、よかった」
マルタが笑うと、リシェも嬉しくなって笑った。
*
その夜。
屋根裏部屋の床に、持ち物をすべて並べていた。
古い図鑑。覚え書き。
オスカーからもらった魔獣の本と、新しい緑色の帳面。
水筒。木のお椀。ガルドからもらった杖。
着替え。エルダからもらった診察の紙。
そして、商隊の木札。
一つずつ確かめながら鞄に入れていくと、ずいぶん膨らんでしまった。
「重い」
持ち上げてみると、思っていた以上にずっしりしている。これにフィエルも入るのだ。
しばらく考え、もう一度中身を取り出した。
すぐに使うもの。
荷車の中で使うもの。
大切だけれど、毎日は開かないもの。
分けて並べてみる。それでも、図鑑と二冊の帳面と魔獣の本は、どれも置いていきたくなかった。
「どうしよう」
敷物の上から顔を上げたフィエルに、苦笑した。
「フィエルの場所がなくなっちゃうね」
小さく首を傾げるフィエルを見ていると、階段を上がってくる足音がした。
「リシェ、まだ起きているかい?」
「はい!」
顔を覗かせたマルタが、床に広がった荷物を見て、事情を察したように笑った。
「荷造りに苦戦しているね」
「はい……」
「明日、商隊の人に聞いてごらん。荷車には、乗客の荷物を置く場所もあるはずだよ」
「あっ!」
顔を上げた。
「全部、自分で持たなくてもいいんですね」
「もちろん、何でも積めるわけじゃないけどね。大きさや重さは確認しておくといい」
「はい!」
覚え書きに、新しく一行を書き足した。
『商隊に、荷物の置き場所を聞く』
その文字を見て、マルタが微笑んだ。
「本当にもうすぐだねえ」
筆記具を止めた。
「はい」
旅立ちまで、あと四日。
オルテンに来たとき、リシェの持ち物はほんの少ししかなかった。今は、鞄に入りきらないほど増えている。
でも、その中には、ただの荷物ではないものがたくさんあった。
ガルドの杖。
ハンスに助けてもらったときの覚え書き。
アンナからもらった服。
オスカーの本。
マルタが作ってくれた、フィエルの敷物。
それらを見渡した。
「マルタさん」
「何だい?」
「わたし、ここに来てよかったです」
少し驚いた顔をしてから、マルタがゆっくりと微笑んだ。
「私も、リシェが来てくれてよかったよ」
リシェも笑った。
窓の外では花灯りの市の飾りが、まだいくつか風に揺れていた。新しい緑色の帳面を手に取り、真っ白な最初のページを開く。
何を書こうか少し迷ってから、一番上に小さく記した。
『アルセインへの旅』
その下には、まだ何も書かなかった。
続きはこれから、自分の目で見つけていくのだから。




