第四十四話 白い花と青い約束
アルセインへ向かう商隊の出発が、いよいよ明日に迫っていた。
この数日、リシェは宿屋の手伝いの合間に採集の仕事を続けていた。銀脈草を見つけたときのような大きな収入はなかったが、朝早くから街の外へ出かけ、薬草を集めてはギルドへ持ち込んだ。
少しずつ増えた銅貨は、旅の途中で必要になる食費や宿代、それからハンスに返すためのお金として、大切に分けてある。まだ余裕があるとは言えないが、アルセインまでの旅費はどうにか用意することができた。
商隊の乗車手続きも、昨日までにすべて済ませている。そのとき、もう一つ気になっていたことを尋ねていた。
「すみません。荷物を預けることはできますか?」
受付の男が、リシェの鞄を見て頷いた。
「乗客用の荷物置き場があるよ。小さな包み一つくらいなら大丈夫だ」
「本当ですか?」
「ああ。ただし、道中で使うものは手元に置いておいた方がいいね」
「分かりました。ありがとうございます!」
これなら、フィエルの場所もちゃんと確保できそうだ。ほっと胸を撫で下ろした。
そして今日は、お世話になった人たちに挨拶をして回るつもりだった。机の上に広げた覚え書きには、いくつもの名前が並んでいる。
『クララさん、ベルトさん』
『アンナさん、エマ』
『マルタさん』
その文字を見つめた。オルテンに来たとき、知っている人は誰もいなかった。それなのに、今はこんなにたくさんの人に、お別れを言わなければならない。
「行こうか、フィエル」
鞄から覗く銀白色の耳が、小さく動いた。
*
採集者ギルドの受付では、クララがいつものように帳面を整理していた。
「こんにちは、リシェ。今日は採集依頼?」
「いえ。あの……明日、アルセインへ出発するんです」
クララの手が止まった。
「まあ、もう明日なの?」
「はい。商隊に乗せてもらえることになりました」
「それはよかった!」
嬉しそうな声を聞いて、奥からベルトが顔を出した。
「どうした?」
「リシェが明日、アルセインへ出発するんですって」
「ほう。いよいよか」
リシェを見下ろし、満足そうに頷く。
「身分の確認も済ませてある。向こうでも、その身分証は大事に持っておくんだぞ」
「はい!」
深く頭を下げた。
「ここでお仕事を教えてもらえたから、旅のお金を貯めることができました。本当にありがとうございました」
「働いたのは君だよ」
ベルトが笑った。
「銀脈草を見つけたのも、君が本を読んで、実際に確かめたからだ」
「でも、ベルトさんが教えてくれなかったら、どこで採集すればいいかも分かりませんでした」
真剣に答えると、少し驚いた顔をしてから、照れくさそうに頭を掻いた。
「……そうか。それなら教えた甲斐があったな」
クララが受付の下から、小さな包みを取り出した。
「これ、持っていって」
「何ですか?」
「乾燥させた薬草よ。旅先で擦り傷を作ったときに使えるものを、少しだけ」
「でも……」
「余った分を分けただけだから、遠慮しないで」
包みを受け取った。
「ありがとうございます。大切に使います」
「それから、アルセインにも採集者ギルドがあるわ。ここの身分証を見せれば、登録の確認をしてもらえるはずよ」
「本当ですか?」
「ええ。ただし、街ごとに受けられる依頼は違うから、向こうでちゃんと説明を聞いてね」
「はい!」
覚え書きに書き留める様子を見て、ベルトが満足そうに頷いた。
「いい旅を」
「はい。ありがとうございました!」
もう一度頭を下げ、ギルドをあとにした。
*
パン屋を訪ねたのは、昼過ぎだった。店先には焼きたてのパンが並び、甘い香りが通りまで漂っている。
「リシェ!」
エマが奥から飛び出してきた。
花灯りの市の夜以来、二人は何度か顔を合わせていた。エマはもう、リシェが旅立つことを責めなかった。だが別れの話になると、時々口数が少なくなる。
「明日なんだよね」
「……うん」
少しだけ俯いたエマの後ろから、アンナが顔を出した。
「リシェちゃん、ちょうどよかったわ」
「アンナさん?」
「渡したいものがあるの」
差し出された布包みの中には、日持ちする焼き菓子と、固めに焼いたパンが入っていた。
「旅の途中で食べてね。商隊の食事もあるでしょうけど、少しくらいおやつがあってもいいでしょう?」
「こんなに……」
驚いて顔を上げた。
「ありがとうございます!」
「それから、服はちゃんと着られている?」
「はい。とても着やすいです」
「よかった。寒い日は上着も忘れずにね」
優しく微笑むアンナの隣で、エマがもじもじしていた。
「……リシェ」
「なあに?」
「これ」
差し出されたのは、小さな花の飾りだった。青い糸で編まれた花に、白い紐がついている。
「わたしが作ったの」
「エマが?」
「うん。お母さんにちょっと教えてもらったけど……ほとんど自分で作ったんだからね」
照れくさそうに鼻を擦って続ける。
「鞄につけられるようにしたの」
両手で受け取った。青い花びらは少し不揃いだったが、丁寧に編まれていた。
「ありがとう」
鞄の紐に結びつけると、小さな青い花が揺れた。
「どう?」
「すごくかわいい!」
嬉しそうなエマの笑顔が、すぐに少しだけ曇った。
「……ほんとに、行っちゃうんだね」
「……うん」
「手紙、書いてよ」
「手紙?」
「うん! アルセインに着いたら、どんな街だったか教えて!」
少し考えた。手紙を送るにはお金も必要だろうし、届け方も知らない。それでも、エマに話したいことはきっとたくさんできる。
「うん。書くね」
「絶対だよ?」
「うん。約束」
差し出された小指に、自分の小指を絡めた。
今度は、離れていても続く約束だった。
*
宿屋ブランに戻ると、マルタが食堂で洗い終えた食器を片づけていた。
「おかえり、リシェ」
「ただいま帰りました」
「みんなに挨拶はできたかい?」
「はい!」
鞄についた青い花飾りを見せた。
「これ、エマが作ってくれたんです」
「まあ、かわいいねえ」
目を細めて、マルタが言った。
「リシェの目の色に似ているね」
「エマも、同じことを言ってました」
嬉しそうに笑うリシェを見て、マルタが少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「いよいよ明日だねえ」
「……はい」
「荷物は全部まとまったかい?」
「あと少しです」
「それなら今日はもう仕事はしなくていいよ。ゆっくり準備をしなさい」
「でも……」
「大丈夫。十分手伝ってもらったからね」
少し迷ったが、頷いた。
「ありがとうございます」
*
その夜。
屋根裏部屋の床に、持ち物をすべて並べていた。
古い図鑑。覚え書き。
オスカーからもらった魔獣の本と、新しい緑色の帳面。
水筒。木のお椀。ガルドからもらった杖。着替え。
エルダからもらった診察の紙。
そして、商隊の木札。
一つずつ確かめながら、鞄に入れていった。
すぐに使うものは手元に。
あまり使わないものは、商隊に預ける包みの中へ。
マルタに教えてもらったとおりに分けると、今度はうまく収まった。最後に、フィエルのための柔らかな敷物を鞄の底に敷く。
「これで大丈夫かな」
鞄の中を覗き込み、満足そうに鼻を鳴らすフィエルに、小さく笑った。
そのとき、階段を上がってくる足音がした。
「リシェ、まだ起きているかい?」
「はい!」
マルタが顔を覗かせた。
「準備はできたかい?」
「はい!」
まとめた荷物を見せると、一つずつ確かめ、最後にフィエルの寝床を整えてくれた。
「これなら大丈夫そうだね」
「はい」
少しの沈黙が落ちた。
マルタを見上げた。
「マルタさん」
「何だい?」
「わたし、ここに来たとき、すごく怖かったんです」
静かに耳を傾けてくれる。
「フィエルは怪我をしていて、お金もなくて、どこに泊まればいいかも分からなくて……」
膝の上で手を握った。
「でも、マルタさんが泊めてくれて、お仕事を教えてくれて……」
声が少し震えた。
「ここに来て、本当によかったです」
マルタの手が、頭を優しく撫でた。
「私も、リシェが来てくれてよかったよ」
唇を噛んだ。
「……寂しいです」
「そうだねえ」
マルタの声も、少しだけ柔らかくなった。
「でも、リシェが行きたい場所へ行けるのは嬉しいことだよ」
頷くリシェを前に、マルタが立ち上がり、扉のところで振り返った。
「明日は朝ご飯を包んでおくからね。寝坊しないように」
「はい!」
扉が閉まると、部屋は静かになった。
机の上に置いた青い花の灯籠を見つめた。持っていくには、少し壊れやすい。迷った末、窓辺に残すことにした。
この部屋で過ごした夜を、忘れないために。
*
翌朝。空はまだ薄暗かった。
鞄を背負い、荷物の包みを抱えて階段を下りると、食堂にはマルタが待っていた。
「おはよう、リシェ」
「おはようございます」
「朝ご飯、持っていきなさい」
差し出された包みには、パンとゆで卵、それから小さな果物が入っていた。
「ありがとうございます」
受け取って鞄にしまうと、マルタが服の襟を整えてくれた。
「寒くなったら、ちゃんと上着を着るんだよ」
「はい」
「食事は抜かないこと」
「はい」
「フィエルにも無理をさせないこと」
「はい!」
マルタが笑った。
「よし。それなら大丈夫だ」
深く頭を下げた。
「本当に、お世話になりました」
しゃがんだマルタに、そっと抱きしめられた。驚いたが、すぐにその背中へ腕を回した。
温かかった。
孤児院を出てから、誰かにこんなふうに抱きしめられたのは、初めてだった。
「元気でね、リシェ」
「……はい」
声が少し震えた。体を離したマルタが、優しく微笑む。
「さあ行っておいで」
頷いた。
白い花の看板が揺れる宿屋ブラン。何度も出入りした扉。温かな食堂。屋根裏の小さな部屋。
最後にもう一度振り返った。
「行ってきます!」
笑顔で手を振るマルタの声が返ってきた。
「行ってらっしゃい!」
*
商業広場には、すでに何台もの荷車が並んでいた。馬たちが白い息を吐き、商隊の人々が荷物を積み込んでいる。
木札を握りしめ、受付の男を探した。
「ああ、リシェ! こっちだよ」
手を振って呼んでくれた。
「荷物はこれだけ?」
「はい」
「じゃあ、その包みは荷物置き場へ。鞄は手元に持っていていいよ」
言われたとおりに荷物を預けた、そのときだった。
「リシェー!」
聞き慣れた声に振り向くと、エマが走ってきた。その後ろには、アンナもいる。
「エマ!」
息を切らしながら、エマが目の前で立ち止まった。
「間に合った……!」
「どうしたの?」
「お見送りに決まってるでしょ!」
少し怒ったように言う。
「勝手に行っちゃったら、また怒るところだったんだから!」
思わず笑った。
「ごめんね」
「だから、謝らないでってば!」
エマも笑った。近づいてきたアンナが、リシェの肩にそっと手を置く。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「はい。ありがとうございました」
深く頭を下げると、エマが鞄についた青い花飾りを見つけた。
「あっ、つけてくれてる!」
「うん。ずっとつけていくね」
嬉しそうに笑ったエマの目が、すぐに潤んだ。
「……リシェ」
「うん?」
「やっぱり、寂しい」
リシェも、胸がぎゅっとなった。
「……わたしも」
唇を噛んだエマが、勢いよく抱きついてきた。
「絶対、手紙書いてよ!」
「うん!」
「忘れちゃだめだからね!」
「忘れないよ!」
しばらく抱き合っていると、商隊の鐘が鳴った。
「出発するよ! 乗る人は急いで!」
セリナの声が広場に響く。エマがゆっくりと体を離した。
「……行ってらっしゃい」
涙をこらえながら笑った。
「……行ってきます」
荷車の踏み台に足をかけ、フィエルを抱えて慎重に乗り込んだ。座席に腰を下ろすと、窓の外にエマとアンナの姿が見えた。
二人が大きく手を振っている。リシェも精いっぱい振り返した。
やがて、荷車がゆっくりと動き始めた。
車輪が石畳を踏む音。馬の蹄の音。人々の声。
オルテンの街並みが、少しずつ後ろへ流れていく。窓から身を乗り出し、二人が見えなくなるまで手を振った。
そして、最後に白い花の看板が小さく見えた気がした。
宿屋ブラン。マルタ。エマ。アンナ。
オスカー。エルダ。クララとベルト。
オルテンで出会った人たちの顔が、次々に浮かんだ。
鞄の青い花飾りにそっと触れた。
「ありがとう」
小さな声は、車輪の音に紛れて消えた。
膝の上で顔を上げたフィエルの頭を撫でる。
「行こうね、フィエル」
琥珀色の瞳が細められた。
街の門が近づく。その向こうには、朝日に照らされた街道が続いていた。
一度だけ振り返ると、オルテンの屋根が朝の光の中で輝いていた。
それから前を向いた。
荷車は門を抜け、広い街道へと進んでいった。
アルセインへ向かう、新しい旅が始まった。




