第四十五話 揺れる馬車、新しい出会い
車輪が小石を踏むたび、座席がかたんと揺れた。
馬車の縁に手を添え、リシェは後ろを振り返った。オルテンの街が少しずつ遠ざかっていく。さっきまで一つひとつ見分けられた建物も、今は重なり合って見えた。街道が緩やかに曲がると、その端から木々の向こうへ隠れていく。
もう、見送ってくれた人たちの姿は見えなかった。
鞄につけた青い花飾りにそっと触れた。
エマに手紙を書くとき、何から話そう。
馬車に乗ったこと。
街の外には、こんなに広い空があること。
まだ出発したばかりなのに、書きたいことを考えると、少しだけ胸が弾んだ。
最後に残っていた屋根が見えなくなると、やっぱり寂しかった。
「また来ようね」
鞄の中のフィエルへ小さな声で話しかけると、柔らかな布の上で丸くなっていた顔が上がった。銀白色の耳が動き、鼻先が指に寄せられる。
その額を撫でてから、鞄が倒れないよう自分の隣へ置き直した。
馬車がまた大きく揺れる。
「あっ」
膝に載せていたノートが滑り、慌てて両手で押さえた。
「足元の荷物に挟んでおくといい。ここは、まだ少し揺れるから」
向かいから聞こえた声に顔を上げると、同じ馬車に乗っていた男の人がノートを見ていた。
灰色がかった淡い金色の髪が、肩のあたりへまっすぐ流れている。すらりとした体を座席に落ち着け、馬車が揺れても慌てる様子はなかった。
「ありがとうございます」
ノートを閉じ、足元の荷物の間へ差し込んだ。顔を上げかけて、その人の耳に目が留まる。
髪の間からのぞく耳の先が、細く尖っていた。
瞬きをして、もう一度見た。
本で読んだことがある。だが挿絵で見るのと、目の前にいるのとでは全然違った。
「何か、気になる?」
深い緑色の瞳がこちらを向き、自分がじっと見つめていたことに気づいた。
「ご、ごめんなさい」
慌てて視線を下げる。
「その……耳が」
口にしてから、こんなことを言ってよかったのかと心配になった。整った顔は、黙っていると少し冷たく見える。怒らせてしまっただろうか。
でも、その人はリシェを見てわずかに笑った。
「エルフを見るのは、初めて?」
笑うと、さっきまで近寄りがたく見えた顔が柔らかくなった。リシェは小さく頷いた。
「本では知っていました。でも、会ったことはなくて」
「そう」
「本にも耳が尖っているって書いてありました」
そこまで言って、また耳を見そうになり、その人の顔へ視線を戻した。相手の口元がもう一度緩む。
「本のとおりだった?」
「はい」
リシェも、少しだけ笑った。
「でも絵より……ずっと、よく分かります」
うまく説明できなかった。本の中では、エルフは知らない土地に暮らす、知らない人たちだった。
今は同じ馬車に座っていて、リシェが落としかけたノートを気にしてくれている。
それが、なんだか不思議だった。
「私はリシェです」
「ゼフィリス。ゼフィでいい」
「ゼフィさん」
覚えるように繰り返すと、ゼフィが頷いた。その視線がリシェの隣へ移る。
鞄から顔を出したフィエルが、二人を見上げていた。
「その子は?」
「フィエルです。一緒に旅をしています」
名前を呼ばれたフィエルの耳が立った。
「まだ後ろ脚に怪我があって。長くは歩けないんです」
「それで、鞄に」
「はい。中に布を入れてあります。揺れて、痛くならないといいんですけど……」
鞄の中を覗くと、フィエルが体の向きを少し変え、布へ顎を載せた。苦しそうな様子はない。耳の後ろを撫でると、ゆっくり目を細めた。
「今は落ち着いているようだね」
「はい」
ゼフィはそれ以上、手を伸ばして触ろうとはしなかった。フィエルもしばらくゼフィを眺めたあと、目を閉じた。
街道の両側には畑が広がっていた。風が吹くと、伸びた葉が一斉に傾く。その向こうには低い丘があり、さらに遠くには霞んだ山の形が見えた。
馬車の外へ顔を向けた。オルテンへ向かっていたときは、歩く足元やフィエルの怪我のことばかり気になっていた。
こうして座って眺めると、遠くまで見える。道は丘の向こうへ続いているのに、その先に何があるのかは、まだ分からなかった。
「ゼフィさんも、アルセインへ行くんですか?」
「ああ」
「私もです。図書館にたくさん本があるって聞いて」
「何の本を読みたい?」
「植物と魔獣の本です」
答える声が、少し大きくなった。
「知らない植物が、まだたくさんあるので。それに、フィエルのことも、もっと調べたいです」
足元の荷物を見た。古い『大陸の植物と魔獣』も、オスカーの店で手に入れた本も、そこに入っている。
「本は持ってきたんです。でも、書いていないこともあって」
「実際に見て、気づいたこと?」
「はい。葉の色が絵と少し違ったり。同じ植物でも、大きさが違ったりします」
ゼフィは、話の先を待つようにリシェを見ていた。
「だから、見つけたらノートに書いています。あとで忘れないように」
「さっきのノートだね」
頷いたそのとき、街道脇に小さな白い花が見えた。幾つかの花がまとまって、草の間から顔を出している。
「あ」
思わず座席から身を乗り出しかけると、馬車が揺れ、縁を掴んだ手に力が入った。
「座ったままで」
ゼフィの声に、腰を戻した。
「はい」
白い花は、もう後ろへ流れていった。
「知っている花?」
「たぶん。でも、葉がよく見えませんでした」
遠ざかった場所を振り返った。花だけなら似ているものを知っている。でも茎や葉を見ないと、同じものかどうかは分からない。
「止まっていたら、確かめられるのに」
つい、残念な気持ちが声に出た。
「休憩のときなら、近くを見られるかもしれないね」
「はい。次は葉も見ます」
「足元もね」
自分が身を乗り出したことを思い出し、少し恥ずかしくなった。責めるような言い方ではなかったが、馬車の縁から手を離して座り直した。
しばらく進むうちに、畑はまばらになり、道のそばに木々が増えた。木陰を通ると、頬に当たる風が涼しい。
景色を眺め、ときどき鞄の中を確かめた。眠っているフィエルも、馬車が強く揺れると耳だけ動かす。その様子が少しおかしくて、声を立てずに笑った。
やがて前の方から声が届いた。馬車の進み方がゆっくりになり、道の脇へ寄っていく。先を走っていた馬車も、木々のそばに広がる平らな場所で止まっていた。
休憩らしい。
車輪が止まっても、体の中にはまだ揺れが残っている気がした。ノートをしまい、フィエルの鞄を持ち上げると、先に降りたゼフィが振り返った。
「鞄を持とうか」
「お願いします」
両手で渡すと、フィエルが入っている方を確かめてから、静かに受け取ってくれた。
足を下ろす場所を見て、慎重に馬車から降りた。地面を踏んだ途端、膝が少し頼りなく感じる。踏ん張って立つと、ゼフィが鞄を返してくれた。
「ありがとうございます」
周りでは、大人たちが馬の様子を見たり、荷物を確かめたりしていた。止まったからといって、皆がすぐに座るわけではないらしい。
邪魔にならないよう馬車のそばへ寄り、フィエルの顔を覗いた。
「少し外の空気を吸おうか」
鞄の口を開くと、小さな鼻先が出てきた。
「その子、狐?」
声に振り向くと、黒髪の少年が少し離れたところに立っていた。リシェより年上だろうか。目が合うと、フィエルを指さす代わりに、鞄の方へ軽く顔を傾けた。
「さっき馬車から見えたんだ」
「フィエルっていいます。魔獣です」
「へえ。そんなに小さいんだ」
興味深そうに見ていたが、すぐに触ろうとはしなかった。
「俺はエリオ。君は?」
「リシェです」
「リシェもアルセインまで?」
「うん」
「じゃあ、しばらく一緒だな」
気軽な笑顔とその言い方に、肩から少し力が抜けた。
知らない人ばかりの商隊で、これから何日も過ごす。出発するときは、うまく話せるか心配だった。
だが同じ馬車にはゼフィがいて、今は目の前にエリオがいる。
「よろしくね」
「うん、よろしく」
風が吹き、鞄についた青い花飾りが揺れた。それを手で押さえながら、リシェはもう一度エリオへ笑いかけた。




