第四十六話 焚き火を囲む夜
日が傾く頃には、リシェは馬車の揺れに少し慣れていた。だが、地面へ降りてみると、お尻も背中も固まっている。鞄を抱え直しながら、そっと腰を伸ばした。
「ずっと座ってるのも、疲れるだろ」
「うん。歩いていないのに」
「最初は俺も、座ってれば楽だと思ってた」
隣で両腕を伸ばしたエリオが、馬車の荷台へ振り返る。
「でも今日はもう移動しないから」
今夜は街道脇の開けた場所で野営するらしい。馬車が並び、馬が順に外されていく。人々が荷物を下ろし始めると、静かだった場所はたちまち忙しくなった。
水を運ぶ人。馬を世話する人。鍋や食器を出す人。
誰もが迷わず動いていることに驚いた。どこから手をつければいいのか、リシェには分からない。
「エリオ、そちらを持ってくれるか」
「うん」
黒髪の男の人に呼ばれ、エリオが荷台へ近づいた。二人で木箱を持ち上げ、馬車のそばへ下ろす。
「父さん。この子、リシェ。アルセインまで一緒なんだ」
箱から手を離したエリオが振り返ると、男の人もこちらへ顔を向けた。
「ローレンです。息子が、もうお邪魔していたようですね」
「邪魔してないよ」
すぐに口を挟んだ息子を見て、ローレンが穏やかな顔に笑みを浮かべた。
「それならよかった」
「リシェです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。長い道のりですから、困ったことがあれば声をかけてください」
リシェが頷くと、次の荷物へ手を伸ばしかけたエリオが、ふと思いついたように父親を見上げた。
「父さん、夕飯の準備、手伝ってきてもいい?」
「この箱を確かめてからなら」
「下ろしたよ?」
「留め具が緩んでいないか、見ておこう」
エリオが木箱へ目を落とした。リシェも見ると、蓋を押さえている留め具の一つが、少し浮いていた。
「あ」
「揺れたからね。次に積むとき慌てないように」
ローレンが留め具を直し、もう片方をエリオに任せる。指で確かめてから、エリオが蓋を軽く押した。
「これでいい?」
「ああ。ありがとう」
仕事を終えると、リシェのところへ戻ってきた。
「行こう」
「私も何かしていいの?」
「聞けばあると思う」
その言葉に、少し安心した。
まずフィエルの鞄を、安全なところへ置かなければならない。自分が乗ってきた馬車へ戻ると、ゼフィが荷物を下ろしていた。
「ここにフィエルを置いても大丈夫ですか?」
車輪のそばを示すと、周囲を見てから場所を教えてくれた。
「もう少しこちらへ。荷物を運ぶ人が通るから」
促されたのは、車輪から離れた平らな地面だった。そこに鞄を置き、フィエルが顔を出せるよう口を開ける。
「夕飯のお手伝いに行ってきます」
耳を動かして見上げてくるフィエルに、鍋の支度をしている場所を指さした。
「すぐそこだよ」
額を撫でると、その手へ鼻先を寄せてきた。もう一度、鞄が傾いていないことを確かめてから、エリオを追った。
茶色の髪を短く結んだ、日に焼けた肌の女性が、人々の間を歩いていた。
「水はこちらへお願いします。火のそばに荷物を寄せすぎないように」
セリナだった。旅への参加を相談したときと同じ、落ち着いた声だった。
指示を出しながら周囲を見渡し、リシェたちに気づくと足を止めた。
「どうしたの?」
「夕飯の手伝い、何かある?」
エリオの問いに、セリナがリシェへ視線を移す。
「リシェも手伝ってくれるの?」
「はい。できることがあれば」
「助かるわ。馬車に長く乗って疲れなかった?」
「少し。でも大丈夫です」
「無理はしないでね。今夜、休む場所は食事のあとで案内するわ。それまでは、この馬車の並びの内側にいて。暗くなると、少し離れただけでも戻る場所が分かりにくくなるから」
「はい」
馬車を見回した。昼間はどこも明るく見えたのに、木々の下はもう薄暗い。
セリナが食事の支度をしている人に声をかけ、二人の仕事を見つけてくれた。リシェに渡されたのは、小さなかごと、泥のついた根菜だった。
「これを洗ってもらえる? 水はその桶を使ってね」
袖を上げた。エリオは食器を並べる係になったらしい。重ねた椀を持って、すぐそばにしゃがんだ。
根菜の表面を指でこすり、泥を落とす。水は冷たかったが、座り続けていた体を動かすのは気持ちがよかった。
「料理、できる?」
「少しだけ。エリオは?」
「食べる方が得意」
思わず笑うと、椀を並べながらエリオが言った。
「でも数を間違えると困るから、こっちも大事なんだぞ」
数えていた途中で眉を寄せる。
「……今いくつだった?」
「私、数えてなかった」
「笑わせるから」
「エリオが言ったんだよ」
口を尖らせたエリオも、やがて自分で笑い出した。今度は椀を一つずつ指で示しながら、数え直す。
洗い終えた根菜をかごへ入れた。最後の一つは小さなくぼみに泥が残っている。爪の先で取ろうとしていると、エリオが横から覗いた。
「まだ洗ってるの?」
「ここがなかなか取れなくて」
「俺ならもう終わりにしてる」
「土が入っちゃうよ」
見せると、少し考えてから返事があった。
「……それは嫌だな」
もう一度水に浸けてこすると、泥がようやく落ちた。
かごを渡す頃には、焚き火が燃え始めていた。鍋が火に掛けられ、少しずつ食べ物の匂いが漂ってくる。
「お、働いてるな」
明るい声とともに、短い明るい茶髪の男の人が薪を抱えて歩いてきた。鍛えられた腕から薪を下ろし、リシェたちを見る。
「二人とも腹が減ったか?」
「減った」
エリオが即答した。リシェも頷くと、男の人が笑った。
「俺もだ。もう少しの辛抱だな。リシェ、だったよな?」
「はい」
「護衛についているルークだ。道中、何かあったら呼んでくれ」
気軽な話し方に、リシェも自然に返事ができた。
焚き火へ薪を一本足したルークが、エリオの並べた椀を見る。
「今日はちゃんと俺の分もあるか?」
「前のことまだ言うの?」
「食べ損ねるところだったからな」
「ちゃんとあるって」
エリオが椀を一つ持ち上げると、満足そうに頷き、ルークはほかの護衛のいる方へ歩いていった。
リシェは小声で尋ねた。
「前はなかったの?」
「一つ足りなかっただけ」
「ルークさんの分?」
「たまたま、最後に来たのがルークだったんだよ」
そう言ってから、エリオが椀の数をもう一度確かめた。
夕食ができる頃、空には夕焼けの色がわずかに残っていた。フィエルの鞄を自分のそばへ移し、温かな煮込みの入った椀を受け取る。
両手にじんわり熱が伝わった。息を吹きかけ、一口食べた。
洗った根菜は柔らかくなっていた。馬車を降りたときは、こんなに空腹だと気づいていなかったのに、食べ始めると匙が止まらない。
「おいしい」
「外だと、いつもよりうまい気がするんだよな」
隣でエリオも食べている。
少し離れたところにゼフィが腰を下ろした。ローレンは食事を取りながら、ほかの商人と言葉を交わしている。セリナは人々の様子を確かめてから、ようやく自分の椀を手にした。
焚き火の向こうで誰かが笑う。
薪がはぜた音にフィエルの耳がぴくりと動き、リシェは匙を止めて、その背をそっと撫でた。少し驚いた気持ちが伝わってきたが、すぐに落ち着いた。
「大丈夫。火の音だよ」
フィエルはリシェを見上げ、また布の上へ顎を載せた。
食事を終えると、辺りはすっかり暗くなっていた。火の届く場所は明るい。でも、その外に立つ木々は、幹も枝も黒く重なって見える。
昼間なら歩いて確かめたくなっただろう場所も、今はずっと遠く感じた。
「夜は交代で見張るんだ」
リシェの視線に気づいたエリオが言った。
「みんな眠らないの?」
「順番。ずっと起きてたら、明日が大変だろ」
向こうではルークが別の護衛と話していた。昼間と同じ明るい声だったが、話しながら、ときどき暗い道へ目を向けている。
その姿をしばらく見ていた。
自分が食べたり眠ったりしている間にも、誰かの仕事が続いている。
椀を並べることも、荷物の留め具を見ることも、馬の世話も。今日、見ていなければ、どれも気づかなかったかもしれない。
あとでノートに書こう、とリシェは思った。
セリナに休む場所を教えてもらい、荷物を整えたあと、焚き火のそばでノートを開いた。見つけた白い花は名前を決めずに書き留め、続けて商隊で見たことを書いていく。フィエルは隣で丸くなっていた。
「何書いてるんだ?」
エリオが覗き込む。
「今日のこと」
「俺も書いた?」
「うん」
「どこ?」
名前のある行を指すと、嬉しそうに読みかけたエリオが途中で止まった。
「……椀の数を二回確かめた、って」
「三回だった?」
「そこは書かなくていいだろ」
リシェが笑うと、エリオもつられて笑った。
「じゃあ明日はもっといいことを書いてもらうからな」
「どんなこと?」
少し考えてから、エリオが胸を張った。
「旅のこと。まだいろいろ教えられるし」
「じゃあ私も何か教えるね」
「植物?」
「見つかったら」
ノートを閉じた。
明日は何が見つかるだろう。今度こそ、あの白い花の葉を見られるかもしれない。
焚き火の上へ、小さな火の粉が舞い上がった。目で追って顔を上げると、木々の間に星が見えた。
リシェはしばらく、そのまま空を眺めた。




