第八話 商会からの使者
迎えの日まで、あと二日。
朝から孤児院は慌ただしかった。玄関の石段は水で洗われ、客間には新しい花が飾られている。廊下を行き交う職員たちの足音も、いつもより少し速い。
リシェは食堂の隅で、磨き終えた食器を棚に戻していた。
「今日は会頭様のお使いの方がいらっしゃるのよ」
職員の一人が言った。
「失礼のないようにね」
「はい」
頷いた。昨日からずっと考えていたことがある。会頭はどんな人なのか。屋敷にはほかにも子どもがいるのか。そこでは何をして暮らすのか。もし使者に会えたら聞いてみよう。そう決めていた。
*
昼前、孤児院の門の外に馬車が止まった。窓から覗くと、深い緑色の車体に金色の紋章が描かれている。
馬車から降りてきたのは、灰色の髪をきれいに撫でつけた男だった。年齢は四十歳くらいだろうか。濃紺の上着に白い手袋を身につけ、磨かれた靴には泥一つもついていない。
男は玄関で院長に深く頭を下げた。
「ヴァルツ商会より参りました。会頭の代理として、ご挨拶に伺いました」
穏やかな声だった。院長は何度も頷きながら、男を客間へ案内した。リシェは廊下の端からその様子を見ていた。
男が一度だけこちらを向き、目が合った。柔らかく微笑む男に、小さく頭を下げた。
*
しばらくして、客間へ呼ばれた。男は窓際の椅子に腰掛けていた。テーブルには紅茶と、小さな焼き菓子が並んでいる。
思わず菓子に目を向けた。表面に砂糖がまぶされた丸い菓子だった。町の菓子屋で見たことがある。でも食べたことはなかった。
「君がリシェさんですね」
男が言った。
「……はい」
「私はヴァルツ商会で会頭の仕事をお手伝いしている者です。今日は君にお会いできるのを楽しみにしていました」
男は丁寧に微笑んだ。
「会頭も君が来る日を心待ちにしていますよ」
「……そうですか」
「どうぞ座ってください」
向かいの椅子に腰掛けた。院長は隣に立ったままだった。
「お菓子もどうぞ」
男が皿を差し出す。少し迷ってから、一つ手に取った。口に入れると、ほろりと崩れた。甘い。バターの香りが広がる。思っていたよりずっと甘かった。
「……ありがとうございます」
男は満足そうに頷いた。
「会頭のお屋敷ではこうした菓子もよく出されます。きっと気に入っていただけるでしょう」
菓子をゆっくり飲み込んだ。毎日こんなものが食べられるなら、少し嬉しいかもしれない。だが聞きたいことは別にあった。
「あの……」
「何でしょう?」
「会頭さんはどんな方ですか?」
男はすぐに答えた。
「たいへん立派な方ですよ。多くの人を助け、恵まれない子どもたちにも心を配っておられます」
「……どんなことが好きなんですか?」
男は一瞬だけ瞬きをした。
「好きなこと、ですか?」
「はい。本を読むとか、散歩するとか……」
男は微笑んだ。
「お忙しい方ですから、なかなか自由な時間はありませんね」
「……そうですか」
膝の上で手を重ねた。立派な人。親切な人。忙しい人。それは何度も聞いた。でもどんな人なのかは、やっぱりよくわからなかった。
*
「もう一つ聞いてもいいですか?」
顔を上げた。
「もちろんです」
「……お屋敷にはほかにも子どもがいるんですか?」
男の手が、紅茶のカップのそばで止まった。ほんの一瞬だった。すぐに、穏やかな笑みが戻る。
「会頭は、これまでにも多くの子どもたちを支援してこられました」
「一緒に暮らしているんですか?」
「皆それぞれにふさわしい環境で大切にされていますよ」
首を傾げた。
「それは同じお屋敷ということですか?」
男は答える前に、紅茶を一口飲んだ。
「会頭は子どもたち一人ひとりの将来を考えておられます」
男を見つめた。質問したことと、少し違う答えだった。
「……その子たちに、お手紙は書けますか?」
「お手紙?」
「はい。先に暮らしている子がいるなら、どんなところなのか聞いてみたくて」
男は静かにカップを置いた。
「心配はいりませんよ、リシェさん。君が不自由することはありません」
その声は最初と変わらず優しかった。
だがリシェは気づいた。この人も答えてくれない。院長も職員たちも、みんな同じだった。
心配はいらない。きっと大丈夫。そればかりだった。
「……わかりました」
小さく答えた。隣で院長が安堵したように微笑んだ。
*
話が終わると、男は立ち上がった。
「では、二日後にお迎えに参ります」
院長が深く頭を下げる。
「どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。準備は予定通り進めていただければ結構です」
男はリシェに向き直った。
「新しい暮らしを楽しみにしていてくださいね」
「……はい」
頭を下げた。男は最後まで穏やかな笑みを崩さなかった。客間の扉が閉まり、廊下を遠ざかる足音が聞こえた。
しばらく、その場に立っていた。何かおかしなことを言われたわけではない。怖い顔をされたわけでもない。むしろ、親切だった。お菓子もおいしかった。
それなのに。
どうして、少しも安心できないのだろう。
*
夕方、書庫へ向かった。いつもの図鑑を開いたけれど、今日は文字が頭に入ってこなかった。
会頭は立派な人。子どもたちは大切にされている。心配はいらない。男の言葉を頭の中で繰り返す。
図鑑を閉じた。
「……何もわからなかったな」
小さく呟く。そのとき書庫の扉がかたりと鳴った。顔を上げたが、扉は閉まっている。
次の瞬間、机の上の街道案内がひとりでに開いた。
ぱらり。
ぱらり。
ページがめくれる。それを見つめていると、やがてあるページで止まった。
カルンの西へ伸びる街道。森の向こうにある小さな町。オルテン。その名前を指でなぞった。
「……また、ここ」
偶然だろうか。古い本だから、同じところが開きやすいのかもしれない。今日はなぜだか、その道が気になって仕方なかった。
もし二日後に馬車へ乗ったら、そのまま知らない屋敷へ連れていかれる。自分が望んでいるかどうかも、わからないまま。
地図を見つめた。その道とは別に、西へ向かう道がある。自分の足で歩いていける道が。
胸の奥で、小さな決心が形になり始めていた。
*
夜、寝台の下から布袋を取り出した。中には着替え一組と銅貨三枚、それから書庫で書いた小さな覚え書きが入っている。
袋の口を開き、しばらく中を見つめた。まだ逃げると決めたわけではない。二日後になれば、もう選べなくなるかもしれない。袋を閉じた。
窓の外には星が瞬いている。いつもと変わらない夜空だった。
そのとき、寝台の足元で小さな音がした。
とん。
顔を上げた。暗い部屋には、誰もいない。けれど、もう一度。
とん、とん。
今夜の音はいつもより少し速かった。まるで、誰かが落ち着かずに歩き回っているようだった。
「……どうしたの?」
小さく呟いた。返事はなく、ただ足元の布袋が、ほんの少しだけ揺れた。
それをじっと見つめた。昔から、この孤児院では不思議なことが起こる。それを怖いと思ったことはほとんどなかった。でも今夜はいつもと少し違う気がした。
布袋を寝台の下へ戻した。
迎えの日まで、あと二日。
明日が終われば、もうその次の日には馬車が来る。毛布の中で、そっと拳を握った。
まだ決めていない。もう決めなくてはいけない。そんな気がしていた。




