第七話 小さな旅支度
迎えの日まで、あと三日。
リシェは朝の鐘が鳴る前から目を覚ましていた。昨夜、何度も考えたことがある。もしも孤児院を出るなら、何を持っていけばいいのだろう。寝台の上で指を折ってみる。
服。食べ物。水。それから地図。
四つ数えたところで、手を止めた。お金も必要だ。でも、ほとんど持っていなかった。
小さな銅貨が三枚。それが、今まで大切にしまってきた全財産だった。市場で甘いパンを買うには足りるだろうか。でも遠くの町まで行くには、きっと全然足りない。
「……困ったな」
小さく呟いた。それでも考えることをやめなかった。何も知らないまま、誰かに連れて行かれるよりは、自分で考えて、自分で決めたかった。
*
朝食のあと、裏庭の仕事を任された。古い木箱を倉庫へ運び、使わなくなった布をまとめる。倉庫の中は埃っぽく、乾いた木の匂いがした。
棚の下に、小さな布袋が落ちているのを見つけた。口を結ぶ紐が片方だけほつれている。中は空っぽだった。
「……これ、使えるかな」
布袋を持ち上げた。古くはあるけれど、穴は開いていない。少し直せば、服や食べ物を入れられそうだった。
ちょうど通りかかった職員に尋ねる。
「あの、この袋もう使わないんですか?」
「それ? 古いものだから捨てるつもりだったけれど」
「……もらってもいいですか?」
「構わないわよ。どうせ捨てるものだもの」
「ありがとうございます」
袋を胸に抱えた。初めて旅に使えそうなものが手に入った。そう思うと少しだけ嬉しかった。
*
昼過ぎ、また書庫にいた。机の上にはいつもの図鑑と古い街道案内が並んでいる。
地図を開き、カルンの位置を確かめた。西へ向かう街道は、森の近くを通り、いくつかの小さな村を抜けている。その先にはオルテンという町がある。
昨日まで、ただの名前だった場所。でも今は、そこへ続く道を何度も目で追っていた。
カルンから歩いてどれくらいかかるのだろう。地図には距離が書かれていたが、実際の長さは想像できなかった。一日歩けば着くのか。それとも三日かかるのか。それとも、もっとずっと遠いのか。
図鑑を開いた。森で食べられる植物、水辺に生える草、魔獣が好む場所。何度も読んだページを、今度は違う気持ちで眺める。
これまでは、いつか見てみたいと思いながら読んでいた。今は、もし本当に森へ行くなら、何を知っておかなければならないのかを考えている。
小さな紙切れに、覚えておきたいことを書き始めた。
『知らない実は食べない』
『水は、できるだけ流れているところから』
『夜は、明かりを目立たせない』
『魔獣の足跡を見つけたら、近づかない』
書き終えてから、紙を見つめた。図鑑にはもっとたくさんのことが書いてある。全部を覚えることはできない。
「……やっぱり本を持っていきたいな」
表紙を撫でた。職員には持ち出せないと言われている。それでもこの本があれば、少しだけ安心できる気がした。
そのとき、棚の奥から小さな音がした。
かたり。
顔を上げたが、何も落ちていない。ただ書庫の扉が少しだけ開いていた。さっき閉めたはずなのに。
「……風かな」
立ち上がり、扉を閉めた。戻ってくると、机の上の街道案内が開いたままになっていた。ページの端がかすかに揺れている。
それを押さえた瞬間、指先に冷たいものが触れた気がした。まるで誰かの指が一瞬だけ重なったような。
手を引いた。何もない。
「……?」
しばらく見つめていたが、やがて小さく首を振った。古い書庫は少し冷える。きっとそのせいだろう。
*
夕方、食堂の片づけを手伝っていた。鍋の底には、少しだけ煮込んだ野菜が残っている。職員がそれを別の器に移しながら言った。
「明日は会頭様のお使いの方がいらっしゃるそうよ」
手を止めた。
「……お使いの方?」
「ええ。迎えの準備を確かめに来られるんですって」
「……そうですか」
「リシェの服もきちんと整えておかなくてはね」
職員はそう言って、食器を重ねた。リシェは黙って頷いた。
明日誰かが来る。その人は会頭のことを知っているのだろうか。ほかの子どもたちのことも知っているのだろうか。もし尋ねたら答えてくれるだろうか。
濡れた皿を布で拭きながら、そんなことを考えていた。
*
夜、寝台の下から小さな布袋を取り出した。昼間に倉庫でもらったものだ。ほつれた紐を結び直し、口を開いてみる。
中に入れられそうなのは、着替え一組と小さな水筒くらい。図鑑を入れたら、ほとんどいっぱいになってしまう。
少し考えてから、布袋を畳んだ。まだ逃げると決めたわけではない。でも、もしそのときが来たら、何も持たずに飛び出すよりは少しだけましなはずだ。
枕の下から銅貨を取り出した。一枚。二枚。三枚。手のひらに並べると、小さな銅貨は月明かりを受けて鈍く光った。
「……三枚かあ」
思わずため息が出た。旅の本に出てくる冒険者たちは、剣や丈夫な靴、大きな鞄など、もっと立派な装備を持っている。
リシェには何一つない。魔法だって使えない。それでも考えれば考えるほど、誰かに連れていかれる未来より、自分の足で歩いていく道のほうが少しだけ明るく思えた。
そのとき、寝台の足元で小さな音がした。
とん。
顔を上げた。暗い部屋には、誰もいない。けれどもう一度。
とん、とん。
まるで何かが寝台の周りを歩いているようだった。
「……眠れないの?」
小さく呟いた。返事はなく、ただ布袋の紐がひとりでに少し揺れた。
それを見つめた。いつもの不思議な出来事。いつもの孤児院。今夜はなぜか、その音が少しだけ落ち着かなく聞こえた。
銅貨を布袋にしまい、毛布を引き寄せた。
迎えの日まで、あと三日。
明日はヴァルツ商会から人が来る。その人に会えば、何かわかるかもしれない。
そう思いながら、目を閉じた。眠りに落ちる直前、足元で小さな音がした。
とん。
まるで何かがそこに座り込んだような音だった。




