第六話 選べない未来
迎えの日まで、あと四日。
朝の鐘が鳴るより少し早く、リシェは目を覚ました。薄い毛布の下で身を起こして窓の外を見る。空はまだ青みがかった灰色で、庭の木々も眠っているように静かだった。ほかの子どもたちの寝息が聞こえる。
そっと寝台を抜け出し、窓辺まで歩いた。冷たい硝子に指先を触れる。遠くに見えるのは孤児院を囲む石塀と、その向こうに続く町の屋根。何度も眺めてきた景色だった。でも今日は、石塀の向こうがいつもより遠く感じられた。
四日後にはここを出る。今度こそ本当に。そう考えると不思議な気持ちになった。
ずっと外の世界に憧れていた。それなのに、誰かに連れていかれる未来を思い浮かべても、少しもわくわくしない。
「……変なの」
小さく呟いた。そのとき、窓の留め金がかたりと鳴った。風は吹いていない。
留め金を押さえ、きちんと閉まっていることを確かめた。
「また、いたずら?」
返事はない。特に気にせず、寝台へ戻った。
*
朝食のあと、職員に呼び止められた。
「今日は、リシェの荷物を確認します」
「……荷物?」
「そう。迎えの日に持っていくものです」
自分の持ち物を思い浮かべた。着替えが二着、少し擦り切れた靴、小さな櫛。それから、机の引き出しにしまってある、拾ったきれいな石が三つ。全部集めても、小さな布袋に収まるだろう。
「何か持っていきたいものはありますか?」
職員が尋ねた。少し迷ってから答えた。
「……書庫の本を、一冊」
「本?」
「古い図鑑です。ずっと読んでいて……」
「孤児院の本は持ち出せませんよ」
職員はあっさりと言った。
「会頭様のお屋敷には、もっと立派な本がたくさんあるでしょう」
「……そうですか」
俯いた。きっとそうなのだろう。大きな屋敷なら、立派な書斎もあるかもしれない。
でもあの図鑑とは違う。何度も読み返して、折れたページの場所まで覚えている。知らない誰かが書き込んだ小さな文字も、擦り切れた表紙も、リシェにとって大切なものだった。
「それから、髪もきちんと整えなくてはいけませんね」
職員はリシェの髪を見た。腰まで伸びた亜麻色の髪は、ところどころ絡まり、毛先が乾いて広がっている。
「せっかく上等な服をいただいたのですから。みっともない格好では困ります」
「……はい」
小さく頷いた。新しい服、新しい家、新しい家族。何もかもが、もう決まっているようだった。
ただ一つ。
リシェ自身がどうしたいのかだけは、誰にも尋ねられなかった。
*
昼過ぎ、また書庫にいた。いつもの図鑑を開き、ページの端を指でなぞる。
持っていけない。
そう言われてから、図鑑が急に重たくなった気がした。一枚ずつ、ゆっくりページをめくる。見たことのない花や、森に暮らす小さな魔獣、山の奥にしか生えない薬草。どれも、いつか自分の目で見てみたいものばかりだった。
四日後に向かう屋敷では、自由に外へ出られるのだろうか。森へ行くことはできるのだろうか。市場を歩くことは。知らない町へ旅をすることは。
ページをめくる手を止めた。考えてみれば何も知らない。会頭がどんな人なのか、屋敷には誰がいるのか、そこで自分が何をするのか。誰も教えてくれなかった。尋ねても、きっと大丈夫だと言われるだけだった。
図鑑を閉じた。
「……私、どうなるんだろう」
小さな声が書庫に落ちた。返事はなく、代わりに棚の奥で何かが動く音がした。
かさり。
顔を上げたが、誰もいない。なぜか今日はその音がいつもより長く続いた。
かさ、かさ。
まるで誰かが本の間を歩いているようだった。
「……何か探してるの?」
何気なく尋ねた。もちろん返事があるとは思っていなかった。ふと、音はぴたりと止まった。
少し首を傾げ、それからまた、机の上に広げていた街道案内に目を落とした。カルンから西へ伸びる道。森を抜けた先にある、小さな町――オルテン。その名前を指でなぞった。
もし誰にも連れていかれず、自分で行き先を決められたら。そんなことを考えて、すぐに首を振った。
一人で旅なんてできるはずがない。魔法も使えない。お金もない。森には魔獣がいる。十歳の子どもが何も持たずに歩いていけるほど、外の世界は優しくない。それくらい、図鑑を読んでいるリシェにもわかっていた。
それでも。
地図から指を離せなかった。
*
夕食のあと、年下の男の子に呼び止められた。
「リシェ、ほんとに行っちゃうの?」
「……うん。たぶん」
「いいなあ。お金持ちのおうちなんでしょ?」
「そうみたい」
「毎日お肉が食べられるかな」
男の子は目を輝かせた。リシェも少し笑った。
「……食べられたら、いいね」
「そしたら、ぼくにも教えてね」
「どうやって?」
「お手紙!」
男の子は当然のように言った。少し驚いた。
手紙。
そういえば、孤児院を出たあとも手紙を書くことはできるのだろうか。
「……うん。書けたら書くね」
男の子は嬉しそうに頷いた。リシェはその顔を見つめた。
もし、手紙を書けなかったら。もし、誰にも自分の居場所を知らせられなかったら。ふいにそんな考えが浮かび、慌てて首を振った。
まだ何も起こっていない。怖がるには早すぎる。そう思おうとした。
*
夜、寝台に横になっても眠れなかった。窓の外では風が木々を揺らしている。
毛布の中で、昼間に見た地図を思い浮かべた。カルン。森。街道。オルテン。知らない町の名前が、頭の中に浮かんでは消える。
もしも迎えの日が来る前に、ここを出たら。
その考えが浮かんだ瞬間、目を開けた。
逃げる。
そんなことを、今まで真剣に考えたことはなかった。孤児院を出るなら、誰かに引き取られるしかない。ずっとそう思っていた。でも本当にそうなのだろうか。自分で扉を開けて、自分の足で歩いていくことはできないのだろうか。
ゆっくり身を起こした。部屋の中は静かで、ほかの子どもたちは眠っている。窓の外には星が瞬いていた。
自分の手を見つめた。小さくて、何の力もない手。それでも、扉を開けることくらいはできる。歩くことだってできる。どこまで行けるかはわからない。
「……もし逃げるなら」
言葉にした途端、胸がどきりと鳴った。慌てて口を閉じた。
誰かに聞かれたわけではない。それでも、初めて口にしたその言葉は、思っていたよりずっと大きく感じられた。
そのとき、寝台の足元で小さな音がした。
とん。
いつもの音だった。続いてもう一度。
とん、とん。
まるで何かが急いで歩いているようだった。足元を見つめたが、誰もいない。それでも、何かがいるような気がした。
「……おやすみ」
いつものように呟いたが、音は止まらなかった。毛布を引き寄せ、目を閉じた。
迎えの日まで、あと四日。
初めて思いついた小さな選択肢が、胸の奥で消えずに残っていた。
逃げる。
それはまだ、決心と呼べるほど確かなものではなかった。その夜からリシェは、孤児院の門を見るたびに門の向こうへ続く道を思い浮かべるようになった。




