第五話 届かない手紙
迎えの日まであと五日。
リシェは朝食の席で、薄いスープに浮かんだ豆を数えていた。一つ、二つ、三つ。今日は七つあった。昨日より二つ多い。それだけのことなのに、少し得をした気分になる。
最後の豆をすくったところで、食堂の扉が開いた。
「リシェ。食事が終わったら、院長室へ来なさい」
職員の声に顔を上げた。
「……はい」
また、養子縁組の話だろうか。今度こそ取り消しになったのかもしれない。そんなことを考えながら、残りのスープを飲み干した。
*
院長室の机には、小さな包みが置かれていた。茶色い紙で丁寧に包まれ、細い紐が結ばれている。
「あなたに贈り物が届きましたよ」
院長が言った。
「……私に?」
「ええ。ヴァルツ商会の会頭様からです」
包みを見つめた。自分宛ての贈り物など、これまでほとんど受け取ったことがない。
「開けてごらんなさい」
促され、紐をほどいた。中に入っていたのは、柔らかな生成り色の布で作られた長袖のワンピースだった。襟元には細かな花の刺繍が施されている。普段着ている服とは、比べものにならないほど上等だった。
「……可愛い」
思わず声が漏れた。
「会頭様は、あなたがいらっしゃるのを楽しみにしておられるのですよ」
布をそっと撫でた。なめらかで、温かい。こんな服を着たら、自分まで別の人間になったような気がするかもしれない。
「お礼のお手紙を書かなくてはいけませんね」
院長は机の引き出しから便箋を取り出した。
「字は書けるでしょう?」
「……はい」
椅子に座り、羽根ペンを手に取った。何を書けばいいのだろう。贈り物をありがとうございます。それから。
少し迷って、便箋に文字を綴った。
『お洋服をありがとうございます。とても嬉しいです。
お屋敷にはほかにも子どもたちがいるのでしょうか。
もしいるのなら、どんなふうに暮らしているのか知りたいです。
リシェ』
書き終えると、院長に差し出した。院長は文面に目を通し、その表情がほんの少しだけ変わった。
「……リシェ」
「はい」
「こういうことは、わざわざお手紙で尋ねなくてもよいのですよ」
「……そうですか?」
「会頭様はお忙しい方ですからね。お礼だけで十分です」
院長は新しい便箋を差し出した。
「もう一度、書き直そうか」
しばらく紙を見つめた。何かいけないことを書いたのだろうか。ただ知りたかっただけなのに。
「……わかりました」
新しい便箋に、短いお礼の言葉だけを書いた。院長は満足そうに頷いた。
「ええ。これでよろしい」
最初に書いた手紙は、机の上に残された。それを一度だけ見たが、何も言わずに部屋を後にした。
*
午後、リシェは裏庭で落ち葉を集めていた。空はよく晴れていたが、風が冷たい。箒を動かしながら、朝のことを考える。
会頭は忙しい。だから質問をしてはいけない。院長はそう言った。でもこれから一緒に暮らすかもしれない相手なのに、何も尋ねられないのは不思議だった。
箒を止めた。大人たちは、ヴァルツ商会の会頭を立派な人だと言う。お金持ちで、親切で、孤児院にも寄付をしている。でもどうして誰も、引き取られた子どもたちのことを知らないのだろう。
落ち葉を一か所に集めた。そのとき、足元に小さな紙切れが飛んできた。白い紙を拾い上げると、そこには見覚えのある文字が並んでいた。
『ほかにも子どもたちがいるのでしょうか』
目を見開いた。朝、自分が書いた手紙だった。紙は途中で破れていたが、間違いない。院長室に置いてきたはずなのに。
「……どうして?」
建物を見上げた。院長室は二階にあり、窓は閉まっていた。風に飛ばされたのだろうか。それとも、誰かが捨てたのだろうか。
紙切れを折り畳み、服のポケットにしまった。捨てられたのだとしたら、少し悲しかった。丁寧に書いたつもりだったのに。
*
夕方、書庫で古い街道案内を広げていた。カルンから伸びる道を指でたどる。森を抜け、川を渡り、小さな宿場町を通る。
知らない場所ばかりだった。いつかこの道を歩いてみたい。そう思ったところで、手を止めた。
五日後に遠くの町へ行くことになっている。だが、それは自分で選んだ道ではない。誰かが決めた場所へ、誰かに連れていかれるだけだ。
図鑑の上に手を置いた。ずっと外の世界を見てみたかった。図鑑に描かれた植物や、まだ見たことのない魔獣、遠い町の市場で売られている知らない食べ物。
ようやく孤児院を出られるかもしれないというのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
ぱらり。
机の上で、街道案内のページがめくれた。窓は閉まっている。顔を上げた。
次の瞬間、もう一枚。
ぱらり。
ページがめくれた。
「……そこ?」
開かれた地図を覗き込むと、カルンから西へ向かう細い街道が描かれていた。その先には、小さな町の名前がある。
オルテン。
その名前を指でなぞった。聞いたことのない町だった。ヴァルツ商会の会頭が住む町とは、違う方向にある。
「……こんなところにも町があるんだ」
小さく微笑んだ。知らない町。知らない道。そこには、どんな景色があるのだろう。どんな人たちが暮らしているのだろう。そんなことを考えていると、少しだけ胸が軽くなった。
そのとき、背後の棚で何かが鳴った。
ことん。
振り返ったが、誰もいない。いつもより近くで音がした気がした。
「……今日はずいぶん賑やかだね」
そう呟いて、再び地図に目を落とした。
*
夜、寝台の上で、昼間拾った紙切れを広げた。自分の文字が途中で途切れている。何度読んでも、変なことは書いていないと思う。ただ、ほかの子どもたちのことを知りたかっただけだ。
紙を折り畳んだ。もし会頭に直接会えたら、そのときは自分で尋ねてみよう。そう考えた。
ふと疑問が浮かんだ。もし、そのときも答えてもらえなかったら?
窓の外を見た。夜空には小さな星がいくつも瞬いている。あの星の下には、きっとたくさんの町がある。知らない人がいて、知らない道があって、知らない物語がある。
その中から、どうして自分は、何も知らない一つの屋敷へ行かなければならないのだろう。胸の奥に生まれた疑問は、もう簡単には消えなかった。
その夜、なかなか眠れなかった。寝台の足元で、いつもの小さな足音がした。
とん。
とん。
毛布を引き寄せた。怖くはなかった。
ただ、今夜はその音が、いつまでも止まらなかった。




