第四話 七日間の猶予
七日後には迎えが来る。
院長室を出てからも、その言葉がリシェの頭を離れなかった。七日の間に何ができるだろう。
洗濯物を何度も干せる。図鑑の好きなところを読み返せる。食堂で出される夕食を、あと七回食べられる。でも七日後に何が起こるのかは、よく分からなかった。
新しい家族ができる。大きな屋敷で暮らす。院長はそう言った。
でも、一度もヴァルツ商会の会頭に会ったことがない。顔も、声も知らない。知っているのは、商会の名前と、遠くにあるという町の名前だけだった。
廊下の窓から外を眺めた。庭では年下の子どもたちが落ち葉を集めている。その向こうに、孤児院を囲む古い石塀が見えた。
ずっとここで暮らしてきた。だが、この場所が好きかと聞かれたら、答えに困る。嫌いなところなら、薄いスープや冷たい寝台、冬になると隙間風の入る窓など、いくつも思いつく。
それでも、知らない場所へ行くことを考えると、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
「……まずは、知ることから」
小さく呟いた。
図鑑を読むときも、知らない植物を見つけたときも、いつもそうしてきた。知らないものは、調べればいい。全部わからなくても、何もしないよりはきっといい。
*
その日の昼食は、豆のスープと固いパンだった。パンをスープに浸しながら、向かいに座る年上の女の子に尋ねた。
「ねえ、ヴァルツ商会って知ってる?」
「ヴァルツ商会?」
女の子は顔を上げた。
「知ってるよ。大きな商会でしょ。町にもお店があるもの」
「……どんなものを売ってるの?」
「布とか、食べ物とか。いろいろじゃない?」
「会頭さんって、どんな人?」
「さあ。偉い人なんじゃない?」
女の子はあまり興味がなさそうだった。
「リシェ、そこに引き取られるんでしょ?」
「……たぶん」
「いいなあ。お金持ちなら、お菓子もいっぱい食べられるかもね」
少しだけ想像した。焼きたての菓子や、砂糖をたっぷり使った甘いパン。町の市場で見かける、香ばしい肉の串焼き。最後のものは菓子ではなかったが、そちらのほうが食べたかった。
「……そうだったら、いいな」
小さく答えると、女の子は笑ってスープを飲み干した。リシェもパンを口に運んだ。聞きたかったことは、まだ何もわかっていなかった。
*
午後、廊下の掃除を任された。長い廊下の端から端まで箒をかける。古い床板の隙間には埃が溜まりやすく、掃いても掃いても細かな塵が出てきた。
途中、職員の一人が書類を抱えて通りかかった。
「あの」
箒を止めた。
「聞いてもいいですか?」
「何?」
「ヴァルツ商会の会頭さんは、ほかの孤児院からも子どもを引き取っているんですか?」
職員は足を止めた。
「……ええ、そう聞いているけれど」
「その子たちは今どこにいるんですか?」
「さあ。私にはわからないわ」
「……そうですか」
「どうしてそんなことを聞くの?」
少し考えた。
「同じ家に住むなら、知っておきたくて」
職員は一瞬、返事に困ったような顔をした。
「大きなお屋敷なんでしょう。きっとみんな仲良く暮らしているわよ」
「……はい」
職員はそう言い残して歩いていった。リシェは箒を握り直した。
きっと。大人たちは、よくその言葉を使う。
きっと大丈夫。きっと幸せになれる。きっと、何も心配はいらない。
でも、誰も本当のことは知らないようだった。
*
夕方、書庫へ向かった。いつもの図鑑を取り出し、机の上に置く。今日は植物のページではなく、巻末の地図を開いた。ヴァレンティア王国の町や街道が細い線で描かれている。
カルンの名前はすぐに見つかった。そこから指を滑らせ、院長に教えられた町を探すが、なかなか見つからない。図鑑の地図は古く、小さな町までは載っていなかった。
「……遠いのかな」
地図の端を指で押さえた。そのとき、背後で小さな音がした。
かたり。
棚の上に積まれていた本が、一冊だけ傾いた。振り返ったが、誰もいない。次の瞬間、別の棚から薄い冊子が滑り落ちた。
ぱさり。
「……今日はよく落ちるね」
椅子から降り、冊子を拾った。古い街道案内で、表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。何気なく開くと、王国内の街道と宿場町が細かく描かれていた。
「あ」
目を輝かせた。図鑑の地図より、ずっと詳しい。机へ戻り、二冊を並べてみる。
カルンから伸びる街道や、途中にある小さな村、森を抜けた先の分かれ道。夢中になってページをめくるうち、院長に教えられた町の名前も、ようやく見つかった。確かにカルンからはずいぶん離れている。
馬車なら何日かかるのだろう。歩いたらもっと長いのだろうか。
そんなことを考えているうちに、ふと気づいた。自分はあの町へ行く道を調べている。でも、本当にその道を通って行きたいのだろうか。
地図を見つめた。街道は一本ではなく、いくつもの道が森や町を結んでいる。知らない場所へ続く道がたくさんある。
胸の奥で、何かが小さく動いた。
*
その夜、子どもたちが寝静まったあと、リシェは寝台の上で膝を抱えていた。窓の外には、細い月が浮かんでいる。
迎えの日まではあと六日。
昼間に聞いた職員の言葉を思い返す。きっと、みんな仲良く暮らしている。そうかもしれない。そうではないかもしれない。
自分の手を見つめた。小さな手だった。魔法も使えず、遠くの町へ一人で行ったこともない。知らないことばかりだ。それでも、知らないまま誰かについていくのは少し怖かった。
そのとき寝台の足元で小さな音がした。
とん。
誰かが床を軽く踏んだような音だった。顔を上げると、薄暗い部屋には、ほかの子どもたちの寝息だけが聞こえている。足元には誰もいない。
「……おやすみ」
小さく呟いた。
なぜそんな言葉が出たのか、自分でもよくわからなかった。昔からこの建物では誰もいない場所で音がする。今さら驚くことでもなかった。
毛布を引き寄せ、横になった。目を閉じる直前、窓辺の薄いカーテンがふわりと揺れた。窓はきちんと閉まっていた。
翌朝、もう一度書庫の街道案内を開こうと決めていた。




