第三話 消えた子供たちの噂
養子縁組の話が出てから、五日が過ぎた。
リシェは朝食の席で配られたパンを見つめていた。いつもよりほんの少しだけ大きい。それだけで、今日は何か良いことがあるような気がした。
隣に座っていた年下の男の子が、パンの端を小さくちぎって口に入れる。
「ねえ、リシェ」
「なに?」
「リシェ、どこかに行っちゃうの?」
顔を上げた。
「……どうして?」
「先生たちが話してた」
男の子はパンを握ったまま、少し寂しそうに言った。
「新しいおうちに行くんだって」
「まだ決まってないよ」
「でも行くんでしょう?」
「……わからない」
そう答えて、パンを一口かじった。焼きたてではないけれど、今日は少し柔らかかった。
男の子はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。
「行っちゃったら、もう帰ってこない?」
答えに迷った。孤児院を出ていった子どもたちは、ほとんど戻ってこない。それはきっと良いことなのだろう。新しい家族と暮らしているのなら、ここへ戻る理由はない。
「……たぶんね」
そう言うと、男の子は俯いた。リシェは少し考えてから、自分のパンを小さくちぎり、彼の皿に置いた。
「食べる?」
男の子は驚いた顔をして、それから嬉しそうに頷いた。
*
昼過ぎ、リシェは洗濯物を取り込んでいた。空は薄く曇り、風が強くなっている。干していた布が一枚、風にあおられて地面へ落ちそうになった。
「あっ」
手を伸ばすより早く、布がふわりと浮き上がった。まるで、誰かが下から支えたように。そして、何事もなかったかのように物干し竿へ戻った。
少し首を傾げた。
「……ありがとう?」
誰に向けたわけでもない言葉だった。返事はなく、ただ背後の木の葉が、風とは違う方向へ揺れた。
洗濯物を抱え直し、建物の中へ戻った。こういうことは昔から時々ある。
*
午後の仕事を終えると、廊下の奥で二人の職員が話しているのが聞こえた。
「……本当に、あの子を?」
「ええ。もう迎えの日取りも決まりそうなんですって」
「ずいぶん早いのね」
「大きな商会の会頭さんですもの。話も早いのでしょう」
足を止めた。迎えの日取り。今までの養子縁組では、そこまで話が進んだことはなかった。
「でもあの噂……」
一人の職員が声を落とした。
「噂って?」
「ほら、ヴァルツ商会の……」
「ああ」
短い沈黙があった。
「引き取られた子どもたちを、その後誰も見かけていないとか……そんな話だったかしら」
「でも、どこの孤児院の子なのかもよくわからないのでしょう?」
「ええ。私も人づてに聞いただけよ」
「裕福な方なら、遠くの町や屋敷で暮らしているのかもしれないわね」
「そうよね。きっとそうよ」
二人はそれきり話題を変え、廊下の向こうへ歩いていった。リシェはその場に立ち尽くした。
引き取られた子どもたちを誰も見かけていない。それは本当に、おかしなことなのだろうか。もしも遠くの町へ行ったのなら、見かけなくなるのは当たり前だ。でも。
手の中にある洗濯物を見下ろした。どうして職員たちはあんなに小さな声で話していたのだろう。
*
夕食のあと、書庫へ向かった。窓の外はすっかり暗くなり、棚の間には深い影が落ちている。小さなランプを灯し、いつもの図鑑を開いたが、今日は文字が頭に入ってこなかった。
ヴァルツ商会。会頭。引き取られた子どもたち。知らないことばかりだった。
図鑑のページをめくりながら、ふと考えた。もし本当にあの人の家へ行くことになったら、自分はどうなるのだろう。大きな屋敷、温かい食事、自分だけの部屋。そんなものを想像してみる。
でも、その部屋にいる自分の姿は、どうしてもうまく思い浮かばなかった。
ぱたん。
背後で本が閉じる音がして、振り返った。棚の上に置かれていた古い本が、一冊だけ開いている。さっきまでは閉じていたはずだった。
立ち上がり、その本を手に取った。表紙にはかすれた文字が並んでおり、古い地方の伝承を集めた本らしかった。
何気なく開くと、そこには古びた孤児院の挿絵が描かれていた。その建物はどことなくカルンの孤児院に似ていた。
少し驚いてページをめくると、そんな一文が目に入った。
古い建物にはときに目に見えないものが住みつく。
窓の外を見たが、暗い庭に誰かの姿はない。どこかで小さな足音がした。
こつん。こつん。
しばらく耳を澄ませた。
「……古い建物だものね」
小さく呟いて、本を閉じた。そのときランプの火がふっと揺れた。まるで何かがすぐ近くを通り過ぎたように。
*
翌朝、リシェは院長室へ呼ばれた。院長は机の上に一通の封書を置いていた。上質な紙に、深い赤色の封蝋が押されている。
「リシェ」
院長はいつものように微笑んだ。
「迎えの日が決まりましたよ」
息を止めた。これまで何度も聞かされ、そのたびに消えていった話。なのに今回は消えなかった。
「……いつですか?」
「七日後です」
院長はそう告げた。リシェは封書を見つめた。赤い封蝋には、見覚えのない紋章が刻まれている。
七日後。
それまでに自分は何をすればいいのだろう。何を持っていけばいいのだろう。本当に行ってもいいのだろうか。
窓の外で風が吹いた。閉め切られた部屋の中で、机の上の封書がかすかに震えた。
それを見つめながら、胸の奥に小さな不安が生まれるのを感じていた。




