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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
第一章 小さな世界の外へ

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第ニ話 突然の知らせ


その日の朝、カルンの孤児院はいつもより少し騒がしかった。廊下には水を含んだ雑巾の匂いが漂い、普段は閉め切られている客間の窓が開け放たれている。玄関には新しい花まで飾られていた。


 リシェは花瓶の前で足を止めた。白い小さな花が朝の光を受けて揺れている。風は吹いていなかった。


 それを不思議に思うこともなく、食堂へ向かった。この孤児院では時々こういうことが起こる。誰もいない廊下で床板が鳴ったり、閉めたはずの扉が少しだけ開いていたり。棚に置いたものが、いつの間にか別の場所へ移っていることもあった。


 ほかの子どもたちは怖がることもあったけれど、リシェにとっては幼い頃から見慣れた光景だった。古い建物だから、きっとそういうこともあるのだろう。そう思っていた。


「今日はお客様がいらっしゃるのよ」


 通りかかった職員が言った。


「だから、いつも以上にきちんとしていなさい」


「……はい」


 小さく頷いた。


 孤児院に客が来ること自体は、それほど珍しくない。寄付を届けに来る商人や、建物の様子を確かめに来る役人が訪れ、時には、子どもを引き取りたいという人が来ることもある。


 そういう日は決まって建物がきれいになる。傷んだ家具には布がかけられ、食事にも少しだけ良いものが出る。今日の昼食に期待しながら、食堂の扉を開けた。


     *


 朝食を終えた子どもたちは、いつもの仕事に取りかかっていた。リシェは裏庭で洗濯物を干していた。


 秋の風は少し冷たかったが、空はよく晴れている。濡れた布を広げ、木の棒にかける。ほかの子どもたちは風の魔法で水気を飛ばしていたが、リシェにはできない。だから一枚ずつ丁寧に絞るしかなかった。


 最後の一枚を干そうとしたとき、背後から名前を呼ばれた。


「リシェ」


 振り返ると、職員の女性が立っていた。


「院長先生がお呼びよ。すぐにおいでなさい」


「……わかりました」


 濡れた手を布で拭いた。院長に呼ばれることは、あまりない。何か失敗をしただろうか。昨日の仕事を思い返してみたが、心当たりはなかった。


 女性の後ろについて建物の中へ戻り、廊下の角を曲がったとき、背後で小さな音がした。


 こつん。


 何かが床に落ちたような音だったが、振り返っても何もない。首を傾げたものの、すぐに歩き出した。この建物ではよくあることだ。


     *


 院長室は孤児院の中でも特に立派な部屋だった。厚い絨毯が敷かれ、壁には風景画が飾られている。部屋の隅には暖炉があり、まだ寒さの厳しくない季節だというのに小さな火が燃えていた。


 院長は大きな机の向こうに座っていた。


「リシェ。こちらへいらっしゃい」


 いつもより柔らかい声だった。リシェは机の前に立った。


「あなたに、とてもよいお知らせがあります」

「……お知らせ?」

「ええ。あなたを引き取りたいという方が現れたのです」


 瞬きをし、それから小さく頷いた。


「……そうですか」


 院長はわずかに眉を上げた。


「嬉しくないのですか?」

「……まだ、決まったわけではないので」


 静かに答えた。


 養子縁組の話を聞くのは初めてではなかった。これまでにも何度か、同じように院長室へ呼ばれたことがある。


 最初のときは嬉しかった。新しい家族ができるかもしれない。孤児院を出て知らない町で暮らせるかもしれない。そう思って、眠る前に何度も想像した。けれど数日後には話がなくなった。


 初めは、先方の都合が変わったのだと言われた。二度目は、相手が突然連絡を寄こさなくなった。三度目も、その次も結局同じだった。


 理由はいつも違っていた。それでも結果だけは変わらない。だから、いつからか期待するのをやめた。


 決まっていないことを、決まったように喜んでも仕方がない。


「今回は、これまでとは違いますよ」


 院長が言った。


「先方は、ぜひあなたを迎えたいとおっしゃっています」

「……そうですか」

「ヴァルツ商会をご存じですか?」


 少し考えた。町の大通りでその名前を見かけたことがある。


「……名前だけなら」

「王国内でも名の知られた、大きな商会です。その会頭があなたを引き取りたいとおっしゃっているのですよ」


 院長は満足そうに微笑んだ。


「たいへん裕福で立派な方です。遠くの町に大きなお屋敷をお持ちでね」

「……どこの町ですか?」


 院長は町の名前を告げた。聞いたことのないその地名を、頭の中でそっと繰り返した。


「……その方はどんな人ですか?」

「親切で慈善活動にも熱心な方ですよ。各地の孤児院を支援していらっしゃいます」


「……会ったことはありますか?」

「いいえ。ですが評判のよい方です。あなたが心配することはありません」


 院長は机の上の書類を揃えた。


「今は誰にも余計な話をせず、いつも通り過ごしていなさい」

「……はい」


 リシェが頭を下げたとき、暖炉の火がふっと大きく揺れた。窓は閉まっている。机の端に置かれていた一枚の紙が、かさりと音を立てた。


 院長は気づいていないようだった。


 一度だけ暖炉に目を向けたが、何も言わなかった。こういうことは珍しくない。ただ今日はいつもより少しだけ、部屋の空気が冷たく感じられた。


     *


 その日の午後、リシェは書庫へ向かった。いつもの図鑑を開くと、森の植物について書かれたページだった。葉の形、花の色、根の特徴。見慣れた文字を追っていると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。


 もし本当に孤児院を出ることになったら、この図鑑はどうなるのだろう。表紙をそっと撫でた。


 もちろん、ここにある本は自分のものではない。それでも何年も読み続けてきたこの一冊には、特別な愛着があった。


 できることなら持っていきたい。そんなことを考えて、小さく首を振った。まだ決まってもいないことだ。


 そのとき扉の向こうから足音が聞こえ、顔を上げた。廊下を歩く二人の職員が小声で話している。


「……ヴァルツ商会って、あの大きな商会でしょう?」

「ええ。あちこちの孤児院に寄付もしているそうよ」


「……そういえば引き取られた子たちのことで何か噂がなかった?」

「さあ。ずいぶん前に聞いたような気もするけれど……」


「そうよね。きっと、ただの噂よ」


 足音が遠ざかっていく。リシェはしばらく扉を見つめていた。


 引き取られた子たち。その言葉が妙に耳に残った。ヴァルツ商会の会頭は、ほかの子どもも引き取ったことがあるのだろうか。それなら少し安心できる気もする。だが何の噂だったのだろう。


 図鑑を閉じた。窓の外では木々が風に揺れている。ふいに背後の棚から小さな音がした。


 ことり。


 振り返ると、積んであった本の一冊が床に落ちていた。立ち上がり、その本を拾った。


「……また?」


 誰にともなく呟いて、元の場所へ戻す。この書庫ではときどき本が勝手に落ちる。古い棚が傾いているのかもしれない。


 でも今日はなぜだか、誰かがすぐ近くで自分を見ているような気がした。それでも不思議と怖くはなかった。幼い頃からずっとそうだったから。


 再び椅子に腰を下ろした。窓の外には森が広がっている。


 もしも本当にここを出られるのなら。


 そう考えかけて目を伏せた。期待するのはまだ早い。そう自分に言い聞かせる。


 その日の夕方、リシェはいつもより少し長く窓の外を眺めていた。


 そして翌日も、その次の日も。養子縁組が取り消されたという知らせは届かなかった。

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