第一話 古い図鑑と小さな窓
朝を告げる鐘が、三度鳴った。リシェは薄い毛布の下で目を開けた。
まだ夜の名残がある部屋は薄暗く、窓の向こうには白い霧が漂っている。古い木枠の隙間から入り込む冷たい空気に、思わず毛布を引き寄せた。
もう起きなければならない。四度目の鐘が鳴る前に寝台を整えなければ、朝食の時間が削られてしまう。小さく息を吐いて毛布を畳んだ。
ここは、ヴァレンティア王国の地方都市カルン。その外れに建つ、古い孤児院だった。石造りの建物にはいくつもの部屋があり、リシェを含め、身寄りのない子どもたちが暮らしている。
リシェは今年で十歳になる。この孤児院に来る前のことは、ほとんど覚えていなかった。
顔にかかった髪を指で払いのける。腰近くまで伸びた亜麻色の髪は、長い間十分な手入れをされておらず、ところどころ絡まっていた。もともとは柔らかな色合いなのだろうが、今は埃と乾燥のせいでくすんで見えた。
小柄な体を包む服は少し大きく、袖口も擦り切れている。髪の隙間から覗く灰青色の瞳だけが、朝の薄明かりの中で静かに澄んでいた。
「リシェ、早く!」
廊下から呼ぶ声がした。
「……今行くよ」
短く答え、寝台の端に置いていた靴を履く。部屋を出ると、廊下にはすでに何人もの子どもたちが行き交っていた。
ある子は指先に小さな光を灯して暗い階段を照らし、別の子は宙に浮かせた雑巾を器用に動かしている。どちらもごく簡単な生活魔法だ。この国では、子どもでも少し練習すれば使えるようになる。
――リシェを除いては。
「また手で運んでるの?」
水の入った桶を抱えて歩いていると、年上の少年が声をかけてきた。彼の後ろには、ふわふわと宙に浮かぶ二つの桶がある。
「……うん」
「大変だねえ」
少年は笑いながら通り過ぎていった。リシェは何も言わず、桶を抱え直した。
魔法が使えないことは、もうずいぶん前からわかっている。教えられた通りに呪文を唱えても、魔力を感じ取ろうとしても、何も起こらなかった。
最初の頃は何度も試したが、今はもう試していない。できないことを繰り返すより、できることをしたほうが早いからだ。
桶の水面が揺れないように、ゆっくりと階段を下りた。
*
朝食は薄い麦粥と小さな黒パンだった。リシェはパンを少しずつちぎり、粥に浸して食べた。温かいけれど、味はほとんどしなかった。
向かいの席では、年下の子どもたちが昨日の夕食について話している。
「町のお祭りでは、お肉を串に刺して焼くんだって」
「知ってる! 甘いお菓子も売ってるんでしょ?」
「食べてみたいなあ」
パンをちぎる手を止めた。串に刺して焼いた肉は、どんな味がするのだろう。表面は香ばしくて、中からは熱い肉汁があふれるのだろうか。塩だけで味をつけるのか、それとも何か特別な香辛料を使うのか。
考えているうちに、空腹が増したような気がした。
「リシェ、聞いてる?」
「……え?」
「お祭りの話!」
「あ……うん」
「行ってみたいよね?」
少し考えた。
「……食べてみたい」
「そこ?」
子どもたちが笑った。リシェは黙って残りのパンを口に運んだ。
お祭りそのものにも興味はある。でもそれ以上に、知らない料理がどんなものなのか気になった。
*
午前中の仕事が終わると、建物の奥へ向かった。古い階段を上り、あまり使われていない廊下を進む。突き当たりにある小さな扉の向こうが、リシェのお気に入りの場所だった。
扉を開けると乾いた紙と埃の匂いがした。かつて書庫として使われていたらしい部屋には、古びた本棚が三つ並んでいる。
蔵書の多くは傷んでいた。背表紙の文字が消えかけた本や、途中のページが抜け落ちた本、何十年も開かれていないような分厚い歴史書がある。
誰も興味を示さないその部屋が、リシェは好きだった。窓際に腰を下ろし、一冊の本を膝に広げる。
『大陸の植物と魔獣』
革張りの表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。何度も読んだ本だった。それでも、まだ知らないことがたくさん書かれている。
森の奥深くにだけ咲く、夜になると淡く光る花。雪山の斜面を駆ける、銀色の角を持つ獣。人の背丈よりも大きな葉を広げる、南方の植物。ページをめくるたび、リシェの知らない世界が現れた。
とりわけ好きなのは魔獣の挿絵だった。丸い耳を持つ小さな獣もいれば、鋭い牙をむき出しにした恐ろしい獣もいる。その姿はさまざまで、同じ大陸に暮らしているとは思えないほどだった。
「……本当に、いるのかな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
本に書かれていることが、すべて正しいとは限らない。この図鑑は古い。余白には、以前の持ち主が書き込んだらしい細かな文字も残っている。
あるページにはこんな一文があった。
『記録と実物は、必ずしも一致しない。』
リシェはその言葉が好きだった。
もし、本に書かれていることと実際に見たものが違っていたら、自分の目で確かめて、正しいことを書き足してみたい。そんなことを考えると、胸の奥が少しだけ弾んだ。
窓の外で鳥が鳴いた。顔を上げると、小さな窓からは孤児院の裏庭と、その向こうに広がる深い森が見えた。風に揺れる木々の梢が、遠くまで続いている。
森の向こうには何があるのだろう。川だろうか。山だろうか。それとも図鑑に載っているような、不思議な生き物たちが暮らしているのだろうか。
窓枠に指を置いた。そのときだった。
窓の外を、小さな淡い光が横切った。綿毛のようにも、羽虫のようにも見えた。それは風に逆らうようにふわりと浮かび、窓の前でぴたりと止まった。
「……?」
目を凝らすと、光はくるりと回った。まるでこちらを見ているようだった。
次の瞬間、廊下から足音が響いた。
「リシェ! またここにいたの!」
扉が開く。振り返ったリシェが再び窓に目を向けたとき、光はもう消えていた。
「……今、窓の外に」
「何?」
「……ううん。何でもない」
本を閉じる。誰かに話しても、きっと信じてもらえない。それはもう知っていた。
図鑑を棚に戻し、部屋を出た。扉が閉まる直前、もう一度だけ窓を振り返る。そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。
ただ木々の間を吹き抜ける風が、ほんの少しだけ楽しそうに見えた。
*
その夜、寝台に横になったリシェは、窓の向こうに浮かぶ星を眺めていた。
今日読んだ図鑑のページを思い出す。
知らない花や獣、まだ食べたことのない料理、行ったことのない町。この小さな窓からは、何一つ見えない。それでも、確かにどこかにあるのだ。
「……見てみたいな」
小さな声は誰にも届かなかった。毛布を引き寄せ、目を閉じる。
明日もきっと今日と同じ一日が始まる。そのはずだった。
数日後、孤児院に届いた一通の知らせが、リシェの小さな世界を大きく変えることになる。




