第八十八話 本の端にあった海
その朝、作業室の机にリシェのノートが三冊並んでいた。
「これも持っていっていいんですか?」
「全部ではなくて、必要なページを見せてもらうだけ。嫌なら断って構わないよ」
イネスは届いた手紙を差し出した。
図書館で、各地の植物や採集物に関する小さな展示を開くという。施設から標本を出すことになり、育っていた場所の記録も添えたいと頼まれていた。
その中に、リシェがオルテンで見た薬草があった。
「名前も出るんでしょうか」
「採集場所と観察した人を載せるなら、君の了承がいる。どうしたい?」
リシェは手紙を読み終え、机のノートへ目を戻した。端の汚れた一冊は、オルテンにいた頃から使っている。
人に見せるために書いたものではなかった。
文字が斜めになったところも、何度も描き直した葉もある。
「絵があまり上手ではないんですけど」
「形が分かる。場所のことも書いてある。それを見たいんだと思う」
イネスは一番古いノートを開いた。
「誰かが作った立派な図鑑だけでは、分からないこともあるからね」
リシェはしばらくページを眺めたあと、頷いた。
「この辺りなら見てもらってもいいです」
*
展示が始まった日、図書館の入口には、いつもより大きな荷物を持った人が集まっていた。
リシェはイネスと並んで中へ入った。フィエルは足元を歩き、ロギは肩の上で長い尾を畳んでいる。
展示の部屋には、植物の標本だけでなく、木の実や樹脂、石、乾かした海藻まで並んでいた。大きな紙に描かれた地図から、それぞれの採れた場所へ線が伸びている。
自分の記録は、入口に近い台にあった。
ノートから写した文章と葉の絵が、標本の隣に置かれている。リシェは近づきかけて止まった。
先に見ている人がいた。
「木陰の方が葉が薄かったんだって」
「採った日が同じなら、場所の違いを比べやすいね」
二人は説明を読み、標本へ目を移した。
リシェはイネスの袖へそっと触れた。
「読んでくれています」
「うん」
それ以上は言わず、二人が離れるのを待った。
台へ近づくと、説明の下に小さく名前があった。
観察記録・リシェ。
同じものを育てている施設の記録と、並んでいる。
指で触れそうになり、手を引いた。
*
イネスが展示の担当者と話している間、リシェは隣の台を見て回った。
浅い箱に白や薄桃色のものが並んでいる。
巻いたもの。平たく開いたもの。細い筋のあるもの。
貝殻だった。
本で見たことはあるが、こんなに形が違うとは思わなかった。大きなものの内側には、灯りの色が滑るように映っていた。
『石じゃないんだね』
ロギも箱を覗き込む。
『海にいる生き物の殻だよ』
『リシェは海を見たことがある?』
『ない』
リシェは箱の向こうの絵を見た。
水が、遠くまで続いている。
向こう岸は描かれていなかった。
「これが、海ですか?」
台のそばにいた男性が、顔を上げた。
「そうだよ。この貝が採れた辺りの海岸だ」
「川とはずいぶん違うんですね」
「広いからね。水も塩辛い」
リシェは絵へ近づいた。岸には白いものが打ち寄せ、その上を鳥が飛んでいる。
「この白いところは?」
「波が崩れて泡になったところだよ」
「ずっと動いているんですか?」
「そう。大きい日も小さい日もあるけど」
ロギが肩で身を乗り出した。
『面白そうだね』
リシェも同じことを考えていた。
絵の中に音はない。だが、こんなに広い水が動いたら、どんな音がするのだろう。
男性は小さな殻を一つ持ち上げた。
「これは触ってもいいものだから、手に取ってごらん」
受け取ると、軽かった。表には細かい筋があり、内側は指が滑るほどなめらかだった。
*
貝殻の隣には、南の地方で使われる香辛料が並んでいた。
リシェは説明を読み、鞄からノートを取り出した。
エリオに教えてもらった名前がある。
商隊の馬車で見せてもらった品と、同じものだった。
「あれ」
説明の地図には、海岸に沿った地域が示されている。
さっきの海の絵と、指でたどればつながりそうな場所だった。
粒を入れた瓶の横に、枝についた実の絵がある。リシェの知っている乾いた姿とは、色も形も少し違っていた。
「こんなふうになっているんだ」
声に出すと、肩のロギが絵と瓶を見比べた。
『前にも育つところを見たいって言っていたね』
『うん』
森の石造りの跡で、そんな話をした。
あのときは、暖かい場所に育つとしか思い浮かべられなかった。今はそこに、海と、貝殻のある岸辺が加わった。
リシェは地図の前へ移った。
アルセインを探す。
知っている街の名前から、道を少しずつたどった。途中で線が重なり、どれを見ていたのか分からなくなる。
「難しい顔をしてるね」
戻ってきたイネスが隣へ立った。
「ここから海まで見ていました」
「随分先まで行ったな」
「まだ途中です。道が分からなくなって」
イネスは地図へ目を向けた。
「私は植物の分布を見ることが多いから。旅の道ならゼフィリスに聞いた方がいいね」
リシェは頷いた。
もう一度、アルセインの位置へ指を戻す。
今いる街から、線は何本も外へ伸びていた。
*
帰る前に、自分の記録がある台へ寄った。
今度は見ている人はいなかった。
リシェは標本と絵を比べた。ここに出ている株と、自分が見た株は同じではない。それでも、隣に置かれた記録を読むと、オルテンの木陰が思い浮かぶ。
土の匂いも、葉へ触れた感触も覚えている。
先ほど見た海の標本にも、誰かが歩いた場所があったのだ。
「イネスさん。見せてもらえてよかったです」
「君の記録を?」
「それもですけど、ほかの場所のものも」
リシェは貝殻の台を振り返った。
持ち帰ってよい説明の紙を一枚もらっていた。折れないよう、ノートに挟んである。
「また来たいです」
「展示はしばらく続くよ。次は仕事のついでじゃなく、ゆっくり見に来よう」
*
数日後、リシェはゼフィの家へ、その紙を持っていった。
机へ広げると、ゼフィは海岸の絵を見て頷いた。
「図書館で見つけたんだね」
「先生は海へ行ったことがありますか?」
「あるよ」
「本当に向こう岸が見えないんですか?」
「場所にもよるけれど、この海岸なら見えないね。晴れた日は、水と空の境目が遠くまで続いている」
リシェは椅子を少し寄せた。
潮が引くこと。浜辺に残る生き物。船が出入りする港。
尋ねるたび、絵の中にないものが増えていった。
ロギは机へ降り、紙を覗いていた。フィエルもリシェの足元へ来て、膝へ顎を載せる。
「行ってみたい?」
ゼフィに尋ねられ、リシェは顔を上げた。
「はい」
返事はすぐに出た。
「香辛料が育っているところも見たいです。エリオが見せてくれたものが図書館にあって……その近くに、海がありました」
「なるほど。見たい場所がつながったんだね」
ゼフィは棚から地図を出し、机へ広げた。
リシェもフィエルの頭を撫でてから、両手を机へ置いた。
「ここがアルセイン。海へ向かうなら、道はいくつかある」
「これをずっと行くんですか?」
「その道なら、途中で別の街を通るね。山を越える道もあるけど季節を選びたい」
リシェは、今度こそ線を見失わないように目で追った。
すぐに出発するつもりはなかった。
イネスに教わっていることも、先生との練習も、まだ続けたい。フィエルとできる仕事も増えてきた。
それでも、ここを出た先に見たい場所ができた。
「この地名、書いてもいいですか?」
「もちろん」
誕生日にもらったノートを開き、港の名前を書き写す。その下には、今日聞いたばかりの言葉を一つ残した。
潮だまり。
海へ行ったら、そこを覗いてみたい。
ロギが紙の端を嘴で押さえた。
『僕も見てみたいな』
『フィエルも一緒にね』
足元の耳が、声を聞いたように動いた。
リシェは地図へ目を戻し、次の街の名前をゼフィに尋ねた。




