第八十七話 追いかけない練習
フィエルは、ゼフィの手元を見ていた。
紐の先には、布を巻いた小さな塊がついている。それが草の上を滑ると、銀白色の耳が前を向いた。
飛び出す。
前脚が届く直前、布は横へ動いた。フィエルは向きを変えたが勢いが余り、通り過ぎてから止まった。
「もう一度」
ゼフィが布を戻す。
リシェは少し離れた木陰で、その様子を見ていた。今日は狩りではなく動きを確かめる練習なので、一緒に来ていた。
フィエルはすぐに駆け戻ろうとして、足を止めた。
ゼフィの手がまだ動いている。
布は地面を滑り、石のそばで止まった。
今度は飛びつかなかった。
「うん。よく見たね」
褒められると尾が揺れる。
その隙に布が動き、フィエルも慌てて追いかけた。
リシェは膝に置いた手を握った。
「あ、また」
『褒められると君の方も見るね』
肩のロギが言った。
フィエルは布を押さえたあと、こちらを振り返っていた。
「見てたよ。ちゃんと捕まえたね」
声をかけると、布を押さえる前脚に少し力が入った。
*
暖かくなるにつれて、二人の練習場所も街から少しずつ遠くなっていた。
出かけた先で何をしたのか、ゼフィは帰るたびに教えてくれる。小さな獣を狙った日もあれば足場が悪くて歩くだけで戻った日もあった。
フィエルは毎回何かを捕まえられるわけではない。
以前は手ぶらで戻ると落ち着かなかったが、この頃は食事をして眠り、次に出かけるときにはまた張り切っていた。
今日もしばらく動くと口を開けて息をし始めた。
ゼフィが布をしまう。
「ここで休もう」
呼ばれて戻ってきたフィエルは、リシェの前へ座った。背を撫でると毛の奥が温かい。
「今日はよく曲がれたね」
得意そうな気持ちが伝わってくる。
ロギが肩から降りようとすると、フィエルは先に地面へ伏せた。
『今日は乗せてもらえないか』
『休んでるんだから』
『僕も休もうと思ったんだよ』
リシェは笑い、水の器を地面へ置いた。
*
「先生。フィエルはどのくらい強くなったんでしょう」
飲み終えるのを待ってから尋ねると、ゼフィは隣へ腰を下ろした。
「最初の頃よりずっと動けるよ。自分から攻めるだけではなく相手を見るようになった」
「ギルドのランクでいうと?」
「危険度のことかな」
「はい。魔獣にもついていますよね」
ゼフィは少し考えた。
「今は小型の相手との経験を積んでいるところだね。ランクだけで勝てるかどうかは決まらないけれど、次の段階を考えるならDに分類される相手への対応も覚えていきたい」
リシェはフィエルを見た。
布を追っていた姿と、依頼でカイルを助けた姿が浮かぶ。
「そのくらいの魔獣を一人で倒せるようになりますか?」
「なる可能性はあると思う。ただ、今すぐ試すつもりはないよ。相手の種類も場所も選ぶ必要がある」
ゼフィは眠りかけたフィエルへ手を伸ばした。耳の後ろに触れると、瞼が持ち上がる。
「大きくなって力もついてきた。でも、強い相手には近づかない判断も覚えてほしい」
「勝つ練習だけではないんですね」
「うん。戻ってこられることが一番だから」
リシェは背を撫でる手を止めずに頷いた。
フィエルにも伝わったのか、鼻先が彼女の手首へ触れた。
*
休憩のあとリシェも練習に加わった。
今度はゼフィが布を動かし、途中でリシェがフィエルを呼ぶ。
追いかけていても、呼ばれたら戻る練習だった。
「フィエルおいで」
銀白色の体が止まる。
布は、まだ動いている。
フィエルはそちらを一度見てから、リシェへ駆けてきた。
「うん。ありがとう」
胸を撫でるとすぐに向き直る。布のところへ戻りたいらしい。
次はもう少し近づいてから呼んだ。
「フィエル」
今度は止まるのが遅れた。前脚が布へ届き、押さえてから顔を上げる。
リシェはもう一度呼ぼうとしたが、ゼフィが手を上げた。
「少し待って」
フィエルが自分で前脚を離した。
リシェへ戻ってくる。
「今のは迷っていたね」
ゼフィが言った。
「捕まえたかったんだと思います」
「そうだろうね。それでも戻れた。次は、捕まえる前に止まれるか確かめよう」
リシェはしゃがみ、フィエルの目を見た。
「呼んだら来てね。まだ遊べるときは、また戻っていいから」
フィエルは顔を寄せ、彼女の顎へ鼻先を押しつけた。
*
何度か繰り返したところで、ロギが低い枝へ移った。
ゼフィの手元から布が滑り出す。
フィエルが走る。
その先で、赤い鳥の尾が揺れた。
フィエルの耳がそちらへ向く。
『あ』
リシェへ届いた声と同時に、ロギが枝から飛び立った。
銀白色の体が向きを変える。
「フィエルおいで!」
呼ぶと足が地面を掻いた。
ロギを追いかけたい気持ちが、強く伝わってくる。
リシェはその場で待った。
フィエルがこちらを見た。
赤い鳥は少し離れた石へ降り、長い尾を自分の方へ寄せている。
フィエルはもう一度そちらを見てから、リシェへ戻った。
「来てくれたね」
両手で背を撫でると、まだ少し落ち着かない気持ちが残っていた。
ロギが石の上で首を傾ける。
『僕、何もしていないよ』
『尾が気になったんだと思う』
『それはしまっておけないなあ』
リシェは笑いながら、フィエルの胸を撫でた。
ゼフィが布を拾い上げる。
「今日はいいところで終われたね」
*
荷物をまとめていると、カイルが林の道から出てきた。
肩に採集袋を掛け、こちらへ片手を上げる。
「いたいた。ギルドでこっちだって聞いてきた」
「何か用事?」
ゼフィが尋ねると、カイルは袋を地面へ置いた。
「近くで依頼を済ませたから、帰り一緒にどうかと思って」
袋から土のついた硬い塊がのぞいていた。リシェが目を向けると、カイルは口を広げて見せてくれた。
「加工に使う石。割れた崖の下に出ていたんだ。見本と比べながら集めた」
「植物ではない採集もするんですね」
「依頼があればな。今日は何してた?」
「呼んだら戻る練習です」
「フィエルの?」
リシェが頷くと、カイルは銀白色の顔へ目を向けた。
「俺が呼んでも来る?」
「試してみますか?」
カイルは少し離れ、腰を落とした。
「フィエルおいで」
フィエルはその場で耳を動かした。
リシェを見る。
カイルを見る。
それから、のんびり歩いて近づいた。
「……俺のとき遅くない?」
「来てくれましたよ」
「まあそうだけど」
首の横を撫でる手へ、フィエルが顔を寄せた。
その頭上へロギが降りかける。フィエルが見上げると、赤い鳥はカイルの肩へ行き先を変えた。
「お前は呼ばなくても来るな」
カイルの言葉に、リシェは声を出して笑った。
*
帰り道、カイルは採集袋を持ち直した。
「これ見た目より重いな」
「少し預かろうか?」
ゼフィが尋ねる。
「いや、今日は自分で持つ。受けたのは俺だし」
リシェも袋へ目を向けた。必要な量は決まっていたが、運びやすい場所ばかりに落ちているわけではない。カイルの手袋には、擦れた跡がついていた。
「それも戻ってから確かめてもらうんですか?」
「うん。混じってたら、そこは報酬から外れる」
「難しそうです」
「ちびっこだって葉を一枚ずつ見てるだろ。俺からしたら、あっちの方が難しいよ」
歩くたび、袋の中で石が小さく鳴った。
フィエルは少し前を歩いていた。道の分かれ目へ着くと、立ち止まって振り返る。
ゼフィが右側を示すと、こちらへ戻ってから隣へ並んだ。
「よく見てるな」
カイルが言った。
リシェは、歩いているフィエルの背へ手を伸ばした。短く撫でると、尾が一度揺れる。
今日、獲物は捕まえなかった。
それでも呼んだ声に戻ってきてくれたとき、リシェはうれしかった。
次にゼフィと二人で出かけるときも、きっと帰ってくる。そう思えることが、前より一つ増えた。
街の門が見えたところで、リシェは少し立ち止まった。
「フィエル」
銀白色の体がすぐに向きを変える。
駆け戻ってきた顔を、両手で受け止めた。
「うん。一緒に帰ろう」
フィエルは鼻先を彼女の手へ押しつけ、それから隣へ並んだ。




