第八十六話 水の向こうの印
「今日は、そっちに入れるんですか?」
リシェは、ゼフィが持ってきた革の筒を見た。
中には地図が入っている。マジックバッグへしまうのかと思ったが、ゼフィは筒を肩へ掛けた。
「歩きながら開くからね。すぐ出せる方が便利なんだ」
リシェも自分の鞄を確かめた。ノートと筆記用具、水、食事の包み。それからカイルにもらった手袋が入っている。
今日の依頼は、森へ続く道沿いの橋と渡り場を確かめる仕事だった。
冬の間に傷んだ場所や、雪解けの水で通れなくなった場所を調べる。リシェはゼフィの同行で、街に近い区間を担当することになっていた。
先に依頼票を読んでいたカイルが、地図を指す。
「この印のところまで行って、反対側の道を戻るんだな」
「通れればね」
ゼフィの返事に、リシェも地図へ目を落とした。
小川を跨ぐ細い線と、その近くにつけられた印。誕生日にもらった本で覚えたものだった。
「ここは橋ではないんですよね」
「浅いところを渡る場所だよ。水が増えていたら、無理には通らない」
リシェは頷き、地図を返した。
*
林へ入ると、道の脇に新しい草が伸びていた。
枯れ葉の間から出た小さな葉へ、淡い光が寄っている。ロギはリシェの肩で首を動かし、ときどき低い枝へ移っては戻ってきた。
フィエルは自分の足で歩いていた。水溜まりを避けて脇へ寄り、倒れた細い枝を跨ぐ。
「もう鞄には入らないのか?」
カイルが尋ねた。
「混んでいるところでは抱きますけど、外では歩いています」
「そりゃ足も速くなるよな」
フィエルがカイルの靴へ鼻を近づける。
その隙にロギが背へ降りた。銀白色の耳が後ろへ向いたが、そのまま歩き続ける。
『今日は乗せてくれたね』
『昨日も乗ってたでしょう』
『昨日は途中で走り出したんだよ』
リシェは笑い、枝に引っかからないよう鞄を寄せた。
最初の橋は、問題なく渡れた。
欄干に少し緩んだところがあったので、位置と状態を記録する。次の橋では、手前の道が水で削られていた。
ゼフィが深さを確かめ、カイルは対岸へ渡って反対側も見た。
リシェはその間に、橋の絵を描いた。傷んだ場所へ印をつけていると、戻ってきたカイルが覗き込む。
「これなら、俺が説明するより早そうだな」
「絵だけでは広さが分からないので。あとで数字も入れます」
「抜かりないねえ」
そう言いながら、カイルは測るのを手伝ってくれた。
*
三つ目の場所へ着く前に、水の音が大きくなった。
木々の向こうに、小川が見える。
地図では細く描かれていたが、流れは思ったより速かった。濁った水が石へ当たり、白く泡立っている。
カイルが岸で止まった。
「これは渡れないな」
向こう岸には道が続いていた。水へ下りる辺りに踏み跡はあるが、その先は沈んで見えない。
リシェは地図を見せてもらった。
「ここに石が並んでいるんでしょうか」
「水が少ないときは、足場にできる石があるはずだよ」
ゼフィは川上へ目を向けた。
「今日は隠れているね。ここから先はやめよう」
カイルも頷き、岸から離れた。
リシェは渡り場の位置を書き、見えている石と岸の形を描いた。対岸までの道を確かめられなかったことも残す。
そのとき、向こうの木のそばで何かが動いた。
人だった。
地面へ腰を下ろし、片手を上げている。
「先生」
リシェが指すと、ゼフィはすぐに川へ向き直った。
*
カイルが声を張った。
「そっち、どうした!」
返事は水音に紛れた。何度か呼びかけ、ようやく「足」という言葉が聞こえる。
立とうとした男が、木へ手をついて座り直した。
「歩けないみたいだな」
カイルの声から、さっきまでの軽さが消えていた。
ゼフィは川沿いを見た。
「上流の橋まで戻る。こちら側から飛び越えるには、岸が悪い」
地図を開き、指で道をたどる。迂回すれば、向こう側へ回れるらしかった。
リシェは男へ目を向けた。厚い上着を着ているが、片方の靴が濡れているように見える。
「私たちが戻る間、待っていてもらうんですか?」
「カイルに先に回ってもらおう。私は君とここに残る」
ゼフィはカイルへ地図を渡した。
「橋の状態は来る前に聞いたとおりなら通れる。おかしければ戻ってきて」
「分かった。向こうへ着いたら合図する」
カイルは荷物から必要なものを取り、川上へ走り出した。
リシェがその背中を見送ると、ロギの声が届いた。
『僕ならすぐ向こうへ行けるよ』
肩の赤い鳥が、対岸へ顔を向けている。
『声では話さない方がいいよね?』
リシェは一度ゼフィを見た。
「先生。紙を渡せませんか?」
彼もロギへ目を向けた。
「そうだね。何が起きたか書いてもらおう」
*
ゼフィが短い文を書き、リシェは紙の端を押さえた。
助けを呼びに行ったこと。無理に動かず、今困っていることを書いてほしいこと。
紙を細く畳み、ロギに持ってもらう。
『落とさないでね』
『リシェこそ、そんなに心配そうな顔をしないでよ』
赤い翼が開いた。
ロギは低いところを避けて川を越え、男の前へ降りた。驚いたように上がった手のそばへ紙を置き、少し離れる。
リシェは息を詰めて見ていた。
男が紙を開く。
こちらへ顔を向け、手を上げた。
「読んでくれました」
「うん」
男は荷物から何かを出し、膝の上で書き始めた。
待っている間、ロギは木の根へ留まっていた。男が紙を差し出すと、嘴でくわえて戻ってくる。
リシェは両手で受け取った。
濡れた指で触れたらしく、端が少し滲んでいた。
だが、文字は読める。
渡ろうとして足を滑らせたこと。片足をひねり、歩くのが難しいこと。水に入ったのは靴と脚だけで、今は寒さより痛みが強いことが書かれていた。
ゼフィが読み終え、頷いた。
「もう一度持っていってもらえるかな」
今度は、カイルが来る方向を知らせる。リシェは手伝いながら、肩のロギへ呼びかけた。
『ありがとう。助かったよ』
『返事をもらってくるだけなら、簡単だよ』
そう答えて、ロギはまた川を越えた。
*
カイルが向こう岸へ現れたのは、その少しあとだった。
木々の間から出て、まずこちらへ片手を上げる。男のそばへしゃがみ、脚を確かめてから荷物をまとめ始めた。
ゼフィが声をかけると、歩いて橋まで戻れそうだという返事が来た。男がカイルの肩を借りて立ち上がる。
リシェはようやく息を吐いた。
ロギが肩へ戻り、嘴を服へ軽く擦りつける。
『紙、少し濡れてた』
『ごめんね』
『君が濡らしたんじゃないだろう?』
ゼフィは対岸の二人を確かめてから、荷物を持ち上げた。
「私たちも橋へ向かおう。戻る道で合流できる」
リシェはノートをしまい、フィエルを呼んだ。
ずっと足元で待っていた銀白色の体が、すぐに隣へ来る。
歩き出す前に、もう一度川を振り返った。渡れそうに見える岸と岸の間を、水が途切れず流れていた。
*
橋のたもとで合流すると、男は何度も礼を言った。
「鳥が来たときは、驚いたよ。こんなことができるんだね」
ロギはリシェの肩で、静かに首を傾けた。
「助けが来ると分かって、少し落ち着けた」
リシェは赤い羽へそっと触れた。
カイルは男の荷物を持ち直し、道の先を示す。
「歩くのはゆっくりでいいから。街まで戻ろう」
来た道を引き返し、途中で何度か休んだ。予定より遅くなったが、空はまだ明るかった。
男を街の入口まで送り届け、治療を受けられる場所へ向かうのを見送ってから、三人はギルドへ入った。
アリサは話を聞くと、報告の地図を広げた。
「渡り場が使えないことは、先に掲示するわ。道の確認も残りの区間は別に手配する」
リシェは濁った水のことを説明し、地図へ位置を示した。
依頼の範囲を全部見られなかった。
そのことが少し気になっていたが、アリサは記録を読み終えると、紙をきちんと重ねた。
「ここで引き返してくれてよかった。無理に渡っていたら、助ける人が増えるところだったから」
*
ギルドを出ると、カイルがロギを覗き込んだ。
「今日はお前に助けられたな」
差し出された指へ、赤い鳥が片脚を掛ける。そのまま手の上へ移り、長い尾羽を揺らした。
「紙を運ぶなんてよく覚えてたな」
『僕は今日初めてやったけどね』
リシェは笑いそうになり、鞄の口を閉じるふりをした。
カイルの手から肩へ戻ると、ロギは満足そうに羽を整えた。
ゼフィがリシェへ尋ねる。
「今日は何が一番役に立ったと思う?」
炎は使わなかった。
フィエルも戦っていない。
リシェは少し考え、肩の赤い鳥を見た。
「ロギです。それから……地図があって、橋の場所が分かったこと」
「そうだね」
カイルが脇から言った。
「俺が走ったのも入れてくれよ」
「もちろんです」
「よし」
その返事に、今度は声を出して笑った。
街の中では、荷車がいつもの速さで行き交っていた。リシェはフィエルを隣へ呼び、通りの端へ寄る。
朝、地図で見た細い線には、冷たい水が流れていた。
次に開くときは、その音まで思い出せそうだった。




