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星の瞳に映る世界  作者: 夏椿
出会いがひらく世界

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第八十五話 鞄から降りる日


 フィエルは鞄を見てから、リシェを見た。


 前脚を入れるところまでは、いつもと同じだった。だが後ろ脚を収める前に止まり、少し考えるように耳を動かす。


「今日は歩く?」


 尾が揺れた。


 リシェが鞄の口から手を離すと、フィエルはすぐに外へ出た。床へ降り立ち、扉の前で待つ。


 布を敷いて使ってきた鞄には、もう体を丸める余裕が少なかった。抱けばまだ運べるが、長い時間は肩が疲れる。人の多い通りでは必要でも、出かけるたびに入るものではなくなっていた。


 リシェは鞄の中へ、代わりにノートと水を入れた。


『僕の席は広くなったね』


 フィエルの背へ降りたロギが、長い尾を持ち上げる。


『フィエルが乗せてくれたらね』


 リシェが返すと銀白色の顔が振り返った。背の上を確かめてから、また扉へ向き直る。


「行こうか」


 今日はエルネストを訪ねる日だった。


     *


 通りへ出ると、フィエルはリシェのすぐ隣を歩いた。


 人とすれ違う場所では足を緩め、荷車が来れば端へ寄る。ときどき店先の匂いに気を取られたが、リシェが止まると戻ってきた。


 パン屋の前では、少し長く待つことになった。


「今日は買わないよ」


 声をかけると、フィエルは名残惜しそうに鼻を動かした。


 ロギが背の上から覗く。


『あれは前にリリと食べていたもの?』


『似てるけど今日は中に何か入ってるみたい』


『帰りにもう一度見よう』


『見るだけね』


 歩き出すと、フィエルも追いついてきた。


 横を歩く姿を見慣れたつもりでも、店の硝子に映ると、リシェは少し驚く。自分の足元に、こんなにしっかりした体があっただろうか。


 毛に隠れて分かりにくいが、脚も胴も伸びていた。短く跳ねるようだった歩き方が、滑らかになっている。


 リシェは硝子から目を離し、少しだけ歩幅を広げた。


     *


「ずいぶん育ったね」


 エルネストは、扉を入ってきたフィエルを見るなり言った。


「前に見たときと体つきが違う」


「鞄にはあまり入らなくなりました」


 リシェが床へ荷物を置くと、フィエルは空いているところへ座った。ロギがその背から棚へ移る。


 エルネストは近くへ腰を下ろし、まず歩くところを見せてほしいと頼んだ。


 リシェが部屋の端へ移ると、フィエルもついてくる。途中で呼び止め戻ってもらうと、今度はエルネストが脚や背の動きを見ていた。


「最近、痛がったり、片脚をかばったりしたことは?」


「ありません。先生との練習から戻ると眠りますけど、起きると元気です」


「食べる量は?」


「前より増えました」


「この体ならそうだろうね」


 エルネストは以前の記録を机へ出し、今日の様子を書き足した。


 フィエルの種類は、まだ分からないままだった。成長したことで分かる特徴がないか、いくつかの図と見比べても、どれか一つには結びつかない。


 リシェは本の端を押さえた。


「似ているところはあるんですね」


「あるよ。ただ似ていないところもある。今日はその違いが前より分かった」


 答えを急がない言い方には、もう慣れていた。


 フィエルは机の下から顔を出し、リシェの膝へ顎を載せた。


     *


 机の上には、見覚えのある絵も置かれていた。


「あのときの魔獣ですか?」


 リシェが尋ねると、エルネストは一冊の本を開いた。


 茶色の体に、背中の濃い筋。耳の先が黒い。


 ゼフィと森の道で出会った魔獣に、よく似ていた。


「前に教えてもらった特徴なら、これが近い。ただ、君が見た個体の大きさを考えると、まだ若かったのかもしれない」


 リシェは自分のノートを出し、並べて見た。


「尾もこんな形でした」


「普段は人を避ける。姿を見せても近づいてくることは少ない種類だ」


 説明を読んでいると、絵の中の魔獣と、足元まで来た姿が重なった。


 自分を警戒しなかったことが、普通ではなかったのだと改めて分かる。


「フィエルを近くで見たかったんだと思います」


「そうだったね。君自身をどう感じていたかも、気になるところではある」


 エルネストはそこで話を止め、リシェへ目を向けた。


「その後、気持ちの伝わり方に変化はある?」


 リシェは少し考え、フィエルの頭へ手を置いた。


「何をしたいのか分かることが増えました。前は、うれしいとか心配しているとか、それくらいだったんですけど」


「今は?」


「先生と出かけたいとか私に見てほしいとか。帰ってきたときに、何かできたんだなって分かることがあります」


「言葉として聞こえる?」


「いいえ。私が言葉にすると、そういう意味だと思う、という感じです」


 エルネストは頷き、フィエルを見た。


「では今はその違いを覚えておこう。伝わった気持ちと君が考えた意味が、いつも同じとは限らないからね」


 リシェはノートの余白へ短く書き留めた。


 机の下で、フィエルが伸びをする。顎が膝から離れ、今度は扉の方へ歩いていった。


『それは分かりやすいね』


 棚のロギが言った。


 リシェは笑い、筆をしまった。


     *


 外へ出ると、通りの途中でカイルに会った。


「ちびっこ。今日はそいつも歩いてるのか」


「もう鞄が狭くて」


 カイルはフィエルのそばへしゃがんだ。


 銀白色の体へ手を伸ばす前に、顔を見て待つ。フィエルが近づくと、首の横を軽く撫でた。


「本当だ。前よりしっかりしたな」


「エルネストさんにも言われました」


「これからどこ?」


「施設へ戻ります」


「俺はギルド。その前に飯を買おうと思ってた」


 カイルが通りの先を示した。


 行きにも通ったパン屋だった。


 フィエルの耳が前を向く。


 リシェはそれを見て、思わず笑った。


「さっきもここで止まったんです」


「覚えてたのか。じゃあ見るだけ見ていこう」


 店先には、中身の違うパンが並んでいた。果物を煮たものと、肉を詰めたもの。焼き上がったばかりの皿が出てくると、湯気がほどけた。


 カイルが肉入りのものを選ぶ。


 リシェは値段を見て、一つだけ頼んだ。今日は食堂で昼食を取るつもりだったが、持ち帰れば夕方にも食べられる。


 フィエルは足元に座り、包みを目で追っていた。


「お前の分は?」


 カイルに聞かれ、リシェは首を振った。


「施設に用意してあります。これは何が入っているか分からないので」


「そっか。じゃあ早く帰りたいな」


 フィエルがカイルを見た。


 その瞬間、リシェの胸にはっきりした思いが触れた。


 ほしい。


 目の前の包みへ向かう、迷いのない気持ちだった。


「……食べたいんだね」


 呟くと、フィエルがこちらを見上げた。尾が一度、地面を掃く。


 リシェはしゃがみ、鞄からいつもの食べ物を少し取り出した。


「こっちならいいよ」


 手の上へ鼻先が近づいた。


 まだ声ではなかった。でも、さっきよりも意味が近くにある気がした。


     *


 カイルと別れ、施設へ向かう。


 ロギはリシェの肩から、フィエルの背へ戻った。道の端に落ちた花びらを見ようと身を乗り出し、フィエルに振り返られる。


 赤い鳥はすぐに姿勢を正した。


『歩いているときに揺れるの、僕のせいだけじゃないと思う』


『ロギがあちこち見るからでしょう』


『リシェもよく見るよ』


 リシェは反論できず、笑った。


 門が見えると、フィエルの足が少し速くなる。だが、先へ走り出す前に振り返った。


「うん。もう帰るよ」


 声をかけると、隣へ戻ってくる。


 部屋に置いてきた布も、食堂の人も、いつもの作業室も、フィエルにはもう分かっている。


 鞄に入れて運ばなくても、一緒に帰れる。


 リシェは門をくぐり、受付の人へ挨拶をした。フィエルも足元で止まり、彼女が歩き出すのを待った。


 肩に掛けた鞄は軽かった。その中では、買ったパンの包みが、まだ少し温かかった。

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